第二章・第一話 盟約の導09
夜が明けて翌日。作戦決行の日。由那は店を訪れた初日と同様、アットルテを影から見据えていた。
最近ではすっかり馴染んだお嬢様演技も、もうお役御免。今日はまったく別のものを演ることになっている。だから今は素のままだ。
由那の安全を考慮し、反国王組織の者にその正体が見抜かれるリスクを負いながらも、必ず一人は張り付いていた見張りの兵士も今日はいない。危険なことを頼んだフィスフリークなりの配慮だったらしいが、由那は最初から気づいていた。むしろ、彼が教えておいてくれなかったために、最初は速攻で相手方にバレたのかと冷や冷やしたものだ。
今までバレた様子のないことからすると、彼は顔が知られていなかったのか、その見目麗しい女装が完璧だったのか。褒めているのか微妙な賛美になる。
《ったく。七面倒くせーこと引き受けやがって。ホントに大丈夫なのかよ》
由那の影に潜む眷属が、かったるそうな様子を隠すことなく話しかけてくる。一応配慮してか、その声は由那だけに聞こえる術に変えられている。
《ちょっとだけ黙っていてほしいな、ギール。そもそもこの事態の原因って、一体誰のせいだったっけ?》
余計なことをしでかしてくれたギガルデンには容赦しない方向で決定されたようだ。いつになく直接的な言い方だ。
にっこりと自身の影を睨めつける視線の恐ろしさといい、未だに根に持っている執念深さ。由那をここまで煩わせた借りは相当に大きい。
《その身を以って骨の髄まで反省するがいい》
良い気味だとシャオウロウも加勢する。この主大好きっ子は、端から由那の味方だ。
《……けっ!》
二人から責められたギガルデンは、由那の手前、珍しくシャオウロウに食ってかからず、殊勝にも大人しくしている。
当然と言えば当然だが、十中八九反論してくると思っていた由那には少しばかり驚きの結果だ。どうやら月日の流れは、時として竜族を丸くしてしまうこともあるらしい。
共にあらずとも、幾年月の流れは確実に彼らを成長させ、導いていたのだろう。
思わず笑みがこぼれる。場所が場所でなければ笑い出しそうだ。
《さて。ギールをからかうのはこれくらいにして、そろそろ作戦を開始するから準備しておいてね、二人とも》
アットルテの店員が開店の札をドアに掛けるのが目に入る。その店員はジェフィスだ。
《うむ、承知した。人間どもの手を借りずとも後方支援は我がしっかりと務めよう》
《おうよ。俺様の手にかかれば一網打尽だぜ。……って、おい。俺様はからかわれてたのか? あぁ!?》
お互い気合十分の返事。一気に盛り上がったギガルデンだったが、聞き捨てならない由那の台詞は聞き逃さなかった。
《ありがとう。じゃあ、行きましょう。厄介な相手がいる可能性があるからしっかりね》
《うむ。気を抜かぬよう心がけねばな》
《おい! 俺様を無視すんなってんだよ。おい!》
《ほら、ギール。き・あ・い!》
まったく相手にされないことに癇癪を起しかけるが、それもむなしく、由那にリズムよく急かされるに至る。ぴしっと活を入れられることで、単純な彼はすぐ流されてしまうのだ。
分かっていてやっている由那も由那だが、さも小馬鹿にしたように、心底満足げに鼻を鳴らすシャオウロウも相当の意地の悪さだろう。
「さてと。行きましょうか」
このまま続けたら彼の鬱憤が溜まるばかりで、いざという時に手がつけられないほど拗ねられてしまってもつまらない。
彼の苛立ちは、相手との対峙の時にでも発散してもらう事にしよう。その方が面倒もなく、彼としてもすっきり発散できるはずだ。
アットルテの開店は他店より少しばかり早い。ラミノルの平均開店時間は名物の市があるためか9時台と他の地域より早いが、アットルテはそれよりさらに早く、8時40分開店だ。その分閉店時間も少し早めだが、店員はみな7時50分頃には店に入り準備をする。閉店後も遅くまで香聞きなどの研究をするのが自然と決まりになっていた。
しかし今日、彼にしては珍しく開店ぎりぎりに出勤したジェフィスは、新人店員がする店先の掃除と開店の札を出す雑務を押しつけられてしまった。
正直ついていない。でもこれは自分の責任だ。遅刻したのだって夜遅くまで寝つけなかったせいなのだから。
店先を掃きながら考えるのは、昨夜も考えていたこと。つい最近この店に頻繁に訪れるようになった客、由那のことだ。
別にやましい意味合いではない。ただ、昨日の会話が妙に気がかりだっただけだ。何か嫌な予感がしてならない。そうジェフィスに思い悩ませるほど。
「おーい、ジェフ? いい加減札立てろよ。そろそろ開店時間だぞ」
気の合う仕事仲間の一人が声をかける。彼は昨日の会話を聞いていた一人でもあり、終業後に由那との関係について茶化してきた。彼の他にもことの真相を聞きたがっていた者は意外に多く、ジェフィスが思ってもいない誤解が飛び交っていたことに驚いたのは、むしろ彼自身の方だった。
