第一章・第一話 再びの大地03
「ふう」
見合い話を断るために居もしない相手を作った由那は柳田のフォローもあって、その架空の人物に対して根掘り葉掘り聞かれることは回避する事ができた。
ただ『婚約』だの『将来を見据えて』だの、慕っていると言っただけでそこまで話を発展させる脳みそお花畑、もとい恋愛畑の母の相手は本当に疲れた。由那は両親と何処までも馬が合わないと、改めて要らぬ再確認をさせられた気分だった。
「お疲れだな。ほれ、紅茶入れたから飲め」
「…ありがと」
ベッドに突っ伏してぐったりしている由那はふらりと起き上がってカップを受け取る。今日は良く晴れた一日だったが、もう11月の下旬なので温かい紅茶が心地良い。
リラックスしてそれを味わっていると柳田が人の悪い笑みを浮かべている事に気づき、諦めたようにため息を付く。抵抗する気力など当に使い果たしているのだ。
「約束どおり協力してやったんだから、何かおごれよな」
嫌な予感どおりの面倒くさい要求をしてきた柳田に対し、彼とやり合う体力などまったく残っていない由那は、諦めてうな垂れるように返事を返す。
「もう、わかったよ。わかりました。本当、ありがとうございましたー。で? 何をおごったら宜しいんですか?」
「最近料理が美味いって評判のホテルあるだろ? あそこの最上階にある最高級レストランの予約で。当然窓際リザーブな」
「………はいはい」
僅かに残った力で、先ほどの柳田のような嫌に丁寧な言葉を使った嫌味を乗せる由那だが、あっさりと返された事にあえなくKOし、僅かな力すら失って脱力する。
ああロマンチストだこと。と半ば諦めたように言う由那は、手で追い払う仕草を見せる。その様子にむっとした柳田は由那の頭を鷲掴みにする。
「ちゃんと連れてけよ?」
「はい? 真希ちゃんと二人で行くんじゃないの?
…て言うか痛い!」
頭を掴んでいた柳田の手を強引に振りほどく。不機嫌だと分かる表情で睨み付けてやる。
真希とは柳田の奥さんの名前だ。昨年の結婚を機に寿退社したため、それから随分と会っていない。由那の事を色々時にかけてくれた、とても気さくな姉のような存在だった。
確か先々月辺りに妊娠したとかで色々と電話などはしているが、まだ正式に妊娠祝いを贈っていなかったため、柳田への見返りとしてではなく丁度良いからプレゼントとしてレストランに招待しようと考えていたのだが。
「俺と真希と由那の三人で行くんだよ。あいつもそろそろ由那に会いたがってる頃だったしな」
「ふぅん? 奥さん思いの良い旦那さんだねー」
「当然。何だ、寂しいのか?」
「…何の冗談?」
嫌味を更なる嫌味で返され、思わず寒気がする。洒落にならないほど間近で覗き込まれ、本当に冷や汗ものだ。
まったく、冗談ではない。と、笑い飛ばせたらどんなに楽か。兄であり、父のような存在だと、清々しく言い切れたらどんなにいいか。複雑な心情と共に、由那は暫し昔のことを思い出す。
由那が物心ついた頃には既に柳田は側に居た。人生の中で彼と一緒にいた時間が最も長く、兄妹のように思って育ってきたのだ。その兄が、姉のように慕っていた真希と結婚した事は由那にとって最も嬉しい出来事だった。心から祝福し、二人が幸せであってほしいと願っている。
だがそれと同時に兄を姉に、姉を兄に取られてしまったような悲しい気持ちが無かったわけではない。真希が寿退社してしまったことも本当は寂しかった。
でも最も寂しいと思ったのは、やはり自分が自覚しないところで芽生えていた心。だがそれは決して相手に何かを期待し、望んでいるわけではない。ただ一緒に居たいと思っただけの、本当に純粋な思いから来ていたものだった。
『恋』と言いきってしまえるには弱く、しかし無かったものには出来ないほどには心を占めていた感情。決して好きだと直接に言えるほどではないが、なんでもないと言い切れない想いだ。
たぶん柳田もそれを知っている。いや、聡い彼が気づかないわけが無い。恋ではないと由那が無意識な自覚をしているからこそ、見守ってくれているのだろう。
「真希ちゃんが行きたいなら三人でもいいけど、デートで行くような所に一緒について行くほど図々しくないですよーだ。それにどうせ会うなら、今評判だっていうお店のランチに真希ちゃんと二人で行ってみたいし」
とりあえず二人というところを強調させる。柳田は恐らく茶化しはしないだろうが、それでも言い切っておきたかった事柄だ。
かちゃりと、カップを置く音と共に由那は肩を解すように背伸びをした。
