歌は君だけに届かない
俺がステージ中央に立つのを見計らい、真白いライトが当てられる。
薄暗い中、ぼんやりと浮かぶ観客の姿にペンライト。
闇の中から唐突に現れた俺の姿に、会場内が完成に包まれる。
切望の声。いつ聞いても気分が良い。
少し名残惜しさを覚えながら俺が手を挙げると、観客は一斉に静まり返る。
俺の観客はみな良い子だ。おかげで今日も全力で歌える。感謝しかない。
伴奏が始まるよりも先に、俺は息を深く吸い込んで力を溜める。
そして心持ち顔を上げ、視線を二階席の中央へと向ける。
いつもあの場所へ関係者を招いているが、今日もあの人の姿が見えて口元が綻びかけてしまう。
相坂尚樹――目つきの悪い、地味で寡黙な男。
いつもは短い黒髪に手入れが足らずボサボサなのに、俺のツアー最終日に顔を出す時は髪を整えている。服も見慣れぬスーツでストイックさに磨きがかかっている。
デビュー曲からずっと俺の歌詞を手がけてくれている人。
初めて歌詞を見て心を掴まれた。直に会って歌詞の意図を聞いて、本人に心を奪われた。
『若いからこそ悲恋に打ちひしがれ、それでも焦がれ、捻じ曲げたいと切に願う――強欲を抑えるな。永峰くん、君なら必ず歌いこなせる』
まだ世に出ていない俺に、彼はそう言い切ってくれた。
俺よりも頭一つ背が低く、体つきも筋肉質な俺よりも一回り細いのに、俺には彼が誰よりも大きくて頼もしい導き手に見えた。
歌手・永峰凱斗を一番に認め、仕上げてくれた人。
あの日から俺は彼のことを想いながら、魂を込めて歌い続けてきた。
あと間もなくで一曲目が始まる。
想いを溜めて、溜めて――第一声を放つ。
腹の底から力強く、彼への想いをこの世のすべてに知らしめるよう歌を紡ぐ。
観客の反応はいい。歓声に混じって、感激の涙を流す嗚咽や絶叫すら聞こえてくる。
だが肝心な歌の送り先の彼は、微動だにしない。
腕を組み、しばらくステージ上の俺を見て、フイッと顔を逸らす。
表情はよく見えないが、喜んで歌を聞いている感じではない。
(今日も、なのか……っ)
胸の奥がざわつく。
もっと伝えなければと腹に力を集め、俺は縋るような熱唱を繰り返す。
俺の中はもどかしさと憤りで満たされていく。だが、俺が焦れるほどに観客は盛り上がり、相坂さんは退屈そうによそ見を続ける。
どの曲も彼に捧げて歌っているというのに。
俺の歌は本命だけに届かない――。
◇ ◇ ◇
「お疲れ様でした、凱斗さん!」
新人の女子マネージャーが満面の笑みを浮かべ、俺のグラスへビールを注いでくる。
ビールよりもウイスキーが好きだが、初めてツアーを終えて喜びに浸っている彼女を無下にはできない。俺は何も言わず注がれたビールを喉へ通す。
「ツアーの最終日、いつになく力が入っていましたね! 私、一曲目からずっと鳥肌立ちっぱなしでした」
ボブヘアーを揺らしながら興奮気味に話す彼女に、向かい側に座っていた眼鏡のプロデューサーが短く首を横に振った。
「ハハッ、まだ入り立ての新人マネだな? 違うんだよ、凱斗はいつも最終日だけ全力なんだよ。他が雑って訳じゃないんだが、最終日だけは力の入り方が違うと言うか……なあ凱斗?」
「……まあ最後なんで、力を出し尽くそうと思って」
話を振られて俺は最低限の答えでやり過ごす。
本当のことなんて言えやしない。
最終日には関係者を招待するのが慣例になっている。そこに必ず相坂さんが来てくれるから、自然と力が入ってしまう。
俺は打ち上げで貸し切った居酒屋の隅を、チラリと見やる。
賑わう関係者たちから離れ、誰もいない席でひっそりと静かに酒に口をつけて自分の世界を作っている相坂さん。こういう場は苦手そうなのに、いつも打ち上げには参加してくれている。
十年前と変わらない、俺よりも大人の色気を漂わせた人。
