第二章・第一話 盟約の導02
パチ、と薪のはぜる音が響く。
それをじっと眺め、何やら深く考え込んでいる由那は、背後にシャオウロウ達が出現していることに不覚にも気づかずにいた。
『些か不用心であるぞ、由那』
呼び声にはっと振り返る。
自身の影から姿を現す眷属たちを目にとめた途端、小さく息を付くその仕草は、彼らの気配に気づかなかったことに呆れているのか、それとも別のことか。いずれにせよ、芳しくない状況であることは確かだ。
旅の同行が決定して以降、由那は必要以上に眷属たちが人目に晒されるのを防ぐため、極力姿を隠すよう彼らに命じた。その彼らの隠れ場所が由那の影の中であり、こうして由那が一人の時や、人目につきにくい夜以外の出現はなるべく避けるようにしてもらっている。
「シャオ、ギール…」
なんとも情けない、らしくなく気落ちした面差し。
シャオウロウは視線を落とし、ギガルデンはがしがしと頭をかく。
「おい由那。マジでばっくれた方がいいんじゃねぇか? 王だぞ王。しかもルティハルトのだぜ」
視線をあちこち泳がせながら、ぶっきらぼうな、しかしこの上なく主のことを考えたギガルデンの言葉。姿を隠しているとはいえ、その存在は由那の影の中にあるため、彼女の周りで起こった出来事は二人にも伝わっている。それゆえの忠告。
確かにギガルデンの言うとおり、王族と言うだけで心底厄介だと思っていた。ましてや王など冗談ではない。あの時とっさに諌めたが、内心ものすごい悪態をつきそうになった。いや。心の中ではそれはもう盛大に毒づいていた。
何があろうとも、たとえ人の生き死にに関わることがあったとしても、絶対に、もう二度とルティハルトに関わるつもりはなかった。
だというのに。
「ありがとう、ギール。でも…、ごめん。それはできない」
諦めの混じった表情とは裏腹に、覚悟を決めた鋭い眼差しが光る。
深く、夜を抱く闇よりも暗い、底なしの漆黒の双眸。それが注がれるスカイグレーの瞳は、一瞬戸惑ったように揺れる。
由那とて動揺していないわけではないのに、それでも依然として変わらない暢気な様子に、舌打ちが混じったため息が漏れる。
同時に咎めるような強い視線を返してきたが、まったく動じない何を考えているのか掴めない由那の雰囲気に、その視線はついに逸らされてしまった。
にっこりと由那は笑む。
「シャオも異論ない?」
『………』
確認せずとも分かりきっている答えをわざわざ問いかける。
心底意地の悪い由那に対し、シャオウロウは声を出さず、小さく頷くだけで了承の意を示す。
「ん。了解」
彼らの返答に満足そうに頷き返す由那は、若干すっきりした面持ちで立ち上がる。冷たい夜風を肌に感じながら、空気を一つ大きく吸い込む。
火にあたっていても夜はさすがに冷える。そろそろ用意されたテントに戻った方が良さそうだ。
由那は静かに手をかざし、二人に影に戻るよう合図する。それに答えるように、眷属たちは音もなく影へと消える。
「フィスフリーク・エオル・イルグロード・ルティハルト…か」
エフィナが共に眠るテントへと戻る際、一人こぼしたその名の響きを、由那は静かに胸に抱いた。
翌日、由那も馬に慣れたこともあり、一行はほぼ休みなくラミノルへと向かった。
その甲斐あってか、予定していたよりも早く、昼前にはラミノルの関門を無事通過することが出来た。むろん彼らの身分は明かさず、一騎士団を名乗ってのラミノル入りとなったが、準備のいいことにフィスフリークは由那の分の通行許可証まで用意していたのだ。レハスで作ってもらった許可証があるからと申し出た由那に、分隊の一員に異国の町娘が混じっていたら不審に思われると言われてしまっては仕方がない。昨夜の話し方からいって、彼らもなにやら身分を明かせない事情がある様子だったので、ここは大人しく従っておいた方が得策だろう。
だからなのか、フィスフリークも当初の由那と同様、ラミノルが近づくとその頭にすっぽりとフードをかぶっていた。しかし、肝心の由那はフードをかぶっていない。
乗馬初心者が視界を狭めて馬を進めるのが危険だという事もある。だが、それとは別に理由があり、そして、目を見張る重大な出来事が発生している。
それは今、軽快に馬を操り、駈ける風に靡かせる由那の髪が黒ではないということだ。
