第一章・第四話 リスクードの湖畔05
「…………」
煌びやかな室内。
部屋の雰囲気に合わせて整えられたとしか思えない、豪華な調度品をぼんやりと、これ以上ないくらいに呆れた視線で由那は眺める。
まるで、あの滑稽な実家を思い起こさせる、この阿呆さ加減は一体何だろうか、と。
あまりに呆れ過ぎてため息すら出てこない。気力も湧かない。
夕餉の準備をさせて来よう、とそんなようなことを言いながらひとまずここへ案内した青年、フィスフリークに押し切られ、由那は今、ここにいる。
あの後のことは本当に散々だった。思い返したくもない。
『あの小僧、見事な采配であったな』
「………」
所在無げに由那の足元に寄り添うシャオウロウの言葉に、げんなりと沈み込みそうになる。
結局、由那はまた押しに負けたのだ。この世界へ来てこういったパターンが多くなっているのは、恐らく気のせいではない。
由那の押しに弱い性格も然りだが、フィスフリークのあの見事な状況運びは本当に素晴らしいものだった。思わず感嘆し、尊敬するほどだ。
術中にまんまと嵌まった由那でさえ、仕方なしと思ってしまいそうになる。むろん、心から納得などしてはいないが。
あの後。王族であるフィスフリークを救った『王族公認特別功労者』との称号を笠に、このリスクード城への滞在を是非にと勧められた由那は、絶対にこのまま帰す気のない彼の威圧に負け、結局この城に留まることになってしまった。
本当ならば是が非でも断り、最終的には転移でも何でもして逃げ切るつもりでいたのに、それは出来なかった。出来る雰囲気でもなかった。
それは、彼が王族であるが故という理由も当然ある。しかし、由那にはもう一つ、どうしても振り切れなかった理由があった。
「ルティハルトの王族、か。…――やっぱり…似てる」
ぽそりと呟いた言葉。
それを耳にした彼女の眷属たちはもちろん分かっている。分かっていて、しかしだからこそ、何も言わない。何も言えない。
暗く、泣きそうなほどに歪められた苦渋の表情。
整った眉頭に皺が寄ることも気にせず、由那はそのままきつく瞳を閉じる。
何かを耐えるように奥歯を噛みしめ、それでも抑えられない感情に、強く拳を握った。
『由那……』
全身が小刻みに震えている主を見上げるシャオウロウは、しかしそれ以上は言わない。直接相対していないとは言え、あの時、シャオウロウも気配は感じ取っていた。
あの時。オークルードを取り撒いた、あの禍々しい気配の主を。
「ふわぁぁ…。眠ぃな」
奥に設置されている天蓋付きのベッドに、いつの間にか陣取って大きくあくびをするギガルデンは、場の重苦しい雰囲気に飽きた様子で、なにやら勝手にくつろぎ始める。
呆れたシャオウロウが何かを言い出すより早く、由那は彼を制止する。
それでも何か言いたそうなシャオウロウに、由那は黙って頭を振る。浮かべたその表情には、先ほどまでの、内から湧き起こる感情を必死に耐えていた面影は消えていた。
「ギール。改めてだけど、久しぶりね。
主と呼んでくれたのはとても嬉しいけれど、でも…、私はもうあなたの主ではないはず」
シャオウロウの時と同じ。由那は冷静に、広い室内にこだまする意志の強い凛とした声を発する。
何か思惑の込められた、見通すことの出来ない深い眼差しを向ける彼女は真剣そのものだ。
確認する、まるで探るような視線。怯えているのではない。しかし怖くないと言ったら、それは嘘になる。
負う責任が、義務が二倍になるだけの話ではない。守らねばならない。
一度破ってしまっている手前、その背負うべき責務はとても重い。呼吸すら苦しく、潰れてしまいそうなほどに。
「………」
じっと、静かに彼を見つめる。
導き出される答えの一挙手一投足を逃すまいと息を呑むその様子に、シャオウロウも注目している。
しかし、本人はそれにまったく気づいていない様子で、なんとも暢気に口を開いた。
「んあ? …ああ。そういやぁ、そうだったな。確かに主じゃねえな」
「…………」
間の抜けた声に続いた予想通りの言葉。肯定とも取れる言葉は、だがその通りの意味ではない。
「だからなんだ? 俺様の仕えるべき存在はただ一つだ。その魂に、すでに誓ってるっつーの」
くあぁ、と、また気の抜けたあくびをし、何でもないことのようにゴロゴロとくつろぎ始める神経の太さ。
あまりにも変わらないその様子に、思わず小さく息を吐く。その顔には苦笑が浮かんでいた。
その態度は一体何だ、とシャオウロウは、ふてぶてしいギガルデンの態度に文句を言っているが、由那にしてみたらこれ以上に嬉しいことはない。
シャオウロウとはまた違った了承の仕方だが、彼も変わらず由那の元に在ってくれるというのだ。これ以上のことはないだろう。