俺ももう三十になって十分大人のはずだが、相坂さんと比べると未だに自分がガキにしか思えなくて困る。
他の人なら年の差がどれだけあろうが気にならないのに、初めて出会った時に感じた五才差の大人の壁を未だに分厚く感じてしまう。
本当はもっと近づきたいのに。
せめて隣の席に座って気軽に談笑できる関係になりたいのに、それすらできずに十年も無駄にしてきた俺は大馬鹿野郎だ。
だが今の距離を一歩でも縮めてしまえば、彼は俺の前から姿を消しそうで怖い。
相坂さんが俺を見てくる目はいつも厳しくて、嫌悪しているように感じてしまう。
仕事だから仕方なく歌詞を提供してくれている。そして仕事を継続するために、最低限の付き合いをしている。いつも笑顔はなく、憂鬱そうな顔をして――。
「――おい、凱斗。こっちの話、聞いてるか?」
プロデューサーに声をかけられ、俺はハッと我に返る。
「あ、ああ、悪い。もう一度言ってくれないか?」
「こっちこそ悪いな、楽しみたいのに仕事の話をしちまって。すぐ終わるから我慢してくれ……凱斗、今度自分で歌詞書いてみろよ」
「……俺が?」
「現状でも売り上げ的には申し分ないんだけどな。ここらで少しお前の幅を広げたいというか、もうデビュー十年目なんだし、次のステージに上がってもいいと思うんだ」
唐突な提案に俺は腕を組んで唸ってしまう。
自分で歌詞を書くだなんて、今まで考えたこともなかった。それに俺は相坂さんの歌詞が好きだ。自分で書くようになったら、今よりも相坂さんと関わることが少なくなる――。
――いや、待てよ?
俺は素人だ。いきなり上手く書ける訳がない。
だからその道のプロに教えてもらうことは、なんらおかしくないはず。
俺はテーブルに腕を置き、身を乗り出して頷いた。
「分かった、やってみる。ちょうど相坂さんがいるから、歌詞のコツを教えてもらおうと思う」
「いいねえ。相坂くんなら丁寧に教えてくれると思うから、頼っておいでよ」
プロデューサーの要望というお墨付きをもらい、俺は一切の憂いなくその場を立ち上がって相坂さんの元へ向かう。
決して俺のワガママではなく、仕事の一環として必要なこと。
嫌な顔をするかもしれないが断りはしないだろう。そんな確信を持ちながらも、相坂さんの近くに行くと動悸がして気後れしてしまう。
俺に気づいた相坂さんが顔を上げる。
視線が合うとわずかに目を見開いたが、すぐに平静な顔で口を開いた。
「……永峰くん。私に何か?」
「あの、相坂さん……前、いいですか?」
相坂さんの動きが止まり、ひと呼吸置いて小さく頷く。
許しを得てテーブルを挟んで座れば、相坂さんはわずかに視線を下げたまま話かけてきた。
「今日のステージも凄かった……君の歌は年を追うごとに迫力が増している。歌詞を提供している身として、とても光栄に思っている」
どこかよそよそしく堅苦しい称賛。彼なりのお世辞だと思っていても、相坂さんの口から直に認めてもらう言葉を聞けて顔が緩みそうになる。
なかなか向き合って話す機会はない。少しでも今まで抱えてきた想いが届いて欲しくて、俺は慎重に言葉を選ぶ。
「ありがとうございます。いつも相坂さんが書いて下さる歌詞のおかげです。切ない片想いや悲恋の歌詞が多いですが、すごく内容が胸に迫ってきて、自然と心を込めて歌えるんです……相坂さんには感謝しかありません」
「それは良かった。書き続けている甲斐がある」
相坂さんが小声で抑揚なく呟く。社交辞令だろうが、好意的な意見で内心ホッとする。
しばらく上辺だけの雑談をした後、俺は本題を切り出した。
「――相坂さん、実はお願いがあります」
「なんだ?」
「プロデューサーから、自分で歌詞を書いてみないかと言われました。俺、まったく書いたことがなくて……相坂さん、教えて頂けませんか?」
