第一章・第一話 再びの大地08
『それにしても。先ほどの者は我を魔物とか罵りおったが、何とも無礼な人間だ』
「ふふ、そうね。確かにイブリースに仕える霊獣に対して魔物は無いわよね」
あの青年や、青年の報告によって恐らく騒ぎになっているであろう町の住人たちを安心させるために二人は辿った道を戻る。
ちなみに、由那やシャオウロウが先ほどから話している魔物や霊獣というのはこの世界の獣の区分だ。この世界での獣は人に慣らされる飼獣、魔物と呼ばれる人を襲う妖獣、そしてジンの配下に下った霊獣の3つに分けられる。
飼獣は一般的な獣を指すので、人に手の負える獣と言う意味で野生動物も飼獣の位置付けにある。そしてそれ以外の人に害を与え、気配に淀みを持つ、人肉を好んで人間を惨殺することを考える凶悪な獣を妖獣。人は恐れをなして魔物と呼ぶ。
そしてシャオウロウのようにジンの配下に下った獣や神聖な力を宿した獣を霊獣と呼ぶのだが、これは一般の人間社会には空想上の獣として扱われている。彼らの存在を知る者は、古からの歴史や様々な知識に精通した限られた巫師、そして一国の王族やそれに仕える身分の高い一部の者たちくらいだろう。それこそほんの一握りの。
「とにかく、シャオは安全だという事を理解してもらわないとね」
多少、いや。かなりの『方便』を使うことにはなろうが、彼は決して魔物などではない。それだけは確かであるので、危険性はない事くらいは納得してもらわなければなるまい。
まさか彼が霊獣である事、ましてや由那の正体を明かすわけには行かないだろう。明かせと言う方が無理である。
そのことについてはもう覚悟している。下手に人を刺激することが良くないことを理解した時から、いや。この世界に渡ってきてしまった時点で、彼女がこれから出会う人々を欺き通さなければいけない覚悟はもう出来ている。
彼女の存在が彼らに与える影響など十分すぎるほどに心得ている。過去にこの世界を、この世界に生きる者全てを慈しんでいた時もそうてあったように。
この世界を壊したくないと願い続ける限り、彼女のその意思は変わらない。
『ふむ。仕方あるまい。我もなるべく飼獣らしく振舞っておくこととする』
多少不満があるのだろう。憮然とした声でシャオウロウは由那の言葉に頷いた。
「ありがとう。もう少しで森を抜けるから、お願いね」
シャオウロウの態度に苦笑しつつ、由那は頭の中で構想した『方便』を整理するように小さく息をついた。
「…と言うわけでして、この子は私の飼獣なんです」
森を抜けてすぐ。先ほどの青年と、青年が引き連れてきたであろう十数名の大人たちに事情を説明した由那は内心盛大なため息を付く。
由那が彼らに説明した筋書きはこの通りだ。
シャオウロウは由那が北の地を旅していた時に契約を交わした、白狼という種類の『飼獣』である。この辺りで見かけないのは白狼が北方の山奥にしか生息しない僅かな種族であり、そして巫の力を持たない者には扱いが難しいのであると説いた。
青年が感じたシャオウロウの持つ威は、巫師と契約した時に由那との力の結びつきによって現れたものだと適当に誤魔化しておくことにした。
確かに由那の説明は8割方あってはいた。
シャオウロウは白狼という種の『霊獣』であるし、北の地の山奥に群れを作っていてそこから滅多に出る事はない。力も矜持も高い彼らは滅多に他者に従うことは無く、むしろ彼自身が王たる資質を持つ存在だ。
「それに、もしシャオが魔物であるなら、あなたが初めに出会ったときにもう襲っているはずです。そしてこうして私に従っているはずも無いですよ」
由那は彼らを安心させるように微笑んだ。
彼女の穏やかでかつ巧みな説得は、始めシャオウロウを見て混乱していた人々の心を落ち着かせると同時に冷静な判断力を取り戻させたようだ。聞けば聞くほど合点がいくその説明は、当然彼女が狙って説く説明。彼らが納得しないはずが無い。
そして由那はとどめとばかりに最後の言葉を紡ぐ。
「魔物は纏う気配は愚か、見た目が醜いものが多いと聞きます。あなたたちはこの子のように美しい姿の魔物を見たことがありますか?」
にっこりと微笑んだ由那の言い分はずいぶんなものだが、確かに魔物とは殺戮を好み、人肉を糧とする獰猛な獣。その姿は人の流した血で穢れ、空気すら淀ませる禍々しい気配を持っている。
稀にその姿で人を魅了するものもいないとは言えないが、それはやはり魔物と呼べるものたちではない。このシャオウロウと存在を同じくするもの。そう、霊獣だ。
霊獣は人肉を糧とするわけではないが、人を襲わないわけでもない。もちろん魔物とは違い、好んで襲うわけでもないが。
しかし全てを説明する気のない由那はそんな突っ込んだ事情を言うわけがない。それにシャオウロウは主である由那の命令には絶対に従う。彼女が人を襲わせるような命令などしようはずがないし、主人の身を危険にする人物がいない限りシャオウロウも人間を襲う事は絶対にしないだろう。
その点では、この町の人々に危害が加わる事はまず無いと言い切れるだろう。
