第二章・第一話 盟約の導08
ローザと別れて宿に戻った由那は、ある手荷物を持ってフィスフリークの部屋へと急ぐ。アットルテへ赴いた日は、自室に戻る前に必ず彼の部屋に寄ることが義務付けられていた。
じっと手中の香袋を見つめる。ここ数日の調査で最も有力な証拠となる物を、複雑な気持ちで握りしめる。
すうっと息を吸い込み、由那はドアをノックした。
「ああ、ユーナ。ご苦労さま」
ドアが開くと同時に出迎える神々しい微笑み。裏で情報を集めている彼らの方が、由那以上の苦労を強いられているはずだというのに、まったくその色を見せない。
帰る頃合いを見てお茶を入れてくれるエフィナ、若干疲れた顔で視線を投げるウィラルーア、そして今日は報告を入れているのか、フィスフリークの護衛隊長までもが顔をそろえていた。
「皆さんおそろいなんですね。何か進展はありましたか?」
このメンツでまさか、彼自らが扉をあけるとは思わなかった由那は、少し狼狽しつつ、まず自分のことを避けて近況を覗う。
もしかしたら何か、自身が得たものとは別の何かがあるかもしれない。そんな逃避じみた期待を抱いてしまう。
「半ら、といったところだね。ある程度は掴めてきたけど、やはり深いところまでは探りきれない。さすがに手強いよ」
それで正体がばれてしまっては元も子もないからね。と、相変わらずの顔が告げる。
「ユーナの方は、何か進展があったようだね。おや、その手に持っているものは紅茶かな」
表に出ないよう慎重に隠していたつもりが、いとも簡単に見抜かれてしまった。
由那が分かり易いのではない。フィスフリークが鋭すぎるのだ。
指された左手がピクリと反応する。これでは態度でそうだと言っているようなものだ。
表面上は穏やかでいて、その実、陰でほくそ笑んでいるとしか思えない余裕の微笑みに、心底苦手だと苦虫をかみつぶしたような顔になる。本当に、彼には勝てそうにない。
「……ええ。例の香を手に入れました。とは言っても、実際に買ったのではなく、被害者と思われる方から頂いたのですけれど」
香袋を差し出しながら、内心複雑な思いでそう切り出した。
「今日ようやくアットルテの上客らしい女性と接触できたので、少しお話させていただいたんです。でもその女性、エフィナさんが話していたような例の兆候が見られて。そのまま会話を続けてみましたが、やはり香の被害者で間違いないようでした」
ローザと接触した時に感じた違和感や、彼女が香の影響を受けた被害者だったこと、そしてその香を手に入れた経緯などを話していく。
「心ここにあらずといった感じで、揺すっても反応が鈍くて、ちゃんとした会話にもならなかったのでもう諦めて帰ろうとしたら、帰り際に彼女が落としていったんです。もちろん呼びとめて渡そうとしましたけど、何やら独り言をつぶやきながら気づかず歩いて行ってしまって。人の物を勝手に持ち帰るのは気が引けたんですが、彼女の行き先は恐らくアットルテだったと思いますし、策もなく深追いするわけにもいきませんでしたから」
香袋を渡そうとしたとき、『香が、香が』というローザのつぶやきでまず間違いないと確信した由那。彼女の行き先もアットルテの方角だった。
「中身はまだ確認していません。でもこの軽さからいって、もうこれは使用済みのものだと思います」
香は焚かなければ恐らく影響はないとは思うものの、用心するに越したことはない。まして使用後の灰ともなれば、残り香が残っていても不思議ではない。
あいにくマスクなどの用意のなかった由那は、本当に確認していない。この香袋も素手ではなく布、そして自ら張ったシールドで覆って持ってきている。
扱いは慎重に慎重を重ねて。それは無理もない。
香の効力もさることながら、彼女は別の面からの危険性も考えていた。
香による被害。被害者は無気力で虚ろな目をしていて反応が鈍く、感覚の麻痺を生じている。
確かにエフィナの報告通り、ローザはその症状に当てはまっている。しかし、実際目にしての相違点というものも生まれて来るわけで。
―――彼女が麻痺状態であることは確か。でもあれは、むしろ催眠状態と言った方が的確だった。でも、それは……。―――
先を想像して表情が曇る。考えたものはあまり良いものとは言い難いものだ。
眉間にしわが寄るのを気を付けながら、ふと差し出した香袋を慎重に扱うエフィナに目を止める。
彼女の報告から、香による被害者はすでに3ケタに達していたはずだ。それからさらに日が進んだ今では、さらなる被害者が増大していることだろう。
―――ただ単に、香の被害だけなら良かったんだけどね。―――
ふう、と疲れた息をはく。物に注意がいっているフィスフリークたちは気づかない。由那は目に見えて苦々しい笑みを浮かべる。
ローザと会うまでは、香が原因だとはっきりいって簡単に事をとらえていた。だが、それはまったくの見当はずれだったことが今日、まざまざと思い知らされた。
―――あれは……、彼女は操られている。人為的に、それも高度な巫術で。―――
ローザからは術の気配を感じられなかった。だから彼女と会ったときも、違和感は感じるものの、それが香によるものだと信じて疑わなかった。それが帰り際、彼女が落とした使用済みの灰を拾ったとき、由那は強く頭を殴られたような衝撃に見舞われたのだ。