俺の頼みを聞いた瞬間、相坂さんの眉間にシワが寄る。
そしてささやかに目を逸らし、口元に手を置いて考え込む。
相坂さんから漂う悩ましげな気配に、ああ歓迎されていないな、と思ってしまう。
キュッと胸が締め付けられ、喉の奥から苦いものが込み上げてくる。
俺を嫌だと思っているだろう相手と距離を詰めるなんて、やはり無謀だった――後悔がどこまでも膨らむ中、ボソリと相坂さんが答えた、
「……分かった」
「え……良いんですか?」
「一度自分で書いて、それを見せに来てくれ。口で技術を教えるより、実際書いて感触を掴んでいったほうが話は早い」
「ありがとうございます、相坂さん」
「事前に連絡をくれれば自宅で待っている。君は多忙だから、都合のいい時間なら朝でも夜でも構わない」
……自宅? 俺が行っていいのか?
正直、嬉しさよりも困惑のほうが大きい。本当は俺と必要以上に関わりたくないだろうに、家の中に招くだなんて。
これはきっとあれだ。家で集中的に教えて、さっさと終わらせて最小限の時間で終わらせようという狙いなのだろう。それなら納得できる。
悪い風に考えて、なるべく浮かれて夢を見てしまわないよう自分を抑える。
それを差し引いても、初めて相坂さんの家へ行けるのが嬉しくて、俺の胸は芯まで熱を帯びた。
◇ ◇ ◇
打ち上げから二日後、俺は言われた通りに自分なりに歌詞を書き、相坂さんのマンションへ向かった。
食事を終えた昼下がりに向かった俺を、相坂さんは無表情で出迎え、中へ招いてくれた。
大きなソファとテーブルが置かれただけの、シンプルなフローリングの部屋。あまりの飾り気のなさが相坂さんらしい。
座って待っていてくれと促され、俺はソファに浅く腰かけて相坂さんを待つ。
うぐいす色の革製ソファ。座り心地はいいが、どうにも落ち着かない。
軽く脚を開き、膝に肘を置きながら息をついていると、コーヒーカップをふたつ手にした相坂さんがやって来る。
コトン。俺の前にカップを置くと、相坂さんは断りなく隣に座る。
拳ひとつほど空いただけの距離。近くて、絶対に触れ合わない距離。ただ相坂さんの気配だけが伝わってきて、なんとも言えない気分になる。
「コーヒー、ありがとうございます」
カップに口をつけて苦い熱を含んでいると、相坂さんは体を捻り、俺に手の平を差し出した。
「まずは君の歌詞を見せてくれ。話はそれからだ」
俺は不透明な黒のドキュメントファイルを開け、書き上げた歌詞を相坂さんへ手渡す。
ルーズリーフ二枚使って書き上げた歌詞。
タイトルは『歌は君だけに届かない』。
いざペンを手にして歌詞を書こうとした時、都合の良いように言葉を並べて作ることなどできなかった。
たった二枚――しかも二枚目は半分も使っていない――を書き上げることが、どれだけ苦しかったことか。
何度も最初の歌い出しを書いては消し、書いては消し……そうやって苦しんで、ようやく出てきた歌詞は、俺がずっと抱え続けてきたものだった。
どれだけ歌っても、想い続ける人にだけ届かない。
今だってそうだ。この歌詞を見ても、それが自分のことだなんて相坂さんは夢にも思わないだろう。
まあ気づけと言うほうが無理な話なのは分かっている。
俺は歌でしか想いをぶつけていない。ステージを降りた、ただの人として相坂さんに好意を見せたことなど一度もないのだから。
ジッと俺の歌詞を見続ける相坂さんの顔を、俺は盗み見るように横目で見つめる。
あっさりとした日本人らしい顔立ち。人ごみに紛れてしまえば、すぐに埋もれて消えてしまいそうなほど、特徴も気配も薄い人だ。
しかし俺の目にはずっと相坂さんが輝いて見える。
少し眠そうな目はどこか色香を漂わせ、小さく横に引かれた唇からは真剣みが溢れ、柔と剛が混じったこの顔が好きでたまらない。
