第二章・第一話 盟約の導07
それから数日、由那は適度に日を空けながら何度か香店、アットルテに通い詰めた。
初日に足を運んだケーキ屋や、その他諸々の聞き込みもむなしく、今のところ有力な情報はつかめていない。あの人柄のよさそうな青年、ジェフィスとは来店毎にあいさつをする仲になり、彼が不在の時も別の店員が親切に接客をしてくれた。
しかし、本当に彼らが香を違法に捌いているのだろうか。ジェフィスと懇意になればなるほど、この店が事件に関与しているとは思えなくなってくる。
それほどに彼らは裏表がなく、親切で、丁寧で。疑っている由那自身が彼らを欺いているようで、少しだけ胸が痛んだ。
「いらっしゃいませ、ユーナ様。本日はオルイード産の香が入荷しましたが、いかがでしょうか。一般的な薬草として知られるスゥの葉の若葉を使用していて、すっと気持ちが安らぐと今最も人気の品です。優雅で芳しい香りでおすすめですよ」
「ごきげんよう、ジェフィスさん。まあ、これが本当にスゥの葉なの? 煎じたあの苦さからは考えられないくらいに良い香りね。ええ、そうね。いただこうかしら」
すっかりお嬢様演技が板に付いた由那は、ころころと微笑む。彼の人柄のよさもあって、これがかなり自然に馴染む。
「今日もお忍びですか? 私はユーナ様にお会いできて嬉しいですが、近頃はこの辺も物騒な話を聞きますから、あまり一人歩きはなさらない方がいいですよ」
「あら、心配には及びませんわ。こう見えてもわたくし、結構強いのよ。それに、お屋敷で目付役に見張られて一人過ごすなんて窮屈で嫌だわ。ふふ、こうして護衛の目を盗んで抜け出すスリルもなかなかに楽しいものよ」
「ははは。困ったお嬢様ですね」
由那の強いです宣言は、矜持が高いお嬢様の戯言とでも取られたのか、もちろん本気にはされていない。
それを狙ってかどうか、由那も微笑みを返しながら余裕綽々な表情をしている。
「でも残念だわ。せっかくジェフィスさんのように気の合う友人を見つけても、お父様の仕事の都合で長く一つ所に留まることが出来ないんですもの」
「お父上は確か、貿易関係の方でしたね。私ども商人は貿易商あってこその商売ですけれど、私個人としては、ユーナ様には長くこの店をご贔屓にしていただきたいですね」
「あら。そんなこと言われたら、お父様に我がままを言ってしまいそうだわ。わたくしこの町に残ります、って」
「嬉しいお言葉ではありますが、少々複雑ですね」
香を袋に詰めながらジェフィスは苦笑する。彼は仕事もとても丁寧だ。
相手が使いやすいように、すぐ使えるように工夫して袋詰めしている様子が良く分かる。
「はい、どうぞ。今日は先日ご購入して頂いたユテラの茶葉をサービスしておきますね」
「あら、嬉しい。最近お茶の時間に出してもらうのはこのユテラの紅茶にしてもらっているのよ。ジェフィスさんが勧めて下さったケーキとも合ってとても美味しいわ」
実際は調査資料として全没収を食らったのだが、エフィナが夕食後のティータイムにこっそり入れてくれている。調査した結果も特に異変は見当たらないし、大丈夫だろう、と。確かに由那、そしてシャオウロウやギガルデンも購入品からは何も感知できなかった。一応は安全だという結論が出されている。
危険だからと全没収させたフィスフリークは知ってか知らずか、特に口を挟むことはない。許容範囲内ならば口は出さないという事だろう。
多少の疑念を残しつつも、由那は以前レハスの町でもこのユテラの紅茶を飲んだことがあり、程よい甘みと上品な香りがけっこう気に入っている。今最もお気に入りの茶葉だ。
一方の香は、怪しまれない程度に服に香りを付ける程度で、さすがに全ては手元には戻らなかったけれど。と、そんなことを思い返しながら、ふとエーゲルの香が陳列されている棚に目を向ける。
「あら…、あの方」
「? ああ。ローザ様ですか」
お知り合いですか、と問いかけるジェフィスに由那はかぶりを振る。
「いいえ。でもあの方、最近よく見かけるわ」
