第一章・第四話 リスクードの湖畔11
「負傷者14名。しかし、いずれもかすり傷など軽傷なもので、重傷者はおりません。気の影響で気分がすぐれない者は多いものの、生命の危機に達するほどの影響はなく、また、身体的に影響を受けた者もすでに治療を受けているそうです」
「そうか。それで死者数は」
「ゼロです」
「ゼロ? あれほどの殺気を浴びながら?」
「はい。あれほどの凄まじい殺気を浴びながら、死者は幸いにも出ることはなく」
淡々とした報告をエフィナから受けながら、城内に戻って指揮を執るフィスフリークはそうか、とほっとした表情をのぞかせる。
「それで、城の被害状況は」
「はい。そちらは少々深刻な箇所がありまして。まず西塔の中央回廊、吹き抜けの天井部分から一階まで見事に崩落しています。そして同じく西塔一階、最奥の部屋から二部屋ほどの柱が倒壊。これに伴い、二階から四階までの部屋周辺は立ち入りを禁止するよう指示を出してあります。それから、細部まで報告するならば、外側周辺もひびや破損個所がいくつか発見されています」
西塔。それはちょうど、ギガルデンが騒ぎを起こした場所の真下にあたる部分。派手な攻撃などはなかったにしろ、彼の放出した気の影響で亀裂や建物の陥落を及ぼしたのだろう。
幸いだったのは、そこに下敷きになった者たちがいなかったことだ。これに巻き込まれていたら、さすがに死者数ゼロとはいかなかった。
階上から衝撃で落ちた者たちは何人かいたようだが、その者たちが負傷者なのだろう。とにかく、命に別状が無くてよかった。
「西塔の北側部分、か。書庫などが使えないとなると、すぐに修復をする必要があるな。まずは兵の半数を城の修繕に配置し修繕にあたらせ、西塔北側全区域の封鎖通達をせよ。書庫にある重要書物の確認・運び出しはひとまず修繕後に回す。指揮はエフィナ、其方に一任する」
「御意に」
てきぱきと責任者の表情で指示を出すフィスフリークにしかし、由那が口をはさむ。
「あの。修繕の方ですけど、壊した本人にやらせるのでお気になさらないでください。もともと迷惑をかけたのは私たちですし、責任を持ってしっかりと直させますから」
「だが、それは」
「城内の修繕の際には私かシャオが付き添います。何かあろうものなら即座に彼の手綱を引きますから、安心してください。今日のようなことは金輪際、もう二度と起こさせません」
城の者たちがギガルデンを畏怖するのは最もなこと。だから由那は先に妥協案を提示する。
ここに本人がいようものなら文句の一つもあろうが、幸か不幸かその人物は現在、事の起こった城のてっぺんにて大人しく修繕作業にあたっている。それを言い渡された彼の顔は清々しく、とてもすっきりとした表情をしていた。
彼の癇癪は、さすが主らしく由那がすっかり解消させてしまっていた。なによりも、そもそもこの騒ぎの根底には由那も責任があるのだから、当然と言えば当然のケリの付け方だろう。
「城を破壊したのはギガルデンなのですから。それを彼が修復するのは当然のことです」
結局、由那のこの一言が了承させる決め手となった。
昨夜の騒ぎ諸々、そして滞在先としてあてがわれた部屋に少年が寝かされたことにより、由那たちは新しく用意された一区画にて一晩を過ごした。先だって用意された部屋と同等か、またそれ以上の豪華さのそれに半ばため息混じりの由那、そして理由は様々ながら、不機嫌でムスッとしている二人の眷属も一緒に。
少年に対しての苛立ちと同族への悔みと疑念。少年や青年を背に乗せたことへの不満と、奔放な主の行動を愁いての諦め。久しい眷属との再会の喜びと自分自身への自責、そして現状で最も厄介な大国の内情に精通する要職たちとの接触の懸念。
それぞれの思いを胸に過ごした一夜が明け、日の出とともに目覚めた早朝。