「ですから安心してください」
終始穏やかな微笑みを携えた由那は、説明が効いている彼らに更なる安心をさせるようにシャオウロウの喉を撫でてみせた。
「その様子だし大丈夫だろう。見慣れない事は確かだが、この獣が魔物には私にも見えない」
恐らくこの中で一番偉い立場に居るであろう壮年の男性。彼は由那の言葉に納得したように頷く。
その格好がかなり物騒で重装備であることを見ると、青年がどれほどの説明をしたかが自ずと分かる。半ば呆れてしまっても無理は無いと思う。
彼はシャオウロウの頭を二、三度撫でると、その感触に安心したように微笑んでみせた。
「まったく。カイル、お前は常々もう少し落ち着けと言っているだろうに」
「しかし、ディックさん」
あの状況では無理だろうと言うようにカイルと呼ばれた青年は不満そうな表情をする。
「本当だぜ。お前はもっと落ち着きを持てよ」
「まったく人騒がせだな」
「驚かせやがって。あー、疲れたぜ」
この場に慌てて集まっただろう人々は、由那の説明に納得した様子でそれぞれカイルに文句を募っている。
その文句を浴びながらも不満そうに言葉を返す彼もなかなか諦め難い性格のようだ。確かにあの時の融通の利かなさからして当然のようにも見える。
「あの、そんなに責めないであげてください。シャオと逸れてしまった私にも非がありますから」
魔物と勘違いさせてしまうような飼獣を離して見失ってしまった自分にも責任があります、と由那はカイルを庇う。
もちろん人騒がせで落ち着きの無いところは心の中で賛同するが、それでもシャオウロウがこんなところに姿を現したのは由那がこの町に無作為転移してしまった事が原因なのだから。
我は飼い犬とは違う、とでも言いたそうに不機嫌な表情をしているシャオウロウに苦笑しつつ由那は彼らに微笑んだ。
「君は優しいなぁ。バカイルを庇うなんてさ」
「だな。もっと反省させるべきだろ、こんな馬鹿」
「ひ、酷いな! と言うか『バカイル』って何だよ」
由那をすっかりと信じた町の男たちはもう完全に安心しているらしい。先ほどまで強張っていた表情が嘘のように消えている。そして恐怖の対象として見ていたであろうシャオウロウに近づいても来ている。正確にはその隣の由那に、だが。
「ふふ。でも良かったです。信じてもらえて」
ひどく弄られているカイルをよそに、由那は安堵したように微笑んだ。
「ようやく街道に出ましたね」
「ああ。そのようだな」
由那の言葉に年長の男性が答える。森を抜けてから彼らと合流したと言っても、まだ緑生い茂る小道であったのでようやく街道まで抜けた事で一行の安堵感はより増したことだろう。皆先ほどにも増して表情が明るい。
それにしても彼らを説得する事にかなりの時間を割いていたようだ。陽光を遮る森の中を抜けても、辺りは赤々とした夕焼け空が日暮れを告げている。
「それでは、私は先を急ぎますので」
日が完全に落ちる前に移動すべきだと判断した由那は、町に戻る彼らに頭を下げると一歩引く。このときの由那は、早く人目に付かない場所まで行って今度こそ正確に安全な場所まで転移しなければいけないという事と、この世界に来て初めて迎える夜に対しての野宿やその他の対策等で頭がいっぱいだった。
だから当然、この後に彼らが言うであろう言葉を推察できなかった事は言うまでもない。
「何言ってるんだ。既に日も暮れかかっているんだぞ。なのに君みたいな少女を、例え飼獣を連れているからと言って送り出すわけには行かない」
「………」
しまったと思ったときにはもう遅かった。
「そうだぜ。他の地域に比べたら穏やかなほうだけど、この辺りにも魔物がいないわけじゃないからな」
「そうそう。こんなか弱いお嬢さんを日暮れに森へ送り出すような輩はここにはいないよ」
畳掛けるように先ほどカイルをからかっていた男たちが言ってきた。これはどうあっても送り出してもらえる雰囲気では無さそうだ。
そして、年長の男性がとどめの一言を言う。
「それに泊まる場所なら気にすることはない。まだそれほど発展してない町だから宿屋はないが、こいつの家に泊まらせてもらえばいい」
「ほぅあ!?」
それまで他人事のようにぼけっとしていたカイルが、突然指差されて吃驚している。その様はちょっと哀れだが、常時のように呆けている彼も彼だ。
年長の男性は若干白い目で彼を見つつ、困惑気味の由那に対して安心させるように微笑む。
「君はカイルの魔物騒ぎのせいで、それを説明するためにここに足止めを食らって予定を狂わされたんだ。その責任はしっかりこいつに取らせるから遠慮しなくてもいい」
確かにこんな時間まで留まることになったのは彼が一枚噛んでいると言える事だ。気遣ってくれる彼の好意は本当にありがたいが、それ以上に由那には断りたい事情がままある。と言うか、断固阻止したい。
微笑む男性の言葉にあんぐりと口をあけているカイルは更に哀れさが増している。だがあえてそれには突っ込まず、由那は苦笑するのみで答えたのだった。