第一章・第四話 リスクードの湖畔04
『由那よ。どうやら彼奴は城にいるようだぞ』
「ええ、そうみたい。っ、まったく…、なんて厄介な…」
よりにもよって城内にいるなんて。と、由那はらしくもなく舌打ちをしてしまう。
彼女の中では、なるべく城には近づかずにここを去りたかったのだ。
城に近づけば近づくほど鮮明になる怒気。それどころか、これはもはや積極的に怒りを放出している。
どうやら気の放出すら頭が回らないほどに我を忘れ、怒り狂っているのだろう。
怒りの矛先が何に対して向けられているかは分からないが、とにかく、深い悲しみを抱いている事は分かる。
「急ごう。あまり時間がないみたい」
『…うむ。仕方あるまい』
出来ることなら秘密裏に事を運びたかったが、それはもう決して打てぬ手だろう。
それでも、極限まで言い訳の可能な手を講じる。もし転移した先に、王族やそれに連なる相応の身分の者でもいれば、それこそ厄介な事になりかねないのだから。
城の敷地内に入る前に運んできた荷物を投げ捨てる。それによって空いたシャオの背に乗り、気配のする城のてっぺんを目指して駆け上がる。
彼は、そこにいるのだ。
「ギガルデン!!」
あと一歩。本当にあと一拍。
由那たちの到着が遅ければ、すべてが終わっていたかもしれない。
生死の狭間。命の取捨選択が現実に見え隠れする緊張感漂う場の雰囲気を、一瞬にして打ち破る由那の凄まじい怒号の一声。
ピンと張りつめた場に突如として響き渡ったその声に、今にも全てを破壊せんばかりの力を放出しようとしていた存在は目を見張る。
「止めなさい!! 一体何を考えているの!?」
いつになく鋭い声音。
ビリビリと痛いほどの殺気を放っている存在から庇うように、由那はその者と相対していた人々との間に立つ。
緊迫した状況で相対していたと思わしき体勢。その二つの間に割って入った由那の視線は、唯一つの存在に向けられていた。
ギガルデンと呼ばれた、思春期に入るか否かの年の頃の若き少年。肩ほどまで伸びた白銀に、輝く髪を無造作に流れるまま風に靡かせ、幼くも秀麗なその面差しは、信じられないものを見たかのような驚きの色が浮かんでいる。
由那を見つめるスカイグレーの瞳は、これでもかというほどに大きく見開かれていた。あまりの衝撃に息を飲むことも出来ない様子だ。
「あなたは一体何をしているの? これほどまでに殺気を露わにして。まさか、ここにいる人達を傷つけようとしていたのではないでしょうね」
冷え冷えとした絶対零度の鋭い視線。
厳しい眼差しに、少年は一瞬ばつの悪そうな顔を浮かべ、そしてみるみる苦い表情になっていく。
ただ、その表情には、お説教を食らって浮かべた苦さだけではなく、静かな悲しみを感じさせるものが含まれていた。
もちろん、由那はその表情に気づいていた。だが彼女のお説教はなおも続く。
「その鋭い爪を露わにして、一体何を切り裂くつもりでいたの? ねえ、ギガルデン」
低く抑えられた声音が注がれる先。人の形をした少年にあるまじき、異常なまでに長く鋭い爪。その手首は白銀の鱗に覆われ、肘よりやや上のあたりで人の皮膚と境になっている。
荒れ狂う彼の殺気に呼応するように揺れるその髪がかかる背には、同じく白銀の硬質な翼が見て取れ、そして違和感はその尾にも。
彼の身長か、それ以上に長くも見える白銀の鱗が露わになった尻尾が伸びていた。
明らかに人ではない異質な姿。人体に影響を及ぼしかねないほどの、尋常ではない怒気を放出するその威圧感。
そう。彼は人ではない。竜だ。
地上に生きる種族の中で、最も気高く誇り高い、人とは相容れぬ存在。古には数多く存在した、今は滅びし亜人の唯一の現存種。それが竜族だ。
「何か、申し開きはある?」
厳しくも冷たくも、優しくもない問いかけ。
ただ無機質に、ひどく落胆した様子を見せる由那。それは相手を責めるというより、むしろ自分自身を責めているようにも見えた。
彼が起こした行動、その発端がまるで自分にあるかのように。いや。まさしく自分に責を感じている。
「主…」
人型ゆえに人の言葉で呟いた一言。それが他者に聞こえない程度のもので良かったと思える冷静な思考力は、今の由那にはなかった。
「久しぶりね。…ギール」
喜びとも安堵とも取れる、苦く過去を思い起こす哀愁を浮かばせる微笑。
矛盾した感情の入り混じるそれを、由那は一瞬にして消した。あとに残ったのは、ただ穏やかなだけの感情の無い微笑みのみ。
呆然と立ち尽くしてたギガルデンはハッとしたように気づき、不意に膝を折る。頭を垂れるように深く頭を下げるその仕草は、誇り高き竜族には決してそぐわないもの。
それは従属の証。
そう。彼も由那の、暦道のイブリースの眷属なのだ。
神竜。
ジンの配下に下った、地上最強の種族である竜族。彼らをそう呼ぶ。
そして、彼は時を司るジン、暦道のイブリースに下った、史上最凶と呼ばれた銀の殺戮竜。
その神々しいまでの美しい白銀の鱗と、非道なまでの殺意本能をむき出しにした様を恐れられ、尊敬と共に畏怖の念を込めて呼ばれた彼の通り名だ。
「ギール…」