「ギール。城内も綺麗にちゃんと元通りにしてね」
「………お、おう」
上を修理し終えたギガルデンは翌日、否応なく城内の修繕に駆り出された。
至急の用事に取りかかる銀の竜、それを見張るよう言い渡された白の狼以外は、特に予定もなく日がな一日を過ごす――はずだった。
コンコン。と、自室のドアがノックされる。
「はい」
読み進めていた書物から目を離し、ドアの方へ返事を返す。
この国の面倒な所は、返事をしても部屋主がドアを開けないと人物が入ってこない所だ、とそんなことを由那は思いながら仕方なく立ち上がる。
高級ホテルのスイートルームばりの広さがあるこの部屋から、よく微音なノック音が聞こえたと言いたくなるほどの部屋を速足で抜け、ただ内と外を仕切るだけの回廊へと続く扉とは言いがたい、豪邸の玄関ホールのそれほどに広さのあるドアへと向かう。
だが実際、やることと言えばカイルからもらった周辺地図を眺めるなどの暇つぶし程度のことしか出来なかったので、静かな室内では当然それが聞こえた。
「はい」
開ける際、もちろん誰かという推測はしよう。あまり思いたくはないが、王族ながら昨夜由那を迎えに来たフィスフリーク。彼付きの宮廷巫師であるエフィナ。ギガルデンならばノックなどしないので除外として、それ以外であれば昨夜由那の話を聞きいっていたメイドの誰かだろうという予想が、今考えうるものの候補だ。
しかし、世の中そう思い通りにはいかないもので、由那の予想は木っ端微塵に吹き飛ばされることになった。
「朝早くから申し訳ない。まだおやすみかと思ったが、起きている気配がするので寄らせてもらった」
「…は、はぁ」
扉のノブを掴んだまま固まった由那。見つめる視線の先には、昨日ギガルデンが殺気を向けていた少年、その人だった。
「も、もう、お加減はよろしいんですか?」
半ば呆けていた佇まいを正す。
昨日よりも少年の態度が硬いのは、恐らく事務的な訪問であろうことが察せられた。もちろん嫌な予感満々。それでも社交辞令として調子は聞くべきだろう。
「ああ。その節は誠に感謝している。命を救っていただいた恩人に礼もなく退席したことをお詫びする」
「いえ、当然のことをしたまでですから。私の方こそ、彼をもっと早い段階で止められず、すみませんでした」
「しかし俺…いや、私はそれで助けられたのだから」
硬い口調。一人称を言い直すあたりが、年の若い少年らしい所だ。
見た目はギガルデンとそう変わらない年の頃。あの時の喋り方が本来の彼のものなのだろう。その方がらしい。
恐らくフィスフリークと同じ。彼もそうなのだろう。
「申し遅れました。私はユーナと申します。
恐らくフィスフリークさん、いえ、フィスフリーク様からお聞きになられているかと思いますが、ラウトルグに居りました今は旅の巫師をしている者です」
彼が硬い口調だからではなく、しっかりとした丁寧語で話す。由那の予想が外れてなければ、恐らく彼も。
「それを言うなら私の方だ。私の名はウィラルーア・リエラ・イルグロード・ルティハルト。恩人に先に名乗らせて失礼した」
「――………」
やっぱり、というまでもない。
その絹糸のように柔らかで流れるような木漏れ日の髪。見つめる瞳は、片方は紅玉のような真紅の色でも、もう片方が空の青のように澄んだブルー。その面差しもフィスフリークそっくりに整った顔をしている。
若干フィスフリークの方が優しげで女性と見まがう美しさだが、彼もきつめながらも麗しい面差しをしていて、佇むその仕草すら周囲と逸脱した雰囲気。これが彼と赤の他人であろうはずがないというものだ。違う所を上げるならば、彼の方は少し棘のありそうな感じに見えていたが、硬くも丁寧なこの自己紹介にそうではないのかもしれないとも感じる。