ただ大切な友人だと正直な気持ちを告げたジェフィスだが、いま気になるのはそんな噂よりも別のことだ。
昨日、由那が興味を示していた女性。彼女についてジェフィスは多くを知らない。由那のように頻繁に話をするという間柄ではないし、それほど興味もない。だが、ジェフィスは一つだけ知っていた。
あの女性がいったいどんな客なのか。店にとってどんな存在なのか、その裏の事情を。
「うっ、わ! ……あ、ユーナ様。い、いらっしゃいませ。すみません、大きな声を出してしまって。本日もご来店ありがとうございます」
自分の考えに没頭していたせいか、背後に人が近づいていたなどまったく予想だにしなかったジェフィスは、途端大声をあげてしまう。朝から失態続きの上、自分にとって一番の上客に最大の失態を見られてしまったかと思うと、本気で奈落の底まで沈み込みたい衝動に駆られる。
それをしなかったのは、いや。出来なかったのは、由那の様子が明らかにいつもと違っていたからだ。
彼の向かいに佇む由那は、いつもの明るく気品ある面持ちの彼女ではなく、どこか無気力で虚ろな瞳の、まるで昨日のローザがそのまま乗り移ったかのような覇気のない表情をしていた。
「ユーナ、様?」
震える唇が抑えられない。あまりの衝撃に声すらも上ずっている。
嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。
息がまともに出来ないほどに胸が苦しい。乾燥で渇いた喉に掠れた呼吸がとても耳障りで、悲鳴を上げて叫び出してしまいたいくらいに気が触れそうだった。
「香が、ほしい……」
呼吸よりも小さく弱々しい声だった。でもそれは、ジェフィスの耳にしっかり届いた。
「ねえ。香、ほしい」
何も映さない漆黒が空を見つめる。その先にジェフィスがいるはずなのに、視線は決して彼を捉えない。
虚ろに閉じかけた瞼。鈍い光を宿す、この国では珍しい黒い瞳。彼女の髪が栗色ではなく同じ漆黒だったなら、より鮮やかだったろう黒曜石の輝きは、今はもう完全に失われている。
「――…くっ。ユーナ様……」
痛々しいものをみるように顔を歪め、見ていられないと視線をそらす。
彼女もかかってしまったのだ。あの香の、香りの毒牙に、かかってしまった。
その事実が、痛く胸に突き刺さる。
どうして、と言ってしまえれば良かった。たった一日でここまでなるなんて、と。今さらながら香の利き目を恨めしく思った。
しかし――。
「ジェフィス君。そちらが例の、君の上客かい?」
店内の、地獄への扉が開かれた。
姿を見せたのは、由那が通い詰めた期間には一度も顔を合わせたことのなかった男が一人。鳶色の髪と、黒衣の影に隠れて黒にも見える濃い茶の瞳をした30代前半の無精ひげの男が佇む。
顔を合わせたことがないと言っても、彼のこの気配に由那は覚えがあった。店内の奥に怪しく鎮座し、何かを待っていたあのきな臭い気配。そう。彼がその男だ。
コツコツ、と死神の足音を立てて男はゆっくりと獲物へ歩み寄る。
「ザイハ。っ…、ち、違うっ。彼女は今日は風邪気味なだけで。ほ、他の、例の人たちとは違う!」
「……あのさあ、店先で騒がないでくれないかなぁ。君のせいでパクられたりしたら困るんだよねぇ。まったく。もっと考えて行動してくれないとさぁ。今までの苦労が水の泡になったら、どう責任取るつもり?
まあいいや。とにかく、とっとと中に入りなよ。その子猫ちゃんには飛びっきりの出してあげるからサ」
「ザイハ! 違うと言っているだろ。彼女は関係ない!」
癖のある、人を心底嫌悪させる嫌味で耳障りな声。ただ呼ばれるだけでも気分を害する粘着質な声の男に、ジェフィスは庇うように由那を背に隠す。
狂気を孕んだ瞳で愉快げに見つめる男は、これまたジェフィスを逆撫でする仕草でお茶らける。
「あー、はいはい。分かったから、そうぎゃあぎゃあ騒がないでくれるかな。やかましいんだよねぇ。ほら、とっととガキ連れて入りなよ」
邪険にして怖いな。と厭らしく笑う。
「折角のカモだ。逃がす訳ないでしょ。これ、言ってること分かんないかなぁ?」
からかいを含んだ瞳に、一瞬だけ殺気がよぎる。だがすぐにそれを消し去った男は、軽く笑って鼻を鳴らした。
このまま相対していても埒が明かないと判断したのだろう。ザイハと呼ばれた男はジェフィスの隙をつき、由那の腕を無造作に掴むや否や、さっさと店内へと引っ張っていく。
「! 待てっ! おい、ザイハ!」
「付いてくるつもりならさっさと来ればぁ? 早くしないと扉閉めちゃうよ」
「っ、く、くそ…っ!」
面白がっているとしか思えない男は、心底愉しげに振り返る。その手はしっかりと由那の腕を握っている。
男に導かれるまま全く抵抗することなく足を進めていく由那の背を、ジェフィスはやりきれない後悔と共に追いかけた。