第一章・第一話 再びの大地05
「ここは…」
目を覚ました由那の視界に広がっていたのは、見渡す限り奥深い森。陽光すら入る隙を見せない、霧深く人の気配すらしない森だった。
小さくため息を付く由那はこの事態に驚くことはしない。何故ならこの事態の原因を知る確信があったから。そして何より、彼女には知識が、記憶があったからだ。
「――そっか。帰って来て…しまったのね」
苦く自嘲にも聞こえるその声音。しかし表情は比較的色を消し、何処か穏やかにも見える。いや。その瞳に映った皮肉げな色は決して消えていない。
だがそれも一瞬の事で。少し多く瞬きを繰り返したその瞳には、もう取るべき行動を思考するいつもの理性的で穏やかな色を宿していた。
とりあえず辺りを見回す。とは言っても取るべき対処は限られているため、ただの確認だ。
「深淵の森…」
ぽつりと冷静な一言をこぼす。ただ、その名を聞いた者は恐らく二の句を紡ぐこと無く、一目散に逃げ出すに違いない。
深淵の森。そこは深き絶望の森とも呼ばれ、魔物が徘徊するこの世で最も忌み嫌われる森の名称だ。
この場の雰囲気といい、感じる気配といい、恐らく間違ってはいないはずだ。
「ここは間違いなく、リヴィル…」
大きくも小さくもない確かな声音。その声に紡がれた名。それは世界の名前。
地球とは異なる、彼女の故郷。いや、彼女の前世の故郷だ。
絶大な力を秘めた絶対なる時のジン。暦道のイブリースとして彼女が君臨していた世界。地球とは全くの異世界だ。
「まさか、帰ってくることになるなんて…」
思わなかった、と由那は感情を消した表情で呟く。
その声にも、彼女が一体何を考えているのか感じ取る事は出来ない。その胸の内にあるのは怒りか、悲しみか。それとも焦燥か。はたまた後悔なのか。
愁いを帯びた瞳をさらす。が次の瞬間、由那はその感情を殺すかのように無防備にもその瞳を閉じる。この危険極まりない魔物の徘徊する森では自殺行為に近いことだ。しかし彼女は動じていない。問題すら感じさせず、ただ静かに瞳を伏せている。
何かに集中している彼女の周囲に、不意に薄い風の膜のような、屈折した光のカーテンのようなものが覆う。由那を包み込むほどの大きさの薄い膜。それは彼女の出現させた力だ。
前後左右。そして上下と。四方八方、由那の周り全てを覆ったカーテンに反応するように閉じた瞳を開く。
「我が望みのままに…」
穏やかな、本当に穏やかな表情で由那は言葉を紡ぐ。
「我が望みのままに。我の身を覆いし明光よ、包みし恵風よ。我を掩蔵せしは昏黒。全を永劫なる時の下に結びて、ここに成れ!」
凛とした静かな声。それに呼応するように光と風、そしてそれを覆う闇が由那の身を包み込んだ。
まるで周囲と同化するように由那の体は一瞬、すうっと消え失せるかのように透けていく。しかし半透明になりながらある一定をおいてその実体を取り戻し、元の状態に戻る。
手、腕、そして足元まで己の体を隅々まで見渡し、由那は満足そうに微笑む。
「こんなものかしら?」
穏やかでいて、とても好戦的な微笑みだった。絶対的な自信を表すその表情は、しかし何か違和感を感じた。
とりあえず、由那が今行ったこと。それは不可視、不感知の効果を持つ術をその身かけたのだ。様はステルス効果と言うべきか。
力を使えることは別段驚くべき事ではないだろう。何せ由那はこの世界のものだったのだから。あえて付随するなら、彼女が『時』の力以外を行使したことだろうか。
だがやはりそれも驚く事ではない。たとえ由那が前世、時の力を持ったジンであったのだろうと、今の彼女は人間だ。前世の力をそのままに持っているから当然時の力は使えるし、術師としての才能も前世の影響で生まれながらに持っているため、相性の良い属性はそれなりに使えてもなんら問題ではない。
そう。彼女は前世の影響で、かなり強力な巫師の能力を持っていると言える。巫師とは魔導師のような者の総称で、魔導師が使う力を魔法というのに対し巫師の使う力は巫術と言う。
周知である8属性の力を使役してその内にある巫の力、魔法で言う魔力のような力を制御・調節してそれを用いるのだ。
前世最強のイブリースであった現世人間の彼女は、言わば最強の力を保有する巫師とも言える。人にしては強すぎるほどの力の。
このリヴィルに帰還したことにより、今まで世界が異なっていたために力の干渉を受けず潜在していた彼女の持つ本来の強大な力が横溢し、暴走し始めることを抑える意味で今のステルス効果のある巫術を使った理由もある。それでも周囲から感じられる由那の力は普通の巫師並みか、それに少々劣るくらいにしか制御し切れない。それほどまでに彼女の持つ力は強大だ。それでも、見るものが見たら『人間』の持つ力の範疇を超えるほどの力を有していることが感じ取れるかもしれない。
力の保有量は変わらないが、由那と同等かそれ以上の力を持つものでなければ見破ることはまずありえない。つまり、そんな人間、ましてジンでもそうはいないだろう。
それほどまでに現世であっても由那の持つ力は壮絶なものだ。例え前世の、全盛期のそれに匹敵する力を有していなくとも。
そしてもう一つ、由那がステルスを引いた理由がある。それはその名の通り、由那の気配を悟られないためだ。