「彼は…いないのか?」
「ええ。城内の修繕に向かわせました。もしやギールにご用でしたでしょうか?」
「い、いや。そうではない」
明らかにびびっているその様子に、由那はからかうように付け足すが、もちろんというべきか、即座に否定される。
誰が命を脅かす存在に好んで会いに来ようか。オッドアイの瞳がそう如実に物語っている。
涼しい顔でそうですか、などと受け答えする由那からは、一切その考えが伝わってこない。
「シャオ? どうしたの。ギールを見ていたはずじゃ…」
『うむ。なにやら人の気配を感じたゆえ。異常がないか様子を見に来た』
ぬっと現れたシャオウロウにびくり、とウィラルーアの肩が震えた。
些細な変化を敏感に感じ取った由那だが、確か彼は飼獣は乗り慣れていると言っていたはずだ。つまり、飼獣の一匹や二匹では別に驚きはしない、と。
「どうかされましたか?」
足元にすり寄るシャオウロウの頭を撫でながら不思議そうに首をかしげる。どうやら彼に怯えている風ではなさそうだ。
ではいったい何に。そう思った由那の思考は、次にウィラルーアが紡ぐ言葉に中断された。
「侘びと礼を兼ね、朝餉に招待したいと思っているが、差し支えないか?」
「…………」
は?
弧を描いていた唇が下がりかけ、周囲の空気が若干下がる所だった。が、何とかそれを堪え、相手を見つめ返す。
次に同じ言葉を吐き出しやがったらどうなるか分かってるだろうな、的な不機嫌オーラを過敏に感じ取っているであろうシャオウロウは、微かに身震いしている。
目の前の彼が辿る道が知れた。
「いや、だから、朝餉に招待したいのだが、差し支えはあるのかと聞いているんだ」
ぴしり。由那の笑顔に亀裂が走る。
その瞬間、シャオウロウが反射的に彼女から離れたのは言うまでもない。
「…………………、そう、ですね。特に差し支えはありません」
至極平然。至極冷静。だが、どこか冷え冷えとしている。
「そうか。では半刻ほどしたら使いを…」
「いいえ。このままで大丈夫です。案内していただけますか?」
「へ? いや。だ、だが、女性にはそれ相応の準備があるとかエフィナが……」
「いいえ。まったく必要ないですよ。ですから、このまま、すぐ、行きましょうか」
静々とした仕草でにこにこと、遠慮のえの字もなく強引に押し通る由那。その浮かべている笑みはまったく笑っていない。
この彼の誘い。それがいったい誰の差し金なのか。そのことを十分理解しているからこそ、いや、それでなくとも不愉快なことこの上ない。
「そ、れならば…お、お手を。ユーナ殿…」
恐る恐る由那にエスコートの手を差し伸べる。それを無感情で受け取り、手を乗せる。
「では…」
こちらへ。
そう続けたウィラルーアのエスコートの下、由那は豪奢な回廊を歩いてゆく。一昨日も同様に彼の兄にこうしてエスコートされたが、その時とは別の意味で様々な感情が湧く。
ぎこちなく由那に時折視線を送るこのなんとも空気の読めないウィラルーア。彼も王族なのだし、そして何より『あの兄』の弟なのだからもう少し賢くてもいいはずなのだが、と由那は内心失礼な感想を述べる。
というよりもなによりも、彼は恐らく。
「ブラコン…だよね。たぶん」
「? 何かおっしゃったか?」
「いいえ。何も」
ぽそりと呟いた言葉が耳に届いたようだ。立ち止って振り返るウィラルーアに対し、これ以上ない麗しの微笑みを浮かべる。
―――あれだけ綺麗で優秀そうな人を称える気持ちは分かるけど。でも、何もかも兄の言いなりっていうのは、国を担うべき王族としてはちょっとどうかと思うけど。―――
ウィラルーアのような人物なら逃げ切るのも可能だったのに、と嘆息を付く由那の気持ちは、彼女の腹の底でマグマだまりとして残ることとなった。