第一章・第一話 再びの大地07
青年が大慌てで走って来たであろう足跡を辿り、由那は森の道なき道を進む。その距離と比例するように彼女の秀麗な表情が険しく、また一段と険しくなっていく。
それは先ほど感じた違和感、ぴりっとした気配の正体を探っているためだ。
進めば進むほど感じる気配。近づけば近づくほど確信になってくその違和感。
いや、それはもはや違和感とは言わない。なんとも懐かしい気配。胸の奥が熱くなる程の懐旧が思い起こされる。
「やっぱり…あなただったのね」
気配をたどって進んだ森の奥深く。そこだけ辺りとは違い、緑が生い茂る木々を避けるようにして開かれた水晶の岩場。それは、この者が好みそうな場所だった。
その場所で由那が向かってくる事を待ち望んでいたように、しかしとても静かに佇んでいる。
そこにいた者に由那は微苦笑した。
佇む者は人ではない。それは獣。純白の獣。
水晶の光を浴びるように美しく輝くその真珠のような毛並み。その純白さには不似合いにも思える漆黒の瞳は、小気味が良いほどに澄んだ色を落とす。
まとう雰囲気は王者のもの。本来は傅かれてこそ彼の威厳が調うそれは、しかし由那に礼を取るように頭を垂れる。
そのしなやかで優美な礼は、厳かでいて親愛の溢れる心穏やかなものだ。
『我が主よ』
人とは異なる声。人ならざる言葉。だが由那にはそれが理解出来た。出来ぬはずがない。
確かに、先ほどの青年が彼を魔物と呼んだ理由に得心がいった。彼の持つ力はある意味、魔物のそれと同等。いや、比べるまでも無くそれ以上の絶大なる力だ。見る者が見れば分かるその雰囲気も、あの暢気そうな青年では魔物の発する淀みのような気配と混同したとしても無理はない。
しかし彼の気配は、由那に言わせればもっと気高いものだ。
「久しぶりね、シャオウロウ。でもまさか、こんなにも早くシャオに会えるとは思わなかったけれど、ね」
由那がこの世界に来たのはほんの1、2時間前。そして直ぐにステルスを張ったので気配すら悟られない確率の方が高い。むしろ悟られる事が稀であるのだが、しかしこの目の前の彼はそんな事を問題ともせず由那の元に現れたのだ。
『我は主の帰還を切望していたゆえ…』
そう言って不機嫌でいて、どこか悲しげな表情をする純白の獣。その彼の名は由那の呼んだとおり、シャオウロウだ。しかし彼の正式名称は紗王楼という。この世界に漢字があるわけではないが、表記的にはこう記した方が近い。
彼の故郷がある国は文字一字ごとに意味を持つ、日本のような言語形態が発達していた。それはすでに失われた古語で、先ほど由那が発した言葉が世界で一般的に使われている共通語だ。それは言わば英語などの形態に近く、単語ごとで意味を成す。
共通語の普及率はほぼ100%で、国独自の言葉は方言のような扱いであり、古文書の解読などの歴史的分野でのみに扱われる場合がほとんどだ。もちろん、独自の言語を日常生活に使用している地域も無いわけではないが。
ちなみに彼の、紗王楼という意味は人間が口にするにはあまりよい意味を持たないようで、むしろ相手を縛る効果のようなものもあるためにその意味は彼しか知らない。由那など力のあるものが名を呼ぶ事で更に力を発揮するため、彼女も共通語での言語で彼を呼んでいる。彼の祖国の言葉で呼んでも意味さえ知らなければ問題ないが、それでもあまり良くないものなのだ。
「ありがとう、と言うべきかしら? でも、私はもうあなたの主ではないはずよね」
苦い表情を見事に消し、意志の強い凛とした声が響く。
かつて北の大地を統べる百獣の王としてその絶大なる力を轟かせ、その力の全てを己が君主と認めた暦道のイブリースに捧げた獣。しかしそれは過去の事であり、例え生まれ変わりとは言え、由那はもはやジンではない。
静かにそれを告げるような視線に、しかしシャオウロウは首を振る。
『否。我が主は其方だ。遠き過去に、だが決して忘れぬ時の過去に。我はその御魂に誓いを立てた。例え姿が、その器が変わろうとも、主は我が主であることには変わり無い』
その御魂に誓って。と言うようにシャオウロウは再び頭を垂れる。
そんな彼の様子に苦笑し、由那は小さくため息を付く。その表情は困ったような、しかし何処か穏やかで嬉しさを感じさせるものがあった。
「やっぱり私と契約した霊獣だから気づいたの? これでもかなり高度な術を張ってるつもりなんだけど」