彼相手だと、再契約を結ぶことも滑稽だと言われそうだ。こんな態度を取られたら、由那の気の持ちようだと言われているようなものだ。
「それより、主は何でまたここにいるんだ?」
「由那で構わないわ、ギール。そう、ね。結論で言ったら、事故…かな」
不躾な質問に、終始苦笑しっぱなしの由那は更に苦く微笑みながら答える。
「事故ぉ? なんだそりゃ。ドジだな」
「………」
彼は良くも悪くも言葉を飾らない。そもそも竜族がそういう種族である。
がしかし、彼はそれに輪をかけたぶっきら棒だ。竜族の持つ乱暴な気質も色濃く表われているし、本当に手を焼く配下である。
ギガルデンのあまりの口の悪さに、結局シャオウロウと喧嘩になるその様子を暫し見つめ、諦めたように一つ嘆息すると、由那は彼らを放置して室内に用意されたドレスとしか言いようのない衣装に目を向ける。
このなんとも言い難い、びらびらとしたそれは、ここに案内された時にフィスフリークが用意させたものだ。
一般人なら、一人で着替えることなど到底できそうにないこの代物だが、由那は一応『あの家』のまったくくだらない行事というか、パーティーというか。そんなものに色々と出席させられていたため、嫌でも着こなせるようになってしまっている。
フィスフリークは準備のために人を寄こすと言ってくれたが、それはなんとか断り、断ったからには自分で整えていく。
不本意ではあるが、髪を纏めるのももう慣れたものだ。
「まさか、またこんな服を着ることになるなんて」
仏頂面で鏡を見据える。
それは、この世界へ来た時の服装のことだ。あれよりも明らかに豪華で、いかにも動きづらそうなドレス姿の自身を一瞥する由那は、ただ深く息を吐くだけで、ついこぼれそうになる文句を押しとどめる。
夕餉というからには、今のままの服装ではいけないことくらい分かっている。
郷に入っては郷に従え。そう思って諦めるより他ない。
『単細胞は単細胞らしく、何も考えずしゃべるで無い。さすれば由那を煩わさせることもなく、我も迷惑を被ることなくいられるものを』
「んだと、このクサレ獣! てめぇこそそのねちっこい性格、ちったぁ直してから来やがれ!」
『ふん。口煩く騒ぐな。由那に迷惑がかかるであろう。…ふむ。そうか。そんなことすら頭が回らぬほどの単細胞か』
「うっせぇ! 誰が単細胞だ。何度も何度も連呼すんじゃねぇ!」
傍ではシャオウロウとギガルデンが暴れない程度に言い合っている。
先ほどのお灸が効いているようで、辛うじて口喧嘩で済んでいるが、放っておいたらまた大戦争に発展しそうだ。
髪を整えながら鏡に映るその光景に苦笑し、由那は準備を進めていく。
相変わらずの確認になったが、それでも久々の再会に、由那は心から喜んだ。
コンコン。と、ドアをノックする音が響いたのは、ちょうど髪を結い終わり、一応の準備が整った時だった。
「はい」
未だに言い合っている二人の眷属を抑えつつ、由那は振り返って返事を返す。
「夕餉の支度が整ったのだが、よろしいか?」
「はい。分かりました」
何やら立て込んでいる様子の由那たちを見、自ら足を運んだフィスフリークは少し呆気にとられている様子だ。
由那としてもそれは同じで、まさかフィスフリーク自ら迎えに来るとは思っていなかった。
彼が認めた主賓だから当然なのかもしれないが、王族というものはこの程度のことで足を運ぶことはまずない。その常識を覆されたからこそ驚く。
「彼らは?」
「…私だけ出席させていただきます」
すっと立ち上がった由那とは裏腹に、一向に動く気配のないギガルデンとシャオウロウに内心ため息を付きそうになる。
シャオウロウはいつぞやの飼獣用のペットフードが出されることを懸念し、ギガルデンに至っては『この俺様が人間ごときと一緒に飯が食えるか。胸糞悪い』と汚い台詞を吐く始末。
彼らの言い分も最もなため、あまり強制するのもどうかと思う由那が結局折れた。
「そう、か。…では、お手を。レディー」
由那の複雑な内心を悟ったらしいフィスフリークもそれ以上は聞かず、その代わりというように、すっと手を差し伸べる。
その台詞といい、仕草といい、常人がやったならば歯が浮くような寒さを感じるはずなのに、彼がやると様になるから不思議だ。
もちろん由那はこういった行為をされたことが無いわけではない。むしろ、同じ年ごろの女性の中では、こういう機会に出会う確率は高い方だと思う。
それでも、その相手たちはフィスフリークのように洗練され、本当に様になっている人物はいなかった。彼らは、どこまでいっても粗というか、どうしてもぎこちなさが残るのだ。
