第二章・第一話 盟約の導03
それは、由那が見入っていた鏡が置いてある雑貨店に入った時のことだった。
―――視線っ…。一体誰の…!―――
違和感に気づいた由那が、警戒して身を固くした時。それは起こった。
唐突に背後から手が伸び、視界が遮られる。
「っ!?」
突然の痴漢行為。
あの時は相手が魔物だから役に立たなかった護衛術も、今は存分にその本領を発揮することが出来る。由那に抱きつくこの不逞な輩は運が悪かった、ただそれだけのこと。
日ごろ厳しく教えられたとおり、相手に体重をかけるべく由那が体を傾かせたちょうどその時。背後の人物から、思いもよらない声が掛けられた。
「ユーナ。一体何を見ているんだい?」
涼やかに問われた一言。
その声音とその意味、そして、その人物像が由那の頭に認識されるまで暫くかかった。
そして。
「フィ、フィ…、フィスフリーク……さん?」
驚愕と呆れが混じった、なんとも言えない呆然とした声音。両手が外され、鮮明になった視界と同時にぐるりと振り返る。
ぱっと軽く両手を上げ、にこにことこの陽気と同じく朗らかな笑みを浮かべる彼。その姿をまじまじと確認するまで、本当に今、この考えられない奇行に及んでいるのが彼本人なのか、俄かには信じられなかった。
だが、目の前に映る人物は紛れもなくこの国の国王。暁の太陽の光を宿す金髪を、ちらりと覗かせて微笑み、しかしそれらを見事にフードに隠したフィスフリークその人だった。
「いつもと容姿が異なるから、声をかけるのに暫し迷ってしまった」
「…………」
驚きのあまり声も出せずにいる由那をよそに、ケロリとした言葉が投げかけられる。
声をかけるどころか、何て呼びかけ方をするのか、と由那の頭の中は盛大な文句で埋め尽くされている。
「な、んてこと、なさるんですか…っ、フィス――!」
「リークで構わないと私は言ったはずだが?」
「…………」
由那の苦言をさらりと遮り、やわらかく微笑むその飄々とした仕草。思わず呆気にとられ、継ぐべき言葉を失ってしまう。
まさかこの由那が、口を挟むどころか恨み事一つ言うことが出来ないなんて。
そんな真似ができるのは、よほどの強者か、はたまた大うつけか。彼女が知る中では一人、いや。この世界に来てからはもう一人いた。むろん、最初の者は前者、この世界の者は後者に位置されている。
この彼は間違いなく前者だが、何となくもう一人と似ている気がしないでもない。いや、似ているからこそ厄介なのだが。
いずれにせよ、相手に己を乱されているという状況はいただけない。
「――~~~っ。……そ、それで、リークさんは一体なぜこんな所に?」
苛立ちをぐっと抑えこんだ低い声。むきになって反論しない所が、さらに彼の興味を引くとは、まさか思ってはいないだろう。
「ん? んー、なんだろうね。サボリ…、かな」
「は、い?」
その驚きように、フィスフリークはくすくすと可笑しそうに笑う。
からかわれていると分かっていても、それを表に出すのはなんだか負けたような気がして、由那は半ば意地になりながら冷静さを保とうと深く息を吐く。それが更に相手を楽しませているとは、やはりまったく気づいていない。
ついには口元に手を当てながら余裕のある瞳で見つめられ、由那はより一層不機嫌な気分にさせられた。
「ユーナ? …すまない。少しふざけすぎてしまったかな。いきなり驚かせてしまって、すまなかったね」
「え? あ、いえ。驚きはしましたけど、もういいですよ。あと数秒声をかけるのが遅ければ、私も護身術をかけるところでしたから」
「護身術?」
「はい。力のない女性が暴漢から身を守るための手段です。力はそう必要としない受け身の体術なんですよ」
「それは、なんというか…頼もしいことだね。巫師は基本的に巫術のみを極めていく者が多いと聞くが」
「いえ。もちろん私も剣術や体術はさっぱりです。剣は握ったこともないですし。私が習った護身術は、身を守るための手段というか、相手を油断させて逃げる術というか。そんなところです。…と、そうは言っても対人間用のものなので、魔物などにはやはり巫術で一掃した方が確実なんですけれど」
由那の語った暴漢という単語にいささか衝撃を受けているらしいフィスフリークだが、彼女が続けた補足でだいたいの用途が分かったらしい。
「では、先ほどの私はかなり危険だったわけだね」と苦笑しながら、もう一度謝意を告げた。
「そういえば、抜け出してきても本当に大丈夫なんですか?」
先ほど、エフィナのあの冷え冷えとした態度を目の当たりにしているため、由那は恐々と尋ねる。
何やら並々ならぬ事情があるのではないのだろうか? と。