――スッ。相坂さんの目が細くなる。
何かが引っかかりを覚えたような目。嫌悪というか、憂いがあるというか……少なくとも好ましいものを見る目ではない。
顔をわずかに上げた相坂さんは、俺を見ずに告げてきた。
「この歌詞は、このままが一番いい。下手に私が指摘して歌詞を変えてしまえば、途端に陳腐で薄っぺらな無価値なものに成り果ててしまう」
「あの、それは……良いんですか、この歌詞……?」
「正直に言えば、まだまだ拙い。しかし君の心がはっきりと見える。作り物ではない、本音で書かれたものだと誰もが分かる歌詞だ」
まさか、気づいた?
相坂さんの言葉に俺の胸が大きく弾ける。
次の言葉がなくて、静かなリビングに俺の鼓動だけが響いている気分になってくる。
もし気づかれたとしたら、次の言葉は拒絶――俺が心の準備をしていると、相坂さんはわずかに俺に顔を向けた。
「前から気になっていたのだが、君にはここまで恋煩う相手がいるのか?」
……やっぱり気づかない、か。
安堵の裏で少しだけ残念がる自分がいる。十年来の苦しみからまだ解放されないことに絶望を覚えつつ、俺は短く頷いた。
「そうです。ずっと俺には振り向かない、気づいてもくれない……報われることはないと分かっていても、想わずにはいられない人がいます」
「なるほど。だから君の歌は、どれも感情がこもっているのだな。私が提供する歌詞は秘めた恋や悲恋が多い。いつも歌う声にも表情にも深みがあるから、特別な想いを抱く相手へ送っているのだろうと思っていたんだ」
ここまで分かっていても、それが自分のことだなんて微塵も考えたことはないだろう。そうでなければ、顔色ひとつ変えずに俺にこんな話はできないはず。
胸が苦しい。トイレを借りるフリをして、盛大にため息でも吐いて来ようかと考えていると、相坂さんがコーヒーを喉に通した後、話をつづけた。
「君に歌詞を作るようになって十年……その間、相手は変わらずなのか?」
「ええ、まあ……」
「そうか。なら、これは君にとって特別な歌なのだな」
相坂さんが息をつく。諦めの悪い男だと呆れたのだろうか。
思わず俺が視線を逸らして口元を歪めていると、
「永峰君……この歌詞も今までの歌も、君の想いは多くの人に届く。それなのに相手に届かないのは、君の歌が相手だけの特別だと伝わっていないからだ」
スッ、と。相坂さんが俺の歌詞を差し出してくる。
つられるように俺が受け取ると、相坂さんは薄く微笑んだ。
「その曲を完成させたら、最初に聴かせるのはその人だけにするといい。特別だと知ってもらわんと、どれだけ歌っても伝わらん」
「……特別だと知られたら、拒絶されるとしても?」
「君を拒絶する人間がいるのか?」
俺から零れた不安を、相坂さんが間を空けずに拭ってくれる。
相坂さん……俺が嫌ではなかったのか。
少なくとも相坂さんにとって俺は、拒絶されない人間だと思われている。それが分かっただけでも泣きそうになる。
しかし対象が自分だと知れば、きっとこの答えも変わるのだろう。
夢は見ない。
希望は持たない。
そうでも考えなければ、想いを抱えたまま関わり続けることなど――。
「自ら歌詞を手掛けてまで相手に届けたいのだろ? 他人の歌詞では届かないから……もう楽になれ、永峰君」
何も知らない相坂さんが、さらに俺の背中を押してくる。
唇が動きかけ、慌てて俺はグッと固く閉ざして言いそうになった言葉を飲み込む。
貴方のことです、相坂さん……。
声にできなかった想いを胸奥で呟いてから、俺はやっとの思いで相坂さんに応える。
「ありがとうござます。前向きに考えます」
俺の返事に相坂さんが短く頷く。
いつものように読めない表情。だが、心なしかその瞳は温かで、やけに悲しそうに見えた。
