第二章・第一話 盟約の導05
例の杖を手に持ち、宿屋へと戻った二人を迎えたのは、淡々と冷ややかな視線を投げかける仁王立ちの女性。氷の微笑みが良く似合うエフィナ、その人だった。
「お帰りなさいませ、フィスフリーク様。お忍びの散歩はさぞや楽しかったことでしょう」
睨むほどではないが、刺々しく射抜く眼差しを向ける彼女に、さすがのフィスフリークも苦笑をこぼす。
「ただいま、エフィナ。そうだね。とても楽しかったよ。ウィラも…すまなかったな」
「い、いえ。兄上のお役に立てたのなら俺は別に…」
「ウィラルーア様、これはそういう問題ではありません!」
結局、視察のすべてを任されたらしいウィラルーアは、尊敬する兄の至上の微笑みにあっけなく陥落する。指摘するのはもちろん、一瞬殺気にも似た視線を王弟に投げかけるエフィナだ。
彼女の腰まである髪がゆらゆらと逆立ちそうなほどに怒気を滾らせたすさまじい怒り様に、王弟ともあろう彼は若干怯み、しかし怒られている張本人のはずのフィスフリークはどこ吹く風で軽く流してしまう。
「ああ。本当に悪かったよ、エフィナ。だが、それよりも何かあったのだろう?」
平静を装う彼らのどことなく張り詰めた雰囲気を、傍から見つめる由那も感じていた。
当然、この隣にいる彼が気づかないはずがない。彼らが下手に隠し立てする前に、鋭く先手を打って出た。
「それは……」
ちらり、とエフィナの視線が由那に向けられる。ほんの一瞬の無意識によるものだろうが、それを鋭く感じ取った由那は、彼らに気づかれないように小さく息を吐く。
どうやら、部外者にはあまり聞かれたくない国の内情にかかわった事柄なのだろう。
「リークさん。私、少し疲れてしまったので、夕食まで部屋で休ませていただきます。今日は、ありがとうございました」
「あ、ああ…、こちらこそ。ユーナと過ごせてとても楽しかったよ。また暇がある時に二人で抜け出そうか」
「ふふっ、そうですね。でもその時は、ちゃんと仕事を終わらせてからにしてください。エフィナさんやウィラくんにあまり負担をかけないように。それに、リークさん自身の体調も心配ですし。しっかり休息も考慮に入れて、それで空いた時間でしたら、ぜひ」
「まいったな。ユーナにそう言われてしまっては仕方ない。出来る限り善処するよ。ああ、そうだ。結局市を案内できなかったな。と言っても、早朝に行かねば意味はないのだけど」
「それもまた別の機会に。今は…しっかり仕事に集中なさってください」
手中の杖をさすり、感謝の気持ちも込めて深々と頭を下げ退室を申し出る由那。その後ろ姿を引きとめてまで声をかける、明らかに話足りないといった様子のフィスフリークを、背後からエフィナの呆れた視線が注ぐ。
まったく、彼女も大変そうだ。
軽く気休め程度に微笑みかけると、心底疲れきった表情を浮かべるエフィナに少し同情を抱いてしまった。
去り際、申し訳なさそうに頭を下げるエフィナの謝意を受けながら、由那は小さくかぶりを振りながら彼女を心から労わった。
「では、またあとで」
「ああ…、すまないね」
残念そうな、何か言いたげなフィスフリーク。申し訳なく思いつつも、心底疲れた様子のエフィナ。あまり関心なく、ただ軽くあいさつ程度の会釈を返すウィラルーア。
ルティハルト国の要職につく三者三様の視線を受けながら、軽く笑みを張り付けてあいさつを交わした由那は、案外あっさりと階上へ上がっていった。
階上へと姿を消した由那を見送り、自分たちも自室へと戻ったフィスフリークたちは、改めてきな臭い話を始めることになった。
扉を閉めた途端、重苦しい緊張感に包まれた室内を進み、どさりとソファーに腰掛ける。
「それで、一体どうしたんだ?」
まだ名残惜しそうに、しかし固執していてはいけないことも承知している彼は、思った以上に深刻な表情を浮かべる部下二人を仰ぎ見る。
性格的に感情を表に出しやすいウィラルーアはまだしも、冷静沈着で普段は表情の乏しいエフィナまで緊張に顔を強張らせていては、由那でなくとも気づく。
王族としてウィラルーアにはもう少し自身を制御する術を学んでほしいものだが、今はとにかく話を進めることが先決だ。
「それが…」
どうにも言い渋るエフィナ。こんな彼女は珍しい。
彼女は、こと仕事に関しては淡々と着実に任をこなす。こうも戸惑いをあらわにすることは滅多にない。
そして彼らのこの様子。恐らく、予期していた最悪のケースが見事に的中してしまったのは、言うまでもないだろう。
「……はぁ」
これでは知らず知らずのうちにため息も漏れるというものだ。
「それで、奴らの目的は。何処まで掴んだ」
すでに起こっている事態を、今さらここで言い渋っても仕方がない。気持ちを切り替えるよう促すが、それでも反応は鈍い。
「エフィ――」
「地下競売へ赴いた際、例の組織の者と思われる人物の特定は残念ながら出来ませんでした」
「…そうか。それで、現場は?」
「そちらは押さえました。違法の…、非合法な薬物売買で間違いありません。物はまだ入手出来ませんでしたが、販売店はおおよそ調査済みです」
苦く痛々しい面持ちで受け答えするエフィナ。想定していたはずのフィスフリークは、淡々と無表情のまま報告に耳を傾ける。