胡桃色のふわふわとウェーブがかったやわらかそうな髪に、パステル系のドレスが良く映える華奢な体躯。彼女は間違いなく、由那がこの店に初めて来店した日に見た三名の客のうちの一人だった。
店に訪れる客はそれとなくチェックしていたが、特に目にとめていたのが彼女で、その容姿というか、やつれ気味でおぼつかなげな様子が少々気になっていた。
「わたくしは、この店に来ることも楽しみにしているから数日分を買うだけですけれど、常連の方はまとまった量を購入しているみたいなのに、彼女はよくお見かけするので珍しく思っていたのよ」
「それは……」
「あら、嫌だわ。変な意味じゃなくてよ。ただ、なんだかわたくしと気が合うかもしれないと思っていたの。だって、そうは思わない? こんなによくお店でお会いするし、もしかしたら彼女も家で退屈しているのかもしれないわ。だったら、ぜったいに話が弾むと思うもの。いいえ。弾まないはずがないわ」
ぱんと手を鳴らし、嬉々として彼女を見つめる。普段の由那からは考えられないほどハイテンションに、彼女と話すのが楽しみだと言わんばかりの態度をまざまざと示す。
「で、でもユーナ様、あの……」
「わたくしだってお店の外で会える友人がほしいわ。ジェフィスさんったら、何かと仕事があるとかでわたくしの誘いを断ってばかりなんですもの。やっぱり友人だと思っていたのはわたくしだけで、ジェフィスさんはわたくしなんてただのお客としか見ていなかったのね。少し、悲しいわ」
よよよ、と芝居がかった胡散臭い仕草をする由那に、これにはジェフィスも目を丸くする。
「ち、ちがいますよ。そんなこと、あるわけがありません。ユーナ様は確かにこの店の大切なお客様ですけれど、私はそんな風に見ていたつもりは決してありません」
傍から見れば痴話喧嘩に見えなくもない言い合いを、残念ながら自分の恋愛面にこの上なく疎い由那、そして弁解に必死なジェフィスは気づいていない。
同僚の告白まがいの台詞に驚く店員たちと同様、ローザと呼ばれた女性も騒ぎに気付いたようだ。ぼうっと虚ろな視線を由那たちに投げかける。
「あら。彼女の方から気付いてくれたわ。ご協力感謝するわね、ジェフィスさん」
語尾に音符でも付きそうな満足げにウィンクして去る由那に、引きとめる手段すら封じられたジェフィスは、諦めて肩を落とした。
「ごきげんよう。わたくし由那と申しますの。近頃このお店であなたのことをよくお見かけするのですけれど、宜しかったら少しお話しいたしませんかしら?」
店内のざわめきも冷め止まぬなか、満面の笑みで話しかける。
上機嫌な由那とは裏腹に、先ほどまで一番の話相手だったジェフィスは頭を抱えている。
「…ローザです。ええ、…かまいません」
「ありがとう、嬉しいわ。ああ、そうだわ。せっかくですもの、ディペシュでお茶をしながらお話ししませんこと?」
名案と張り切る由那の提案に、ローザは少し考え込むように間を空け、そしてこくりと静かに頷く。
名乗ったときもそうだが、どうも彼女は覇気がない。その灰色の瞳も、光を映していないかのように虚ろだ。
「ジェフィスさん、お代これで良いかしら。今日はこれでお暇させていただくわね」
「あ、はい。ありがとうございます。…って、あのっ!」
「それではごきげんよう。また後日に」
最初の頃のゆったりさが嘘のように、由那は強引だった。ちょっと素が出たが、ジェフィスの制止は振りきれたからまあいいとしよう。
一方、さっさと話を進めてしまった由那に、戸惑いながらも結局なんの口もはさめなかったジェフィスは、あまりに突然の流れに呆然として、嬉々としてローザの手を引いて去っていく由那のうしろ姿を眺めていた。
「強引にお誘いしてごめんなさいね。でも、一度ゆっくり話してみたかったの。あの店に出入りしている方と」
ジェフィス曰く、貴族の令嬢が多く贔屓にしているディペシュ店内は、町に着いた初日にフィスフリークと寄った店とは比べ物にならないくらい高級感あふれる店舗だ。扱う食材はもちろん、出された茶器や銀食器も相当なものを使っていることが分かる。