乗馬の振動で上下に揺れるやわらかな髪。生まれてこの方、一度も染めたことがない純の漆黒であるその髪は今、アッシュブラウンに見事に染められている。
むろん、この世界にカラーリング剤などあるわけがない。これは、由那お得意の巫術によって染められたものだ。
ただ単に光の巫術で屈折率を変えているだけにすぎないが、由那はこれをギガルデンの竜族特有の術だと彼らに説明をしておいた。実際、これを施したのもギガルデンなのだし、嘘は言っていない。
それほど高度な術ではないため、この程度の術なら由那も問題なく自分で掛けられた。だが彼女は、フィスフリークたちに自分は風の巫師だと告げている。一度属性を名乗った以上、それ以外の属性を扱えることが発覚するのはよろしくない。ウィラルーアを治療した一件で、フィスフリークにはもう一つの属性、時の巫師だということがバレてしまってはいるが、彼は何も聞かず沈黙を守ってくれている。同じくその場にいたエフィナも気づいているように思われるが、何も聞いてこないので由那も黙っている。唯一、治療を受けたウィラルーアだけは気づいていないようだが。
とにかく、フィスフリークが自分の髪も変えられるかという質問は、前述の説明で断れたし、由那が一つ(内密にも二つまで)の属性しか操れない巫師であることもそのまま守られている。まさか全属性を扱えるなど、間違っても口を滑らせるわけにはいかない。もとより告げる気はないが、もともと人間の限界は3属性までしか扱えない。バレたらどうなるかなど分かりきっている。
それよりも、シャオウロウ達を影に潜ませたり、自身の髪の色を変えたりと、今更ながらそれをやっていることに、由那は自身の考えの至らなさを痛感していた。
もっと早くこの方法を取っていれば、レハスから同乗した行商の男性や、ルティハルト国境近くの門兵にシャオウロウの姿を見せることもなく、そして、ギガルデンを止めるために現れたリスクード城でも、フードをかぶることを失念していたにせよ、フィスフリークたちに自身の容姿をまざまざと晒しても漆黒を印象付けることはなかっただろう。もしかしたら、現状まで至らなかったかもしれない。
いや。たとえ双黒ではなかったとしても、それは由那の醸し出す雰囲気がフィスフリークの興味を煽って同じ結果になっていただろうが、それでも、こうして王都まで同行させられる羽目にはならなかったかもしれない。
全て仮定のことでしかないが、冷静に考えるとつくづくタイミングと要領の悪い自分を呪いそうになった。
「……………」
馬上で深々と眉間にしわを寄せている由那をよそに、関門から一直線に伸びる石造りの大きな橋を渡ると、そこには何とも賑やかな街並みが広がっていた。
「相変わらずすごい喧騒だな。そういえば、こうしてラミノルを訪れるのは久々ですね、兄上」
「ああ、そうだったかな」
ラミノルの町。
そこは各国から様々な物資が集う商業都市の一つで、この町で手に入らないものは無いと称されるほどの品揃えの良さを誇る商業屈指の一大都市だ。
行き交う人々も商人や行商、そして物資を買い求める客で埋め尽くされ、まともに歩くのもままならない賑わいを見せている。
「本当にすごい賑わいですね。さすがはルティハルト国が誇る大商業都市。活気があって華やかで、色々と目移りしてしまいそうです」
現代都市のそれには及ばずとも、これほどに人の行き来の激しい様をリヴィルへ来て初めて見る由那は、思わず素直な感想をもらす。
「この町の人通りの多さや喧騒は一つの売りではあるが、ラミノルを知る者は、やはり早朝が一番いいだろうね。知る人ぞ知る、魚市の競りは見ものだよ。毎朝近くの湖から上がる魚を競り落とす様がなんとも躍動的でね。私も数年前にお忍びで競りに参加したんだが、やはり素人は分かってしまうんだろうね。全く歯が立たなかったよ」
「競り、ですか。私は実際に見たことはないですけど、でもなんだか面白そうですね」
「ユーナならば、彼らは挙って魚を差し出すだろうね。競りすらも忘れてしまうかもしれないな」
「まさか、そんな大げさな」
それを言うならば、フィスフリークこそであろう。
恐らくお忍びの時は、今のようにフードを深くかぶっていたに違いない。
「しかし、早朝にこっそり宿を抜け出すのは難しいだろうから、今回は無理そうだ。その代わりと言っては何だが、あとで私の馴染みの店に案内しよう」
「リークさんの馴染みのお店…ですか?」