『我をそこらの獣や下級のジンと同視して欲しくない。だが、強いて答えを述べるならば、彼奴の気配…前兆があったことは確かだ。恐らく我と同じくするものしか、それは感じ取らなかったとは思うが』
「……そう」
シャオウロウの言葉に由那は少し苦い表情をその顔に浮かばせる。
彼の言う言葉が正しければ、恐らく彼女の帰還を気づいたものはそう多くはない。むしろ対処できる範囲であり、なおかつ由那たちに干渉するようなものもいない事に少なからず安堵する。が、それでも由那は表情を変えなかった。
「それにしても、シャオ。あなたずっと力を抑えていたの?」
今感じ取れるシャオウロウの気配。それは由那が彼に近づくまで悟られない位に抑えられている。だから感じた気配がぴりっとした違和感だったのも頷けるし、これならあの青年が魔物と称した理由も分からなくもない。
でも彼のその行動は少なからず、というか絶対的に由那のせいであり、とてもやりきれなく思う。
『主がこの世界から消えてから今日まで。我はこのまま過ごしてきた』
何処か悲しそうな表情。それは当たり前だ。何せ彼女は何の言葉も無く彼らの前から姿を消してしまったのだから。
恐らく彼らにも覚悟はあっただろうが、それでもとても酷いことをしてしまったのだと由那は思う。循環させるべき力を無理やり押さえ込むという無理をさせてしまうほど、彼を傷つけてしまったのだから。
遙か過去の出来事。勝手なことだと分かっていても、己の独善だと知っていても。それでも信じていかったのだと思い続けた、自身の何と愚かな事か――。
「……」
今はその行為がどれだけ愚かであったかが理解できる。起こってしまったことを後悔する事ほど空しい事はない。
だが今は。そう、今なら。
失っただけだと、それだけだったとは思っていない。得たものはちゃんとあるのだと。例え少なくとも。強大なる絶望の前には、例えほんの僅かなものだったとしても。
「シャオウロウ」
大きくはないが、決して小さくもない確かな声で呼びかける。
漆黒の双眸で彼の瞳を見つめる。過去と変わらない、真っ直ぐでいて絶対的な信頼を覗えるその瞳を。
「私は、あなたに問う。
この身、この器が例え変わろうとも。あなたと交わした誓約に、この魂と交わした誓いに偽りの無い事を」
それを口にする由那は震えている。当然だ。
覚悟が必要になる問い。その後に負うべきものは以前のものを越えている。それすらも破ってしまった由那にとって、この問いは更なる重みを宿している。
この責は負わなければならない。それは分かっていた。だが、それでもとても勇気のいる問いかけだった。
もしかしたら彼は答えないかもしれない。いや、答えてくれないのが当然なのだ。本来ならば。
しかし――。
『答えは是だ。我が主よ』
あまりにもすんなりと、当然の事のように答える。まるで断る事こそが愚問であるかのような、そんな清々しい返答だった。
その即答に、由那の方が唖然とする。あまりの事に、暫く呆然としてしまった。
問うたのは誓いの再契約。過去、暦道のイブリースの眷属となった彼に対するその覚悟を知るため。そして誓約を破る事になった由那が、固く覚悟を決めた彼に返すことの出来る唯一にして最も重い覚悟。
「迷わないのね」
『当然であろう。我は主に己の持つ全ての力を捧げ、この生をかけて忠誠と誓うと誓約している。器が違うとは言え、その魂は我が誓約せし主のものだ』
先ほどもそう言ったはずだと言うように、少し不機嫌な口調でそれを告げる。それを見てつい微笑んでしまったのは、そんな彼の気持ちがとても嬉しいと思ったからだ。
答えてはくれないと思っていた寂しさを、こんなにもすんなりと受け入れてくれた彼のその思いがとても温かい。
「ありがとう。…あと、ごめんなさい」
何とは言わない。彼らも覚悟はしていたと思うから。しかしまた、再び出会うことが出来たのなら。その言葉はきちんと告げておきたいと思っていた。
『……』
彼は何も言わなかった。だが、何も言わずともその表情、そして態度で分かった。
「シャオ。これから、またよろしくね」
これから。それがいつまでのものか。恐らく過去のように『永遠』などとは言わない。
だが、今度こそ。今度こそ由那は、彼らのためにありたいと思った。
『…当然であろう、我が主よ』
「シャオ」
小さく呟かれた一言。その一言に、由那は何とも言えない表情になって彼を抱きしめたのだった。