富裕層の子息と異世界の王族との違いは、どうやらとても越えられない大きな壁があるのかもしれない。
これならば、自然と手を差し出してしまうのも頷ける。
「……」
抗えない何かによって、無言でその手を取る。
笑みを深めたフィスフリークは、本当に違和感なく、自然にエスコートしていく。
「ふ。見事だね」
「?」
ぽそりと呟いた独り言。
そのあまりにもやわらかで、まったく雰囲気の異なる呟きに、由那は驚いて視線を上げる。
しかし当のフィスフリークは、それを無礼な行為を指摘されたのだと掛け違えたらしく、見当はずれに謝罪をしてくる。
エスコートしている最中に考え事をするなど確かに失礼なことではあるが、由那はそれほど気にしていない。
「ああ、いや。申し訳ない。
其方のその髪と瞳。我が国では神の容姿であることはご存じか?」
「…ええ。ルティハルトでは珍しい容姿なんですよね」
だからこの国へは立ち寄りたくなかった。
と、そんなことを由那は腹の中でのみ吐き出す。
本当にギガルデンは余計な事を仕出かしてくれたものだ、と。
いくら緊急時だったとはいえ、迂闊にもそのままの容姿で彼らの目の前に姿を現したことを今さらながら深く後悔する。レハスの町でティエーネに言われて注意すべきだと再三思っていたというのに、本人が忘れていては意味がない。
「珍しいのは我が国だけではないが、特に神聖視されている者たちなのは確かであるな」
ましてそこに居合わせたのが、あろうことかルティハルトの王族だ。
『もしも』など考えたくもないが、真っ先に国益を考えるであろう王族たる彼に、自身の正体が知れようものなら――。
「……………」
考えるだけで恐ろしい。それでなくても、双黒という面倒なものを背負っているのだ。まったく厄介なことこの上ない。
それに、たとえ事前に双黒を偽っていたとしても、実際に出会った人物がこの彼である時点ですでにアウトだ。今と同様の理由を付けて、城に滞在させられるのは必至だっただろう。
王族と出会うにしても、彼のような人ではなく、もっと操りやすい人物だったならば良かったものを。と、由那は今さらなことを嘆く。
「青色の服も美しかったが、其方は白のドレスもよく似合っている。実に魅力的だな」
「あ…りがとう、ございます」
さらりと告げられた一言。浮かべた美しい微笑に思わず息を飲む。
今まで散々お見合いだの、両親の仕事関連で出席したパーティーだので、様々な人から似たようなお世辞をもらったことがある。それこそ白々しいものから、明らかに下心がある、舐めまわすような気色の悪い視線のものまで様々なものを。
しかし、彼のは一体どういうことか。
明らかにお世辞のはずの台詞が、何故か心の中に大きく響く。熱を持っているかのようにじんわりと体に染み渡っていく。
「どうかされたか?」
「い、いえ。何でも。…何でもないです」
どうやら立ち止っていたらしい。
先に一歩踏み出したまま怪訝そうに由那を振り返るその様子に、反射的に頭を振る。
いつもならば、どんな状況であろうと心情を隠して平然と口角を上げている由那が、どうしてかこの目の前の青年にはそれが出来ない。
今まで会った者の中で、最も己の心の内を隠し通さねばならない危険な相手だというのに、なぜだかいつものように己を偽れない。感情を殺すことが出来ない。
「部屋までもうすぐそこだが、気分が悪いようなら遠慮なく申して構わない。何も無理やりに招待しているわけではないのだから」
「だ、大丈夫です、よ。本当に、何でもないですから」
まだ訝しげに由那を見続けるフィスフリークに、かろうじて表情を偽ることが出来ているだけでもせめてもの救いだ。
それでも、いつもの『穏やか』な微笑とはかけ離れた、硬い微笑みだった。
「ならば良いが」
「…ええ」
金と瑠璃の存在から目をそらすように俯く。
小さく息を吐き、呼吸を整えると少しばかり余裕が生まれた。だが、それもほんの束の間のこと。
「…………」
コツコツと異なる二つの足音が回廊にこだまする。
とても近いはずのその音が、ひどく遠く感じるのは気のせいだろうか。
やや前隣を歩く存在を追う視線は、決して恋や憧れなどという甘い雰囲気のものではない。
これは例えるならば、そう。まるで、死刑宣告を受けた者の絶望を表したかのような。はたまた、心に黒く激しい炎を滾らす、静かな殺意を露わにしたような。いや。それどころか、運命という名の片割れでも見つけ出したかのような、歓喜とも哀愁とも思える雰囲気を感じさせる。
なんとも不思議な、なんとも表現のしがたい複雑な感情。
「――……」
彼にエスコートされ、目的の扉へと行き着くまでの間。由那はその収拾のつかない感情を抑えつけ、ただただ足を前に歩いていった。