言うまでもなく、由那はすでにこの世界との繋がりを逸脱した存在である。それは彼女が人間として転生したことで分かるが、彼女はもう暦道のイブリースと呼ばれていたジンではない。
不用意にその正体を暴かれて神聖化されてしまっても困るし、まったくの迷惑だ。そしてそれ以上に、由那の持つ価値を悪用しようとする輩が現れることは言語道断である。そうなれば当然容赦なく、完膚無きまでに叩きのめすつもりだ。
しかし正体を悟られないようにするに越した事はない。下手に刺激することは美徳とは言えないだろう。
「強制転移させられた場所が、この深淵の森でむしろよかったかも」
危険な森であるが故に人も、そしてジンも滅多に近寄らない。それに加えてこの森は気配を打ち消し、撹乱する効果のある場所でもある。つまり彼女と同位か、よほど気配を読む事に優れたものでない限り、由那がこうして帰還したことを悟るものは居ないだろう。
それに世界から神たるイブリースが消えるという事は莫大なエネルギーが消失される。その逆も同じ事であり、そのエネルギーもこの森の異常な効果によって補給された事も功をなした。
つまり、由那の帰還によって生じるであろう世界の均衡を崩す危険性を回避でき、なおかつ彼女の帰還を他のジンに悟られる事もない。由那にとってこれ以上の幸運は無いだろう。
「……ちょっと釈然としないけどね」
少し不機嫌な表情をするが、とにかく不幸中の幸いであり、この事態を最大限に利用させてもらうのは当然だ。こちらとしては不測の望まざる事態であるのだから。
由那は一つため息を付いてそのことを払拭する。手を翳すと澄んだ声で詠唱を始める。
この森の特殊な効果に助けられたとは言え、辺りは既に森の奥深く。このままじっとしていたら魔物と遭遇して余計な戦闘になりかねない。もちろんそんなものは軽くあしらうことは出来るが、余計な体力は使いたくないものだ。
ふうと息を整え、由那は呪文を唱える。
「流れる時と共に我を運べ。…転移!」
凛とした声が響いた次の瞬間。空間に歪みが生じ、由那の体は誘われるようにそれに引き込まれた。
そしてその数分後。
変わらず光の射さぬ森の奥深く。由那が居た場所はまったく変わらず、先ほどまで人が居たとは思えないほど静かに時が流れるだけだった。
「…困ったな」
森を脱し、転移した先で由那が発した第一声はこれだ。
由那の過失は、森からの脱出のみを考えていた事である。彼女は転移の際、場所を指定しなかったのだ。つまりそれは、どこに転移してもおかしくはない事になる。
出た場所は決して悪くはない。むしろ無作為転移したにも拘らず、人に見られなかった点では十分成功だと言えるし、人里も近かった事も良かったと思う。
しかしそれゆえに発生した事。それは由那の服装だった。
地球では標準的な服。いや。地球でも標準とは言い難いが、それでもこの世界リヴィルでは何とも破天荒で奇天烈な格好であったことはいうまでも無い。
町に入る前に気が付いていれば何とか対策が打てたかもしれない。だが情報を得るため特に何の違和感も抱かず、迂闊にも既に町に入ってしまった。こうなれば人から好奇な視線で見られても、もはや仕方がないとしか言いようがない。
それでも制服や普段着よりはまだこの世界の服に近いこの服装に半ば呆れつつも感謝する。少々癪ではあるが。
「あ、あった。服屋」
なるべく目立たないよう町外れの一軒を見つけた由那はそそくさと店内に入る。このときの彼女はまたしても過失していた。
自分がどこから来たかということを。そして、何を目的として店内に入ったかを。
「いらっしゃい。…おや、まあ」
ドアチャイムの鳴る音とともに振り返った女性は、驚いたと言うよりはまじまじと由那を見つめている。
背中まで伸びた癖のない栗色の髪をひとつにまとめ、同色の瞳をじっと由那に向ける女性。歳は由那の母親よりは少し若いくらい。いつも笑顔を絶やさないのだろう女性は、目元に笑い皺が出来ている。
「あ、あの…」
由那は何と言ったらいいのか、といった困りきった表情で視線を泳がせている。
異国の服装。このあたりでは見かけない衣装に身を包む、類稀なる容姿を持つ可憐な少女。店の女店主は、その存在感に魅せられていた。
しかしその落ちた沈黙は、由那にこれ以上ないほどの気まずさを感じさせていた。何故なら、これから由那はひどく情けないことを告げなければならないのだから。
「あの…ふ、服を購入したいんですが…」
「ああ、じろじろ見てすまなかったね。遠慮なく見てって」
由那の戸惑った姿をじっと見ていたことだと思った女店主は気を取り直すように微笑んで由那を中に勧める。確かに服の事も気になる事ではあるが、それ以上のことが由那にはあった。
とても好意的な女店主は、由那を異国の家出娘のお嬢さまとでも判断したらしく、えらく親切に服の説明をしてくれる。もしかしたら今着ている服のせいで、この地域の服の着方すらも知らないと思われているのかもしれない。
だが残念ながら由那の戸惑いは、そんなものではなかった。
「あの…!」
意を決したように由那が口を開く。
「わ、私、実はお金もってなくて…。その、あの、今着ている服と交換では駄目でしょうか!」
必死に縋るようにして言った一言。
この時の由那は恐らく、これ以上ないほどに情けない表情をしていたに違いない。