「平気だろう。私がいなくともウィラが何とかするよ」
彼も王族で、そして、王弟なのだから。
ふっと、今までとは少し違う笑みをこぼす彼を、由那は思わず目で追ってしまう。
なんというか、今の彼はフードで顔がほとんど隠れているので、普段ほど目立つことはないというのに、場を支配する強い存在感があるのだ。彼が可笑しそうに微笑む度、あたり一面が輝いて見える。
幸い、店内の客は彼のそれに気づいた風はないが、手早く切り止めて外に出た方がよさそうだ。
由那がじっと探るように眺めていたことを知ってか知らずか、深くフードをかぶり直してフィスフリークは続ける。
「もともと、私自らが訪れるまでもない視察だからね。それに実を言うと、早急に王都へ帰還するのが気重だったというのが本心なんだ。一国の王も、たまには自由に羽を伸ばしたいといった所だよ。…なんてね」
物憂げに遠くを眺める様子に、またしても言葉を失くす由那。しかし、それに気がついたフィスフリークは、冗談交じりに苦笑する。
なんだか上手く誤魔化されてしまったが、それだけだったとは決して思わない。
由那は、一国の王という立場がどれだけの責務を負うのかなど知らない。知る由もない。けれど、自分もそれに近い重圧は知っている。
それは言うまでもなく、彼女の家のこと。出生からつい3ヶ月前まで、彼女の悩みの種だったものだ。
だった、というには些か無責任すぎるが、彼女を縛りつけてならなかった煩わしい柵。疎ましい繋がり。決してなかったものにしたいわけではないけれど、父の家庭を顧みない仕事ぶりや、母の放蕩な性格、親族の鬱陶しいまでの干渉は今思い返しても大きなストレスになる。
それでも由那は、自分を守ってくれる人や支えてくれる存在、そんな人たちに庇護されていたし、まだ未成年だったこともあり、それほど重く責任のある場所にはいなかった。
だから本当の意味で、今目の前に映る若き国王が背負う責任や重圧が理解できるわけではない。
でも。彼にしたらほんの少しの、ほんの僅かな比べるまでもない小さな重圧だったとしても、それを少しでも知る由那は、彼が誤魔化した言葉の中に隠された心があることに気がつくことが出来た。
「じゃあ、せっかくですし、案内していただいても良いですか? やっぱり、初めての土地を見て回るのは大変なので」
髪とは違い、竜族云々の理由をこじつけてしまったがために染められなかった漆黒の瞳が、すっと彼に注がれる。
たとえ双黒でなかろうと、黒い瞳は珍しい。それを考慮してあまり上目をしないように心掛けていた由那だったが、今ははっきりと彼を見上げている。
あまり長い時間見つめていたら、店の主人や客たちに気づかれてしまう。しかし、それでも由那は見上げることを止めない。
真摯な瞳に、思わず吸い込まれそうになるフィスフリークは、はっとして周囲の気配を探る。
大丈夫。まだ気付いた者はいない。
小さく安堵の息を吐くと、彼もしっかりと由那の視線を受け止めた。
「そうだね。私もそう何度も訪れているわけではないが、それでよければ」
了承の意を示す彼に、由那はふわりと微笑んだ。
「うーん、美味しい。とっても美味しいです」
「だろう? キルグのパイはこの町一の名物デザートでね。さっき言っていた馴染みの店というのもここのことだよ」
「そうなんですか。ふふ、楽しみにしていた甲斐がありました」
フィスフリークが案内するコースは、彼が王族であることを忘れてしまうほどにごく庶民的な、思っていたよりも仰々しくない観光めぐりとなった。
まさか、こんな町中で堂々とパイを食べ歩きながら観光している彼が、この国の最高権力者であるなど誰も信じないだろう。それほどに自然な仕草で、彼は町中に馴染んでいる。
その優美な容姿が隠されていなければ反応も違うかもしれないが、それでも、こうしていればただの年相応の青年に見える。
「ん? どうかしたかい?」
じっとフィスフリークを見ていたが、どう捉えたのか、彼は由那の視線を追ってちょうど向かいにあった武具店に目を向ける。
「ああ。せっかくだから、巫具でも見ていこうか」
「え?」
鋭く相手を観察している割に、変に見当はずれな所がある。
この彼が、あの見事な言い回しで自分を引きとめたなんて、なんだか変な感じだ。思い出して苦笑しつつ、由那は快く頷く。
「そうですね。何か良い飾りがあればいいですけど」
飾りとは、巫術を補佐したり防御にも使われたりする装飾品のことである。
由那が今羽織っているコートの下に着ている巫の礼装にも十分に付いているが、いくら物が良い礼装とはいえ、この装飾品だけでは些か不安だと思っていたのだ。
