一話
「この子を預かっていただきたいの、いえ預かるというより貰ってください。そしてファーラン家を再興させるのが亡き父上のためにもよろしいかと思いますが、姉上いかがでしょう」
アルメダ・ファーランはいきなりそのような事を話し始めた妹であるカルミアの顔をじっと見る。
相変わらず美しい女だ、と思う。彼女は夫と今年五歳になる長男エンリを両脇に置き、自らは乳飲み子を抱えてわたしの前に座っている。この乳飲み子の名前はなんだったかな、と思い出そうとするがどうにも出てこない。そうだ、まだ聞かされてないのだ。知らないはずだ。
アルメダはひっそりと老僕の婆やと街から離れた小高い丘に建てられた小さな屋敷で静かに暮らしている。
カルミアが家族を連れてそこを訪ねて来たのはまだ寒気の強い二月のことだった。
ファーラン家は先代である父の代で途絶えてしまった。アルメダとカルミアの父は三年前に肺を病み死に、母は五年前に肝臓を病んで死んだ。
子供はこの姉妹しか居らず。妹のカルミアは他家に嫁ぎ、アルメダは病がちであり子どころか結婚も望めない体であった。
それならばいっそ王家に禄をお返ししようと父は望み、それは達せられた。
元々ファーラン家は父より三代前に興った新興の準貴族であったので父はさほど家名というものに執着していなかったようだ。
アルメダは昔から仕えてくれてる婆やを雇い、禄を返した代わりにと国から与えられる年金で暮らしていた。
その年金でまだ二十七歳でありながらアルメダは隠居のような、ただ季節が過ぎていくのを眺めるだけの生活をしていた。
思い返せば幼いときから妹のカルミアは派手好きであり、勝ち気であり、ワガママであった。不思議なものでアルメダから見るとそれは欠点にしか見えないのだが、美しいというだけで男から見ればそれらは美点に変わるようだった。
昔から人に囲まれていたカルミアとは対象的にアルメダは病に臥せり、自室で本を読む生活をしていた。
一時は自らの運命を呪い、妹を妬み、世の中を深く憎悪したものだが二十七になるアルメダの身からはそのような心の染みはすっかり抜けていた。
二十七のアルメダより七つも年下のカルミアは子を二人設けたとは言え、いや設けたからこそなのか大輪の花のような妖しげな美しさを誇っていた。
「どういうことですの、話が見えませんわ」
事実アルメダには話が分からなかった。
カルミアの夫であるツァイスは優秀な魔法学者であり、さる伯爵家のお抱えとして禄を食み何不自由ない生活をしているはずだった。
ツァイス・レンガ、今となっては妹の旦那となった男の顔を見る。
彼とは実はアルメダが十歳、ツァイスが十三の頃まで許嫁の関係であった。無論幼かったカルミアは知らないはずだ。ツァイスが話してなければ、だが。
ファーラン家とレンガ家は交流があり、ツァイスの方がアルメダを望み婚約が成されていた。しかし不幸が起こった、アルメダが大病に倒れ治癒したもののこれから先慢性的な体調不良に苛まれ、子も望めない体になってしまった。
ツァイスは嘆き悲しんだがそれでもアルメダを望んだ、しかしレンガ家の方が難色を示し、父も遠慮して破談となった。
それからまったくの偶然でカルミアはツァイスと出会い、あっという間に婚約、結婚となった。カルミアもまだ幼いくらいであったのにあまりのトントン拍子に進む縁談になにか理由でもあるのかと思えばすぐさま子が生まれ、アルメダは納得した。
両家の間でどのようなやりとりがあったのかは想像できないがおそらく相当に気まずかったに違いない。カルミアがもし知らされていなければ可哀想だとも思うが伝えることもまた可哀想であった。
「実はツァイスは職を辞してきましたの」と目を伏せながらカルミアは言った。
「もちろん、こちらからお願いしてお暇をちょうだいしたのです。姉上もツァイスの才能は知っておられるでしょ? あのようなところに縛られていては才能が枯れてしまいます」
「おい……」
堪らずツァイスが口を出そうとするがカルミアは彼の太ももを叩き黙らせる。その姿を見ると胸に痛み生じてくる。
不意にアルメダは熱い陽射しの中彼が日傘を持ち、屋敷にあった向日葵畑を散歩したのを思い出す。その照らされた横顔は美しかった。
「ツァイスはこの蒸気というものを使って新しい魔法ではない力を……」
過去に浸っていたアルメダは我に返るとなにやら力説しているカルミアを手を上げて止めた。