「やはり私の勧めでは不満だろうか」
反芻するようにつぶやいた由那に、フィスフリークはやや芝居がかった様子で苦笑する。
「いえ、もちろん楽しみですよ。リークさんが馴染みにされているお店。ただ、そうではなくて…、一国の王が馴染みにしているお店というのが少し想像できなかっただけです。でも、そうですね。楽しみにしてます」
「それは良かった」
期待のまなざしを向けると、それに応えるように微笑む。
お互いに穏やかな雰囲気で了承がなされたが、そこに水を差すのを一瞬ためらいながらも、やはり言わずには居れないらしく、フィスフリークの後ろに控えていたエフィナが一つ咳払いをして話に割って入る。
「申し訳ありませんが、フィスフリーク様。ここへ立ち寄った目的をお忘れになりませんように」
「はぁ、エフィナ。些か無粋すぎやしないかな。確かに其方の言うことは紛れもなく正論だが、たまには私に気を使ってもバチは当たらないよ」
「そうしたいのはやまやまですが、フィスフリーク様の戯言にいちいち構っていては仕事が滞っていく一方ですので。これ以上職務に追われては、いずれお体を壊しかねません。私はまず、仕えるべき主の健康状態を第一に考えておりますので、それ以外のことで気を使うのは、職務に空きが出来たらで十分かと」
淡々と意見を述べるエフィナに、さすがのフィスフリークもため息を禁じえない。
「わかった。残念だが、まずは仕事を片すのが先決だ」
軽く諸手をあげて降参する。その様子に満足げなエフィナは、ちらっと由那を見、済まなそうに会釈を返す。
昨夜の冷戦でどれだけ彼女が苦労しているかを知った由那は、彼女のストレスを軽減させてあげなければと思ってしまう。とりあえず、絶対に見に行きたいという訳ではないのだ。それほど差し支えはない。
「そういうわけで申し訳ないけれど、ユーナ。これから宿を取ったあと、私たちは仕事に取りかからねばならなくなってしまったんだが…」
「はい。ええと、別に大丈夫ですよ、私なら。せっかくですし、ラミノルの町を色々と見て回ります」
「本当にすまない」
「いいえ。ここへ立ち寄ったのも元々は仕事のためなんですし、そちらを優先してください。リークさんの馴染みのお店に案内してもらうのは、時間があったらでいいですから」
明らかに気を使っている様子に、単独行動でも別段気にならない由那は正直に告げておく。
この間にばっくれてしまおうというつもりは、一応は無い。したいのはやまやまだが、見つかった後が怖い。とりあえずは観光が第一の目的だ。
「そうだね。では、なるべく早く仕事を済ませてしまうとしよう」
「え、ええ。でも無理をしない程度に頑張ってくださいね」
俄然はりきっているフィスフリークに、以前の強行を知る由那はちらりとエフィナ達を見る。一番に被害を被る彼女たちを気遣わしげに見つめ、苦笑して激励を送る。
しかし、そんなに店に案内したいのだろうか?
と、満面の笑みを浮かべる彼を見、怪訝な思いを抱く由那は、とりあえず表情だけは微笑みを絶やさないように気を張っていた。
それから一行は宿(意外にも一般的な)を取り、由那とは完全に分かれた。
昼食は一緒に取ったために心配されることはなかったが、一人で行動することにフィスフリークから異様なまでに心配されてしまい、何だか初めておつかいを頼まれた子供のような気分になってしまった。
一人にしたら十中八九逃げることを危惧しているのかとも思ったが、ふと思い至った考えに、深々とため息をつく。
恐らく。カイルがそうだったように、自分は彼らにも年相応に見られていないのだろう、と。
一応、彼らにはすでに由那の年齢を告げてある。
その時、特にウィラルーアには『俺より年上なのか、それで!』などと驚かれたことが記憶に新しいが、フィスフリークはそれを失念しているのだろうか?
「…………」
ひどく侮辱された気がして、由那は苦い表情になる。
今までそれほど子供っぽく見られたことがない、むしろ実年齢より上に見られていた由那にとって、この事態はあまり面白いものではない。
自分はそんなにも子供っぽく見えるのだろうか、と、ふと立ち止まった雑貨店の鏡を覗き見る。
今は染められているアッシュブラウンの髪と漆黒の瞳。
しげしげと眺めるその姿を、背後からじっと見つめている者がいることなど、不覚にも由那はまったく気づいていなかった。