その店内の奥側の席を取り、ゆっくりと椅子に落ち着いた由那は、両ひじを付いて相手を見据える。小首を傾げて妖艶に笑む余裕な態度が、雰囲気をより怪しく見せる。
無表情でどこか遠く焦点の合っていないローザは、由那のことなど最初から目に入っていないように、静かに運ばれてきた紅茶に口を付けている。傍から見れば落ち着いた淑女にも見える仕草だが、頼りなくぼんやりとした調子を少し訝しく思う。
「ローザさん、でしたわよね。わたくしこの町に越して来たばかりで、まだ少し不慣れですの。アットルテはお気に入りのお店ですけれど、まだそれほど馴染みは深くないですし。ほら、わたくしたち歳も近いようですし、同じお店を贔屓している者同士趣味も合うんじゃないかと思って。もしよければ、この町のことを色々と教えてくださらないかしら?」
終始姿を見張る監視カメラがあるわけでもないのに、いかなる場所でも由那の仮面は外れない。むしろ、よりいっそう演技に磨きがかかっている。
かちゃり、とティーカップを置く音が響く。
「わたくし最近、このユテラの紅茶がとてもお気に入りなの。エーゲルの花の香をたいて、ユテラの紅茶をいただきながらゆったりとくつろぐ。このひと時が本当に落ち着くわ」
カップを軽く揺らし、相手の反応を確かめるように視線をながす。
当然話を聞いていることを期待して向けたそれは、先ほどとまったく変わらないローザの無表情で虚ろな瞳を目にした途端、見事に固まってしまった。
「ローザさん? わたくしの話、聞いてますかしら?」
明らかに様子がおかしいローザに、由那の口調が強まる。
むっと不機嫌そうに眉根を寄せ、軽く睨み据えるもまったく効果がない。終いには立ちあがって彼女の肩を強引に揺さぶるが、やはり反応がない。
―――これって、まさかっ……。―――
由那はふと、数日前のエフィナの話を思い出す。
「被害者は、みな虚ろな目をしている者が多く、また無気力で反応が鈍いようです。香の影響で一種の麻痺状態になっているというのでしょうか、感覚器官が著しく低下しているとの報告が上がっています」
アットルテへ潜入調査をした初日の夜、フィスフリークの部屋で部下からの報告書を淡々と読み上げるエフィナの姿が鮮明に蘇る。
ロクに姿をさらすことが出来なかったはずの彼らが、たった一日でよくこれだけの情報を調べ上げたと感服するほどに詳細な調査報告だったが、それ以上に由那は彼らの沈着な対応に少々憤りを覚えた。
彼女の変わらず淡々とした報告が進むなか、誰一人として眉一つ動かす者がいない。自らの統制の下での失態、いわゆる出し抜かれている状態であるというのに、誰も焦り憤っている姿を見せない。冷静そのものだ。
由那の様に窮地で笑む者も異常ではあるものの、それすら見せる者もいなかった。
予想の範疇なのか、それとも想定外のことに憤る暇すらないのか。どう考えても後者は除外に思えるが、いずれにしても腹立たしくあった。
―――自国の民が被害に遭ってるっていうのに、焦るそぶりも見せないなんて。確かに焦ってどうなるわけではないけど、少しは態度に見せたって何も減りはしないのに。―――
何を考えているのかさっぱり読めないタヌキっぷりのフィスフリークを思い出し、由那はさらに不機嫌になる。
どちらかと言えば由那も彼と同じ部類に属するとはいえ、前世からの人間贔屓はそうそう薄れるものではない。特に人身に関わる被害ともくれば尚更だ。
「……はぁ」
消化されないままの怒りを、荒い息を吐いて発散する。だが今は、そんなことより目の前のこの女性の方が問題だろう。
虚ろで覇気のない瞳。どこか遠くを眺め、しかし何も映さない無気力な様子。強引に揺さぶっても顔色一つ変えない無反応さ。これはどう考えても、エフィナの報告通りの症状。
明らかに香の被害を受けているローザを見、思い当たる原因など由那には一つしか思いつかない。
そう。あの店、アットルテだけだ。
「――………」
険しい表情のまま、由那は頬杖をつく。その内心が何を思っているのかは知れない。
しかし、じっとローザを見据える漆黒は、静かに渦巻く炎を滾らせていた。