「それでいったいわたくしがどうしてあなたの子を預かることになるの?」と言った。
「いえ、貰っていただきたいの、理由は……その……」
アルメダに喋りを止められたカルミアは少し不満気な顔をしていたが表情を変える。
さあ言うぞ、さあ言うぞというような、覚悟しているのかしてないのか、今このときに至っても逡巡しているかのような妙な表情であった。
そこでおぎゃあとカルミアの抱く乳飲み子が泣き始めた。カルミアはなんの躊躇もなくあらあらと言いながら乳をさらけ出すと子に飲ませてあやし始める。
アルメダはあのカルミアが身内しか居ないとはいえ、無造作に乳を出し飲ませることに驚いた。これが母になるということかしらと思ったりもした。
アルメダはカルミアたちを観察している。
皆、一様に疲れているし着ているものも粗末である。これはカルミアの自尊心的に大いに不満であろう。わたくしに頼み事をするのに自分の困窮を見せるというのはカルミアにとっては耐え難いもののはずだ。で、あるのにこの姿なのはよっぽどのことなのだろう。
自ら職を辞した、というのも本当のことであるか疑わしく感じる。
「私たち王都に行こうと思いますの」
「王都に……」
ずいぶん遠い、ここからかなりの日数になる。
「王都で新しい発見である蒸気の力を地位ある人に認めてもらって、ツァイスを栄達させる。そのためなら私なんだってします」
そこまで聞いて話が見えてきた。
つまり王都まで行く旅で足手まといになるこの長男を置いていきたいのだろう。幼子であるこの子の足に合わせての長旅は確かに難儀するだろう。
「こう言ってはなんですが姉上はご病気で子供もつくれませんし、ご結婚もされないんでしょ? ならばこの子をお育てになってファーラン家を再興させることが亡き父上への孝行の道だと思いません?」
アルメダはこの妹は相変わらず勝手な言い方をすると思ったが別段腹は立たなかった。カルミアという妹はこういう人間なのだ。
ただずっと顔を伏せているエンリが哀れでならない。頭上で自分の母親が自分を捨てる相談をしていると理解しているのだろうか。
「よろしいの? 嫡男でしょう? 」
「大丈夫ですわ、まだこの子、エーデンも居りますし」と掻き抱く乳飲み子の存在を知らせるように揺らす。男の子であったようだ。
「ツァイスさんは如何考えているの?」
「はい、わたしも、妻がそう考えているなら……」
ツァイスを見てアルメダは眉根を寄せる。
昔は容姿こそ平凡だったがきらきらと輝くような知性とそれによる自信を感じさせたものだが、今やそこには完全にカルミアに支配され征服された男の姿しかなかった。
過去の美しい思い出であるはずの、あの向日葵畑でさえ汚し、塗り潰されるような不快感がアルメダの身に起こる。
多弁なカルミアよりも促されないと喋りもしないツァイスの方をアルメダは嫌悪した。
まだ自分は捨てられたことを恨んでいるのか? だとしたらなんと狭量な女なのだろうか。それに誰が悪いと言えば私が悪かったのではないか。
そう思って落ち着こうとするもはやり苛立ちは募り自然言葉も固くなる。
「ツァイスさん、カルミア。この子をファーラン家の子にするのは、構いません」
「姉上! 」
ぱっとカルミアの顔が安堵のために華やぐ。腹を痛めて産んだ子を置いていくのがそんなに嬉しいかと身の内に怒りが燃え滾りそうになるがなんとか抑えて言葉を紡ぐ。
「しかし、いいのですかカルミア。一旦手放せばもうあなたが母心を出しこの子を返してほしいと言ってもそれは通りませんよ。後悔しませんか? よく考えてのことなんですよね」
「それはもちろんです。こちらからお願いしたことですのよ、そのようなこと決してありません」
「そうですか、ならば喜んで養育致します」
「あぁ……良かった。これで安心して王都に行けますわ。ほらエンリ、伯母上様……いえお母上様にご挨拶なさい」
そこでこの屋敷に来て初めてエンリが顔をあげた。幼い頃のツァイスによく似ていた。もちろんまだずっとエンリが幼いがこれから成長していくと瓜二つになりそうだった。
「……よろしくおねがいします」
その声を聞いてアルメダは衝撃を受けた。この子は父と母が自分を捨てたことを理解していると直感した。それでも堪えた。なんといじらしい。
このまま枯れていくだけだったわたくしにどれだけのことができるかわからないけれどもこの子を立派な男にしてあげよう。そうアルメダは思った。