◆ ◆ ◆
永峰君が私の自宅に来てくれた。おそらく最初で最後だろう。
いつも彼は私によそよそしく、緊張感を漂わせている。私は彼にとって苦手な人種なのだということは初対面から分かった。
気のせいではない。出会って十年経った今も変わらないのだから……。
そんな苦手な相手のはずなのに、彼は私を頼り、歌詞を教えて欲しいと頼み込んできた。私の歌詞では想いが届かないから、自分で直に届けようとしているのだろうと察するしかなかった。
教えることなどできないと、どれだけ言いたかったことか。
デモテープで初めて永峰君の歌声を聞き、その力強さと時折混じる甘く抜けていく息に心を奪われた。
姿を見ずとも声と歌い方で、彼という人間が私の中を鮮やかに彩り、存在を色濃くした。
そして歌詞を書き上げ、初めてのレコーディングで顔を合わせた時、私は彼から目を逸らされてしまった。
私のような年上の陰気そうな男と、デビュー前でも華のある容姿の若々しい青年――十年経った今も翳りはない――では、最初から住む世界が違う。なるべく関わりたくないと考えるのは当然だと思った。
それでも幸い、彼は私の歌詞を気に入ってくれて、デビュー後も依頼し続けてくれた。
私にとってこの上ない幸せだった。
最初から想いが成就するなど考えていない。私は心を砕いて歌詞を作り、彼に捧げ、歌となってこの世に残り続ける。それだけで十分だと己に言い聞かせていた。
だが、彼はあまりに私の歌詞を素晴らしく歌いこなし続けた。
彼への想いを重ねながら書き上げた歌詞を、彼が情感を込めて歌う――私の知らぬ誰かを想いながら、その相手に訴えるよう歌う。
永峰君の歌は、いつも私に至福と絶望を与えてくれた。
毎回ツアー最終日に関係者席に招待され、真正面から聞かされる彼の歌は、特に私を苦しめた。
私の想いを、私の知らぬ誰かに向けて歌わないでくれ! と、何度大声で叫んで飛び出してしまいたかったことか。
しかし何年も経つ内に、彼の想いが相手に届いていないことに気づいてしまい、安堵と悲しみに私の胸は乱された。
彼の歌はどこまでも心に迫り、この想いに気づいてくれと縋るような切実さがあるのに、歌を向けられている誰かはそれでも応えないだなんて……。
永峰君は私と同じ報われぬ想いを抱え、相手に訴え、伝わらぬことに絶望することを繰り返していた。
本当は彼に歌詞を書いて欲しくなかった。
歌にして意中の相手に届けさせたくはなかった。
でも想いが届かない苦しさはよく分かっていたから、私は――。
『君を拒絶する人間がいるのか?』
『自ら歌詞を手掛けてまで相手に届けたいのだろ? 他人の歌詞では届かないから……もう楽になれ、永峰君』
――彼の背中を押した。
君だけはこの苦しみから抜け出して欲しいという一心で。
私はこれからも歌詞に心を砕いて、この苦しさごと愛しながら君に捧げるから。
ずっと私の歌は、君だけに届かない――それでいい。
一か月後、新曲のレコーディングの招待が届いた。
関係者の意見を取り入れたい。特に作詞家である私の意見が欲しいとのことだった。
「彼が私を頼るというなら、行くしかないか……」
メールでも送れば済む話なのに、わざわざ手紙で知らせてくるなんて。
豪胆そうな見た目によらず彼は細やかだ。そんな一面も愛おしく、私はマンションを出る前に手紙を眺めて口元を緩める。
車でスタジオへ向かいながら、車中で彼の歌を流す。
耳は至福を覚えながら、胸奥は痛くてたまらない。
あの歌詞で彼が歌ったならば、どれだけ鈍い者でも彼の想いに気づくはずだ。
相手が誰であったとしても、今までのように気づかぬままでは済まないだろう。そうして過去の歌がすべて自分に向けられていたと自覚した時、彼に心がなびかぬ者などいるのだろうか?