巫術を補佐する装飾の玉は、もちろん多いに越したことはない。
「あ。でもちゃんとパイを食べ終えてからじゃないと、お店の方に迷惑ですね」
二人とも両手に手のひらサイズのパイを持っている。
一つは野菜やハムなどが包まれた軽食系のパイで、もう一つは柑橘系のヘルシーなパイを注文した由那とは対照的に、フィスフリークは両方ともデザート系の激甘パイだ。
意外なことに、彼は激甘党であるらしい。
そういえば、エフィナ達と昼食に立ち寄ったカフェでも、飲み物に容赦なく砂糖を入れていた気がする。
―――あ、甘党国王…。―――
余計な知識を頭にインプットしてしまった由那をよそに、フィスフリークは上機嫌にパイを平らげる。そんな彼をまじまじと見つめていた由那は、自分の手元にはっと気づき、慌ててパイを食べ始めた。
「すごい品ぞろえですね。でも、いくらラミノルだとはいっても、出店でこんなに揃っているものなんですか?」
専門店でもないのに所狭しと並ぶ武具や巫具。その品ぞろえの良さと良質な商品に、思わず問いかける。
「ここは少し特殊ではあるけど、他も大体似たような品ぞろえを誇っているよ。でも、このリグの武具店は、やはり一味違う」
その親しみの込められた口調に、恐らくフィスフリークも重宝している店なのだと由那は悟る。
確かに彼の言うとおり、店から感じる品物の力の流動が、強く大きく感じるものが多く置いてあるのが分かる。
「らっしゃい。おや。こりゃまた、えらく別嬪なお嬢ちゃんだな」
「へ?」
「お褒めの言葉はありがたいが、私の連れを気安く口説くのはいただけないな、ご主人」
由那が反応するよりも早く、意外にもフィスフリークが素早く庇う。
その間髪入れない返答に、店主はまいったと言わんばかりに苦い表情を浮かべた。
「いやはや。なかなかガードが堅い旦那どのだ。あまり独占欲が強いと、この可愛らしいお嬢ちゃんに愛想尽かされちまうぞ」
「だ、だんな…」
これまた主人の意外な切り返しに思わず口を開く由那だが、それはまたしてもフィスフリークによって遮られてしまう。
「それは困るね。しかし、我が姫が巫具の飾りをご所望でね。何か良い品はあるかな」
「おうおう。言うねぇ、旦那。だがまあ、お姫様がご所望とあれば。
しかし、姫君のお眼鏡にかなうものがあればいいが。どれ、これなんかお勧めだが、どうだね?」
「…………」
このやりとりはノリなのだろうか。
由那が唖然としている中、テンポ良く進められていく交渉に、そう思わずにはいられない。
ここが彼の馴染みの店であるなら、店主のノリに合わせられるのも当然のことなのだろう、と。
「オルイード産の天然石だ。あの深淵の森近くで採れたって代物で、今かなり値が高騰している人気の品だ」
オルイード国は、ルティハルトの北にある大陸のちょうど中央に位置する国だ。その東端に位置する場所に、由那がこの世界に帰って来た時に出現した深淵の森がある。
魔物が頻繁に徘徊する場所の中で、最も忌み嫌われる深淵の森の近くで採掘されたと言う割に、あまり瘴気を含まないその天然石を見つめ、由那は少し眉根を寄せる。
どうも胡散臭く思えてならない。
「――…あの、あちらの方を見てもいいでしょうか」
「へ? あ、ああ。そりゃ、構わんが…」
店主の勧めた飾りを軽く無視し、由那は自分勝手に店内を見回る。
それに肩をすくめるフィスフリーク。店主は二、三度瞬きを繰り返し、やれやれといった様子で息を付いた。
「………」
「これかな?」
じっくり店内を見回っていた由那が目を留めた品物を見、それまで静観を保っていたフィスフリークが問いかける。
白銀造りの柄。まるで白亜の月光を浴びたような見事な一品。
先端は三日月を模ったように湾曲し、柄と先端を繋ぐ部分には、グラデーション見事なアズライトの宝玉が繊細かつ重厚な光を添えている。
永劫の杖・アイオーン。
それはかつて、暦道のイブリースが創造せし、究極の時の力を秘めた杖。三日月の先端に埋め込まれた宝玉は、世界の至宝とも評される時空石。そう、まさしく時の杖だ。
その杖を目に留め、由那は苦い微笑みを浮かべる。
これは、彼女が唯一の存在に贈った巫具。相手を想う慈愛、そして未来の成功を願って作ったものだった。
だがまさか、こんな所で再び相見えることになろうとは――。
「この杖は…?」
自嘲と焦燥の入り混じった複雑な心情をあらわにする由那に、並々ならぬ雰囲気を感じ取ったフィスフリークは、思わず杖を手に取ろうとする。
「っ、駄目! 触らないでっ!!」
よほど慌てていたのだろう。
いつもの敬語すら忘れた由那は、次の瞬間。彼よりも早くその杖を掴んでいた。