拾った薄紅の袋。一目で香袋だと分かるそれに、強力な洗脳の術の印。そして、巧みにそれを隠す高度な印が組み込まれていることに気がついた。
これは由那だからこそ気づいたことだ。たとえ高位の宮廷巫師、由那から見てもそこそこ力のあるエフィナであろうとも、隠された印には気づけないだろう。それだけ力のある者が掛けたものだということだ。
香を焚いてそれを吸うことで発動する印でなかったら、今頃由那も術にかかっていたと思うと、自らの迂闊さを反省せざるを得ない。それに、香が原因だと信じて疑わなかった己の先入観にも。
―――120、いえ。150人くらいかな。とにかく、この印を仕込んだ者の力は尋常じゃない。―――
これだけの人数を相手に現状を維持していること、由那がリスクード城を訪れるより少し前、レハスの村の失踪事件が解決した頃あたりから兆候があったことを踏まえると、相手の力量は相当なものだ。正直頭が痛い。
犯人は人間だ、と思いたい。だが、レハスの一件が由那の頭から離れない。さすがにこんな分かりやすい内政干渉はしないとは思うものの、言い切るほど自信があるわけでもなかった。
どうにも歯切れが悪い。こうしていると考えまでも鈍くなりそうで、慌ててかぶりを振る。
とにかく気持ちを切り替え、改めて一から考えなおすように努める。そうしてようやく、香袋の解析を始めているエフィナたちに加わった。
明日は香袋の解析に宛がうため、何かあっても裏からの援護は出来ない。だから由那も明日だけは店へ行くのは控えてほしい。
そう告げたフィスフリークに対し、由那は良い顔をしなかった。
「何を言っているんですか、明日も行きます。いいえ。明日こそ行かなくては、絶好の好機を逃しかねません」
「ユーナ。何を言っているのかと問いたいのは私の方だ。この香についてはまだ不鮮明なことが多すぎる。危険を承知で行くなどという無謀を許可するわけにはいかない」
「それこそ今さら何を言っているんですか、ですよ。危険を承知で私を偵察に向かわせたのはリークさんでしょう。無理やりこの事件に関わらせたんですから、見返りにそれなりの行動の自由を下さっても良いんじゃないですか?」
ギブアンドテイクです、と言わんばかりに、肩を掴む彼の手を払う。あの時の説得のお返しをするのにもってこいのシチュエーションに、由那は若干楽しんでいる。
もちろん、彼が由那の安全を考えて言ってくれた言葉だということはちゃんと分かっている。でも、絶対に引けない事柄というのも時にはある。それが絶好のチャンスとくれば尚更だ。
しかし、半分はからかいが含まれているのもまた事実で、必ずしも明日でなければならないという訳ではない。
「この香袋を手に入れたからこそ出来る作戦です。少し危険は伴うかもしれませんけど、やるだけの価値はあります。上手くいけば、案外すんなりと事態が動いてくれるはずです」
「…………」
にっと掴めない飄々とした顔を浮かべられれば、さすがのフィスフリークも返す言葉を失ってしまう。
「大丈夫です。援護がなくても私にはシャオとギールがいますから。いざとなったら、まあ、作戦は失敗しちゃいますけど、私だって一応巫師なんですから、相手から逃げ切ることくらいはできます」
女だてらに一人旅してませんから。と、トドメの一言を落とす。
彼女の絶対的巧みな話術で言われてしまえば、もう誰であろうと口出しなど出来るはずがない。
今まで言い包められ、やられっぱなしだったのだからこれくらいの反撃はさせてもらわないと。そう余裕綽々の顔で見つめると、興味深そうな青の双眸と目があった。
静かな駆け引きが展開される。そう思って身構えていたら、ふっと彼の形の良い口元が綻んだ。
意表をついた攻撃に、怪しすぎるとますます警戒を強め構えていると、今度は本格的に笑われてしまった。くつくつ、と面白そうに笑う声が聞こえる。
「ふっ。そうだね。確かに今さらかもしれない。私が巻き込んだとはいえ、なるべく危険が少ないようにとそればかりに囚われていたみたいだ。ユーナを信用していないわけじゃないけれど、誤解させてしまう態度を取っていたことには変わりない。すまないね」
「…いえ」
こうも素直に己の非を認めるフィスフリークは、素直すぎて気味が悪い。自分のことは棚に上げ、なんだか無性に居心地の悪さを感じながら、辛うじて返事だけは返す。
なんにせよ、許可を得られたことには違いない。彼が訂正をする前に素早くことを決めてしまうが吉だ。
「じゃあ、明日もアットルテへ行ってきますね」
「明日の作戦を細部まで練る必要があるね」
『明日』という言葉が重なり、由那の声はフィスフリークにかき消される。彼の言葉が浸透した途端、心底面倒くさそうな彼女の顔が露わになった。
「命にもかかわる作戦ともなるから、しっかりと対策は練っておかなければ、ね?」
しっかりと、という箇所が強調された言葉。
だから由那の考えをすべて明らかにしてもらうからね、と言わんばかりの二重にも三重にも厄介な青の視線が注がれる。
どうやら逃げられそうにないようだ。
傍で二人の言い合いを呆気にとられながら交互に見比べていたエフィナたちが、ようやく彼らの話に参加できたのは、壮絶な言い合いの末に由那がついに陥落した時だった。