彼は次の新曲でこの苦しみから抜け出せる――私はそう確信していた。
そして私が永遠に報われぬ苦しみの中で生きることが確約されることも……。
今からスタジオで、私の失恋が決定的になる。
想いが報われる未来など夢見ていないのに、この事実は私を延々と殴り続け、スタジオに着くまでに彼を祝福したい心を瀕死に追いやった。
スタジオに到着し、専用の地下駐車場へ車を停める。
……明らかに車が少ない。
時間を間違えただろうかと持ってきた手紙を確認するが、書いてある通りの時間だ。
首を傾げながらスタジオに入り、コントロールルームへと向かう。
ドアを開けた瞬間、
「相坂さん、来てくれてありがとうございます」
ぎこちなく笑う彼だけがそこにいた。
◇ ◇ ◇
「永峰君……まだ誰も来ていないのか?」
乏しい表情だが、それでも相坂さんが戸惑っているのがよく分かる。
俺は怯えて逃げそうになる目に力を込め、相坂さんと視線を合わせる。
「今日呼んだのは相坂さんだけです。スタジオは貸し切りで、ここには俺たちしかいません」
「なぜ、こんなことを?」
「……隣、一緒に来てくれませんか? 少しだけ俺に付き合って下さい」
相坂さんは目を瞬くばかりで何も応えてくれない。
どこか呆けているような彼の手を掴み、そっと引いてみると、抵抗なく足が前に出てくれる。
どうやら相坂さんはサプライズに弱いらしい。何事も動じない人だと思っていただけに、意外な様子に思わず俺は小さく笑ってしまう。
驚きが収まらぬままの彼を導きながら、ともに録音部屋であるブースに足を踏み入れる。
俺は相川さんと向き合った後、距離を取ってから告げた。
「この間は俺の拙い歌詞を見てくれて、ありがとうございます。相坂さんの助言に従って、俺の特別な人だけを招いて歌を聴いてもらうことにしました」
「特別な人だけ……しかし、私しか呼んでいないと――いや、そんな……あり得ない」
「貴方の答えは分かっています。俺を苦手に思っていることも……それでも、どうか聴いて下さい」
困惑で唇を震わせ、目を見開いたまま、相坂さんは短く頷いてくれる。
ふぅ、と俺の中から一旦息をすべて抜き、大きく吸い込む。
そうして肺と腹に力を溜めてから、俺は歌を発した。
ブースに俺の声が響き渡る。
序盤は静かに、語るように旋律を歌詞でなぞり、徐々に盛り上がっていく王道の構成。
サビは何度も繰り返される『歌は君だけに届かない』。
歌いながら、膨大に盛り込まれた恨みがましさに、俺自身の本音を思い知る。
ずっと君に焦がれていた。
触れ合いたいと夢見ることすら考えられなくて、ただ君の前に座り、君と言葉と心を交わし合える、ささやかな夢ばかり見ていた。
何も望まなかった、なんて綺麗事は言わない。
君の特別になりたかった。特別に見て欲しかった。
君の一番じゃなくてもいいから――一番になれない痛みは覚悟の上だった。
繰り返し紡いだ歌は、すべて君に捧げた特別。
この想いを皆が聴いた。皆が称えた。
でも歌うほどに君は顔をしかめ、僕から目を逸らした。
歌は君だけに届かない。
何を歌っても、僕の歌は君だけに届かない――。
相坂さんは俺の歌を最後まで聴いてくれた。
俺をずっと見つめたまま、信じられないという表情を一切変えずに。
歌い終えた後、しばらく俺たちは何も言わずに見つめ合った。
