二話
アルメダは街から離れた小高い丘の小さな屋敷でエンリを養育し始めた。
朝起きると近くの小川に行って、ふくらはぎ辺りまで水に浸かってじゃぶじゃぶと顔を洗う。
季節はまだ二月の寒さが厳しい時期である。エンリはガタガタと震え、唇は真っ青になって顔は白く染まる。泣き出すかな、と思っていたが意外にも耐えた。それを毎日やった。
「いいですか? 辛いことをやりなさい。もし悩んだら辛い方を選ぶんです。それが男を強くします。分かりますね?」
もちろんエンリだけにはさせずアルメダ自らも率先してやった。
アルメダとエンリは確かに血の繋がりはあるが、逆に言えばそれしかない。そして血の繋がりほど不確かな頼りにならないものもない、わたくしたち姉妹が良い証拠じゃないかとアルメダは思った。だからアルメダは辛いことをエンリにさせるだけではなく自らもやる。それで初めてエンリとの心の繋がりができると信じた。
体が強くないアルメダにとってこれはかなり辛かったがエンリを引き取り、立派な男にすると決めた以上これを自分の人生の仕事にする覚悟をもった。
その姿を見て老僕の婆やは目ン玉が出るほど驚いたがなにも言わなかった。アルメダの考えがよく分かったのだろう。
さらに着るものも質素にし、どんなに寒くても重ね着などしない。洗濯も自分でさせたし破れたりほつれたりしたら自分で直させた。食事も最低限で済ませるようにした。
アルメダもすべてのことをエンリと同じようにした。老僕の婆やが仕事がないと困ったほどであった。エンリは老僕の婆やにもよく懐き、婆もエンリを愛した。一緒に遊んでやったりはしたが食べ物や甘い物をエンリに与えることはなかった。アルメダが厳しく禁止していた。
読み書き計算も教えたがそれほど長い時間はさせなかった。それより外に出し近所の子と交わらせた。
喧嘩したのか怪我をしてくることもあったが別になにも聞かないようにしていた。手当だけをしてやった。
傍から見るとアルメダは妹の子供を押し付けられて酷く当たる女に見えたかもしれない。
冷たい川で洗面させ、粗末な服を着せ、食事も質素で怪我をして帰ってきてもなにも言わない。確かに冷たい女に見えただろう。
傍からはそう見えても実情は違うというのはよくあることで、アルメダも一ヶ月も同じ屋根の下で過ごす頃にはエンリのことが可愛くて可愛くて仕方ないようになっていた。子の望めない体だからか、アルメダの心は自然になんの抵抗もなくエンリを慈しんだ。
凍えながら顔を洗うのを見れば泣きそうになり、寒そうにしてれば抱きしめたくなり、食事も毎回うんと豪華な物を与えてやりたかった。
怪我をして帰ってきたら本当は医者に見せ、エンリに怪我をさせたところに行き文句を言ってやりたかった。
だがそれら一切をアルメダは我慢した。
すべてエンリのためにならないと思ったからだ。エンリを甘やかして二人でベタベタと仲睦まじく暮らす。そうできたらどんなに良いか。
でもそれはエンリのためにやることではない、自分のためにやることだ。エンリの柔らかな体を抱きしめサラサラの髪を撫でてやりたい、食べ物をお腹いっぱい与えてうんと肥えさせてやりたい。その想像にアルメダは涙が出るほど誘惑される。
だがそれは犬畜生の愛情だ。ただ可愛がるだけの愛情は愛情ではない、それはただの毒だ。
エンリはたまに庭に出て、呆けたように空を眺める。眺めているうちに一筋涙を流す。決して声はあげず、涙も一筋だけしか流さない。
空を見てなにを思っているのか、それは誰にも分からなかった。
「お母上」とエンリがごく自然に呼ぶようになったのは夏になる少し前の頃だった。アルメダはあまりの嬉しさに飛び跳ねたくなったがやはり表面上はすんと澄まして「どうしました? 」などと返事をした。
ある日エンリがどこからかもぎってきた向日葵を水を張った壺の中に入れて見ていた。エンリはあまり笑わぬ子であったけどその向日葵を見てニコニコしていた。