横で見ている弟の視線も目に入っていないはずがないのに、それすらも無視し続けている。一番平静な面持ちの彼が、実は最も平静ではいられない。いようはずがない。
報告が進むにつれ、徐々に硬くなっていく彼の口調が、より硬度を増した時。エフィナたちがずっと避けていた言葉が、本人の口から漏れた。
「では、反国王組織の手の者で間違いはないんだな」
ひゅっと、息をのむ声が聞こえた。
「――は、…はい。そう、です。間違い、ありません」
答えたくなかった。答えたくなど、なかった。
でも、それ以上に。彼は、彼には言わせてはならなかった。
「………」
今まで以上に気まずそうなエフィナ、そしてウィラルーアに対し、盛大にため息を吐いたフィスフリークは苦い笑みをこぼす。
彼らがこの調子では、自分が意識してもしなくても何ら変わらない。鬱陶しく、ただやり辛いだけだ。
気を使っているのは一体どっちだ、と半ば本気で問いたくなった。
「エフィナ、ウィラも。そう腫れ物に触るような反応は止めてほしいな。別に私は…。
――私は、そこまで脆く見えるか?」
片膝をつき、ゆったりとくつろぐ。何か面白いものを見つめるように、からかいを含んだ視線を投げる。
確かに、自分自身がこの話題に触れないように、なるべく関わらないようにしてきた時期もあった。
しかし今は。
今は、不思議と心が穏やかだ。乱されることがない。
―――『彼女』がいるせいだろうか? いや、まさか。そんなはず、あるわけがない。―――
ふと浮かんだ考えに、小さく微笑む。
そこまで影響を受けているはずがない。素性も何一つ知らない彼女一人に、そこまでの影響力はない。
思考を即座に否定し、フィスフリークは気持ちを切り替える。
「彼ら組織の存在の有無を今さらどうこう議論するつもりはないが、我が国の民をいたずらに巻き込む事態は目に余る。早急に手を打つべきだろう。エフィナ、被害者たちの状況はどうなっている」
「はい。それが…、物はどうやら人体に影響を及ぼす香らしく、被害を受けている民はすでに四、五十はいるとの情報があります」
「そう、か。やはり来るのが少し遅かったようだな。しかし、動くなら早い方がいい。明日、いや。今夜からでも組織の動向を探るべきだが、彼らとてそう易々としっぽを出してはくれまい。かといって外堀から徐々に固めていくのでは、すでに実害が出ている以上、そう安易に構えてもいられない」
「ですが、フィスフリーク様はもちろん、ウィラルーア様や側近の我々も顔を知られている可能性があります」
「ああ、確かに。いくら何でも、全員がフード着用の集団は怪しすぎるだろうな」
想像してくすりと笑う。つい茶化してしまう。
すっかりいつもの穏やかな表情に戻ってしまったが、そうふざけてばかりもいられない。この真面目な部下をからかっていたい悪戯心をくすぐられつつも、フィスフリークは沈着な顔を保つ。
「素性が割れていては何かと行動も制限される。それを重々承知した上で今回の任務にあたって欲しい。と、そうは言っても、やはりそれも難しいだろう。どう作戦を立てても、相手の優位は覆らないだろうな」
この圧倒的に不利な状況をどう切り抜けるのか。
作戦を練る主君の言葉を待つ二人はしかし、次の瞬間、にやりと不敵な笑みを浮かべたフィスフリークに、ものすごく嫌な予感がしてならない。
決してふざけてはいないが、こういう表情をする時の彼は本当にロクなことを考えていないのだ。
「だが今回、私たちには素晴らしい人材が付いている。一般人を巻き込むのは私としても心苦しいが、彼女は優秀だし、何よりただの一般人とはまた違うだろう」
「ま、まさか…。っ、フィスフリーク様!」
「あ、兄上。で、でもそれは…」
自信満々について出た言葉に、エフィナは非難の声を上げ、ウィラルーアでさえ狼狽えている。
まさか、ここで彼女を引っ張り出すとは思ってもみなかったのだ。
「今日一日行動を共にして、彼女はとても機転が利くし、気遣いもよく働く。そして何より、竜族から我々を守ったという実績もある」
もはや一般人ではないだろう。そう続ける彼は、本気そのものだ。
不満そうな部下二人に、何か問題があるか、と綽々と問いかける。
「っ、あるに決まっています! いくら何でも危険すぎます。彼女は巫師とはいえ、一般人なのですよ!? フィスフリーク様のご判断はあまりにも軽率すぎます!」
「兄上、すみません。でも俺も、今回はエフィナと同意見です。あいつは確かに色々と機転が利きそうだけど、何も知らない素人をあの組織と対峙させるなんて、いくらなんでも無茶だ」
即座に反対するエフィナに、こればかりはとウィラルーアも賛同する。
いくら兄を慕っているとはいえ、一般人を巻き込むほど考えは愚かではない。王族としての自覚もちゃんとあり、これでも公私はちゃんと分けている。
「……そう、か」
意外に譲らない部下たちに、フィスフリークは少し愁いた息をつく。
諦めるつもりはもちろんない。これが一番手っ取り早く、最も確実な手段だ。簡単には譲らない。それに、彼女が絡むと予想外な展開に事を運んでくれそうな気がする。もちろん良い意味で。
だからこそ、彼女には絶対に参加してほしい。
そう願うフィスフリークは、話し合いで確実に彼らから了承を得る気だ。
そしてそれは、手堅く、かつ巧みな語り部を延々と続けることで見事に丸めこむことに成功したのだ。