拒絶はまだない。あまりに信じられない現実に、相坂さんの頭がついてこないといった感じだ。
しかし徐々に相坂さんが変化していく。
ピク……ピク、ピク。頬やこめかみ、口端が小さく引きつる。
何か言葉を作ろうと彼の唇は動こうとするが、まごついて声はなかなか出て来ない。
そしてようやく見えた相坂さんの本音は――涙だった。
「わ、私は、自惚れて、いいのか……? 私が、君の特別なのだと……」
「ずっと貴方を想っていました、相坂さん。デビュー曲から今の曲まで、俺が歌ってきた曲はすべて相坂さんへ向けたものです。困るだけなのは百も承知ですが、ただ知ってもらえるだけで俺は――」
「私も、君のことをずっと想いながら、歌詞を書いていた。気づくことなどないだろうと絶望しながら、それでも君に歌詞を捧げたくて――」
互いの実情を話して、俺たちは見つめ合ったまま固まる。
「……俺たち、両想いだったんですか」
「……らしい。ずっと相手に想いが伝わらないと、お互いに十年も嘆き続けながら」
俺たちは口を閉ざし、同じように目を瞬かせる。
――そして同時に吹き出した。
「ハハッ、我慢せずにさっさと言えば良かった! 相坂さんに避けられていると思ったから、ずっと抑えてきたのに……っ。少しでも目が合ったら逸らされてたし」
「照れていただけだ。君の性格なら、悩むより当たって砕ける道を選ぶんじゃないのか? 私の時だけ借りてきた猫のように大人しくなって……苦手意識があるとしか思えないだろう」
「好きな人の前で普段通りでいられますか? 緊張していたんですよ。ただでさえ嫌われていると思っていたのに、素を見せて幻滅されたら再起不能間違いなしでしたから」
「そんなに繊細なところがあるなんて、気づくはずがないだろ。君は大御所相手でも言いにくいことを堂々とぶつけていたというのに。なぜ私なんかに恐れたんだ。言ってくれたなら、その言葉で骨抜きになってなすがままだ」
「相坂さん、それほどだったんですか!? あー、バカやらかしたぁ……っ」
話ながら笑いが止まらない。十年分の緊張感から開放されて、二人して頭も心も混乱しているようだった。
それでもさすがに疲れてくると笑いが消えていき、ようやくまともに俺は相坂さんを正面に捕らえる。
ずっとあると思っていた分厚い壁は何もなかった。
ようやく俺は勇気を出して自ら相坂さんに近づき、その背に手を回した。
肩幅のある硬い男の体。明らかに柔らかな女性とは抱き心地が違う。
俺と同じものを有している体。それが今はたまらなく嬉しい。
ギュウッ、と強く抱き締めれば、より腕の中で相坂さんの存在感が鮮やかになる。
ああ、夢じゃない……っ。
信じられなくてさらに腕の締め付けを強くすると――ボキッ。相坂さんの背中が鳴った。
「あ……っ、すみません、つい……」
「いや、これはいい。背中がスッキリする。それに私を現実に戻してくれる」
なんとも格好のつかない抱擁に、どちらともなく笑ってしまう。
延々と遠回りし続けた俺たちが、いきなりスマートなやり取りなんてできるはずもない。
二人して三十を超え、場数を踏んできたはずの男なのに……。
だから首を伸ばして交わし合う口付けも、唇の先が触れ合う程度のささやかなものだった。
これが今の俺たちの精一杯。