なにがそんなに気に入ったのかは分からないがそんなに気に入ったなら庭に向日葵の種を植えてみましょうかとアルメダは言った。
エンリは駆け回るほどに喜んだ。翌日庭にアルメダとエンリと婆やで向日葵の種を植えた。
毎夜そっとアルメダはエンリの部屋を覗く、そこにはエンリの可愛らしい寝顔がちょこんと寝具から顔を出し、呼吸をしている。エンリを預かってからずっと一緒に寝てやることはなかった。必ず一人で寝かせた。
なんて可愛いのだろうか。私にも子がもしできたらエンリのように可愛らしいのだろうか。自分の子ならエンリよりも可愛く感じるのだろうか。それは信じられない想像だった。これ以上なにかを愛おしく感じることなどできないだろう。
預かるときはあれほど勝手なと思ったくせに、この日々を与えてくれたカルミアやツァイスにアンネは感謝した。今頃どうしているだろうか、うまくやっていればいいが。
庭の向日葵が育ち花が開いた。それをエンリは飽きずに見ている。
「お母上、しっていますか、向日葵は太陽を見ているんです」
エンリがそう呟くように言うとアルメダは頭をガンッと殴られたような衝撃とともにこの子は天才なんだと思った。
向日葵が太陽に向って咲くなんてみんな知っている。しかし、それは教えられたからだ。だがエンリは自らそこに辿り着いた。
どうしたら良いのか考える。やっぱり優秀な家庭教師でも二人くらいは付けるべきかしら。
「と婆やが言ってたんですが、本当ですか?」
「本当ですよ。みんな太陽の方を見ているでしょ」
どうやら家庭教師は婆やで十分なようだった。
いつしかエンリは庭に出て泣くことはなくなった。毎朝小川でじゃぶじゃぶと顔を洗っている。
そして一年があっという間に過ぎた。
王都からカルミアから手紙が届いた。ツァイスの活動は非常に上手くいっているらしい、好事家たちが絶えず争って蒸気の力を見学しにくるんだということが延々と書かれてあった、しかし最後に最近少し入用になってしまったのでお金を送ってほしい、ほんの少しでいいからお願いしますと書いてあった。エンリのことを尋ねるようなことはなにも書いてなかった。
アルメダはすぐにある程度の金を送ってやった。
ツァイスが成功してようが失敗してようがどうでも良かった。だが生活苦にだけはなってもらいたくなかった。
生活を切り詰めあのエーデンという子が死ねば……最近その恐怖が絶えず付き纏う。
それと言うのも二週間ほど前にエンリが話していたことが気にかかるのだ。
「お母上、昨日マーチャンとレンチャンが喧嘩をしていました」
その日アルメダとエンリは庭を歩いていた。冬なので向日葵は咲いていない。最近エンリは近所の子供たちの話をよくする。
「マーチャンがレンチャンに二粒しかない飴玉を一粒渡してねぇ一緒に食べようって言ったそうです」
「マーチャンは優しいんですね」
「それが飴玉を食べようとしたときマーチャンはその飴玉を落としてしまってレンチャンにその飴玉を返せ!って言うんですよ」
そこまで聞いて胸がきゅっと痛んだ。まるでなにかを暗示させる寓話ではないか。
「レンチャンは貰ったものは返せないって言ったらマーチャンが怒ってしまって取っ組み合いの喧嘩になったんですよね」
そこでくすくすとエンリが笑った。
「エンリはその話、どう思いますか? 」
「どうってどういうことですか?」
「エンリがレンチャンならマーチャンに飴玉返しますか?」
「そりゃあ返しますよ」
エンリは即答した。なんの迷いもなかった。
「だってマーチャンが最初二粒しかない飴玉を一緒に食べようとしてくれたのは本当ですからね、その気持ちだけでもありがたいと思います」
いい子に育ってくれている。心からアルメダは思った。この子を今更手放すなど考えられない。想像するだけで恐ろしい。きっともう生きていけない。
だからアルメダはカルミアの成功を心から祈っている。
成功して栄達してわたくしたちのことを忘れてください。