「そうそう。さっき両親の前でも言った通り、明日は有紗たちと誕生日デートしてくるから引き止めないでね?」
びしっと指を立て、由那は邪魔させないように念を押す。
その様子を見て柳田はこれ以上の話しはもうないよ、とでも言うように軽くため息を付いて返しただけだった。
「眠れない…」
昼食のような事も無くさっさと夕食を無事済ませ、9時過ぎには早々とベッドに潜り込んだ由那はしかし、3時間ほど経った今、深々とため息を付いていた。
何が原因かと言われてもあまりに多すぎる問題に対して、もはやため息では追いつかない気さえする。
心に落ちる影。それが最も適切な答えと言うことは分かっているのだ。
両親に対する嫌悪と家の重圧。友人に対するコンプレックス。お目付け役に対しての淡い恋情と疎外感。その思い悩みの全てを凌駕する暗い影。大きな闇。
それは彼女の過去。いや。記憶だ。
しかしそれは『彼女自身』の記憶ではない。前世の、生まれる以前の記憶だ。
そう。由那は自分の前世、『今の自分ではない自分』の記憶を有しているのだ。とても暗く、まさに闇のような、影のような記憶を。
ジン。それは精霊。その絶大な力により人々に崇拝され、神と崇められる存在。人ならざるもの。
イブリース。それは精霊の中の精霊。全ての精霊たちの上に立つ存在。人間を、精霊をも従える精霊王。
光、炎、風、土、水、闇、無、そして時。元来自然を司るジンには、この8つの属性が存在する。その中でも最も強大な、絶大なる力を有するものこそが時を司るジン。生と死の双方を支配する、他のジンをも服従させる絶対の存在。
「私は、時のジン…だった」
宮永由那の前世は神。いや、『神たる存在』とでも言うべきか。
いや。やはり神だったのだと言える。
彼女は時属性のイブリース。8属性の中で最も力のある、時の力を有する精霊王だったのだ。そして、彼女には字があった。
ジンは人間ではない。精霊だ。彼らは人間のように自身を認識させる名前など無い。ただそこに存在するのみ。存在する事こそが名前なのだ。
だが例外はある。精霊王や力のあるジンに従属した者、そして他には稀に人間に憑いたジンが契約時に名前を定義される事がある。しかし彼女は最高位のジン。他者に使役されることは論外であるし、人間には必要以上に接触することはなかった。当然だが、彼女のような絶大な力を持ったジンが人間に干渉したら大国が一瞬にして粉砕するだろう。いや。大陸自体がなくなる可能性も十分にある。確実にある。
それはともかく、彼女にはそれ以外の理由で字があった。もちろん自分で付けたのではない。そう、通り名だ。
精霊王の持つ絶大な力を畏怖し、かつ敬愛を表すもの。人間や同胞からもその存在を崇拝され、他者と混同することが恐れ多いからこそ字がつけられる。
そう。精霊王の字は尊敬の意味を表すのだ。
時のジン。イブリースとして最も高い頂点にその存在を据える時属性のイブリースであった由那。
その彼女につけられた字は『暦道』。
暦道のイブリース。
その名を知らぬジンはいない。絶大なる時の存在。彼女こそが時そのものであり、最強の存在であった。
ジンには性別が存在しないので『彼女』と言うには些か語弊があるが、それでも彼の精霊王は最も敬愛され、そして畏怖される栄誉ある精霊王だった。
『暦道』と言えばまさに世界の神。人間たちも彼の精霊王を敬わない者は居なかったであろう。生と死、時の力を持つ恐ろしいはずのイブリースを。
何故なら暦道のイブリースは人間の守護者としてジンの中でも筆頭だった。彼の精霊王は人間を、世界に存在する生を、そして世界そのものを愛していた。当然、人間に悪どい悪戯をする同胞に容赦するはずが無かったのだ。
だからこそ人間たちは時のジン、特に暦道のイブリースを崇める。そう。彼女は真に世界の神だったのだ。
だが、その『神』は今ここにいる。転生し、宮永由那という一人の『人間』として。
「…言えるわけ無いよ、こんな話。誰が、一体誰が信じるというの?」
皮肉った飾らない笑顔で由那は微笑む。
そう。そうなのだ。言えるわけが無い、こんなこと。ましてこれが『異世界』の記憶だというのだから。
「ありえる話じゃないよ。さすがに」
だから由那は話さない。話せないのだ。親しい友人も、家族のような兄にも。誰にも話さない。
話すなら、まだ『母親のお腹の中に居た記憶』のほうが信じてもらえそうだ。当然、その記憶も由那は持っているが。
「……まったく。人間も、案外疲れるものね」
そう言って苦く微笑んだ由那の表情は、まさしく人ならざるもの、だった。
閑話03.5があります。