種族的にも俺様気質な竜族である彼の殊勝な様子に、由那は小さく苦笑する。
普段は俺様で勝気で、手のつけられないほど気性の荒い彼も、もう一人の眷属であるシャオウロウと全く変わらない行動をとるものだから、思わず笑い出してしまいそうになる。場所が場所でなかったら、恐らくそうしていただろう。
徐に手を伸ばす。そしてそっと彼の頬に触れる。
添わされた、どこまでも優しい手。その温かな感触に、頭を垂れていたギガルデンは促されるように頭を上げた。
「……もっとよく顔を見せて。ギール」
命令でも強制でもない声音。だが彼は大人しくそれに従う。
ぶつかる視線。以前と変わらぬ最強を思わせる由那の強い眼差し。しかし何処か優しく、『生』を感じさせる儚さを映す漆黒の双眸。
それは由那が人であるから。過去の彼女と同じであって、決して同じではない存在である証だった。
由那は黙ってギガルデンを立たせる。それと同時に、彼は由那の背後に従う純白の獣がいることに気がついた。
「!? てめっ…! 何で腐れ獣がここにいる!!」
『我に気づかぬとはな。単細胞はまったく治っておらぬようだな』
「んだと!?」
それをきっかけに言い合いになる霊獣と神竜。呆れた事に、以前から仲の悪かった彼らの関係はまったく改善されていないようだ。
一つ息をつき、軽く頭を押さえる。
コツコツと眉間を二、三度突き、もう一つ追加のため息を吐く。
ひとまず、城が壊れない程度なら諦めて放っておくことにして、由那は唐突に現れた自分たちに驚き、身動き一つ出来ずいる人たちに向き直る。
「怪我は、ありませんでしたか?」
視界に入ってきた十数名の者たちは、皆険しい表情のまま固まっている。ほんの少し前までの緊迫した空気を色濃く残し、だが唐突に現れた由那に呆気にとられ、一体どうすればいいのか分からないといった心情なのだろう。
彼らの視線は、シャオウロウと言い合いながらも目線だけは時折由那に向けているギガルデンと、唐突に現れた由那の間とを行き来している。前者はもちろん畏怖の表情だ。
まったく反応が返ってこないことに思いあぐねた由那は、不意に視線の合った、なんとも秀麗な青年に目星を付ける。
美の女神と称される光のイブリースのごとく、恐ろしく整った容姿の彼。女性と見まごうそれはしかし、凛々しく気高い雰囲気が不思議と彼が男性であることを意識させる。
その絶世の美を彩る、暁の太陽のように煌びやかで艶やかな、長く腰まで達しようかという柔らかそうな黄金の髪。
色白な肌にとても似合う、淡く深いサファイアのように澄んだ瞳。
そこに在るだけで人目を引くその青年は、周囲と比べて明らかに雰囲気が特出している。
―――恐らく彼が、ここの最高責任者…ね。―――
彼は己を統治する者。高い地位に身を置く者であろうと由那は推測した。
「着くのが遅くなってしまってすみません。怪我をした方はいませんか?」
青年も他の者たちと同様、しばらく呆然としていたが、再度問いかける由那になんとか気を持ち直したようだ。
謝罪を聞き、一瞬不可解な表情をしつつも、すぐにそれを正した青年をさすがだと感心する。この様子から見て、先ほど立てた推察も間違ってはいまい。
詳しく説明を話そうとした由那だが、どうやらその時間は十分に取れそうにないようだ。
それは、ぐちぐちと小競り合いを始めていたシャオウロウとギガルデンの喧嘩が本格化し始めたためだ。
「…っ!」
いい加減とめなければ、大変なことになりかねない。
彼らが本気の喧嘩を始めたら、国など小国大国など関係なく壊滅する。事実、過去にそうなりかけた事もあるのだから必死である。
「シャオ? …ギール?」
青年に会釈してから振り返った由那は、ひくつく表情を抑えながら彼らに氷の笑みを向ける。
「!」
『!』
見つめる全てを凍らせてしまうであろうほどの威力を持った氷の微笑は、当然ながら彼らの動きを止めた。さすが彼らの主人だ。
「今、とーっても重要な説明をするところなの。だから、ほんの少しだけ、大人しくしててもらえないかしら?」
にっこりと至極穏やかで、かつ、刺々しく鋭い視線を投げつける由那のそれは、有無を言わさない威圧が込められていた。
「私は由那と言います。いえ。それよりも本当に、ギールがお騒がせして申し訳ありません」
眷属たちを黙らせ、再び謝罪をする由那は当然長居するつもりはない。ここで手短に謝罪し、火急の用を理由に早急にこの場を離れるつもりだ。
しかし。
「いや…。我々の方こそ危ないところを救ってもらい、とても感謝している」
物腰柔らかな印象の金髪の青年。
周囲の者はまだ戦々恐々と、別人のように静まりかえったギガルデンを目で追っているというのに、彼はずいぶんと肝が据わっている。
だが、先ほどの様子とは打って変わり、がらりと雰囲気が変化しているのは気のせいだろうか?
それは恐らく、彼の口から紡がれた口調ゆえかもしれない。何というか、この彼の容姿に似つかわしくなく、とても堅苦しいものに感じる。
青年の他は、彼の後ろで若干蒼い顔をしている亜麻色の長い髪を一つに束ねた巫師風の女性が気を取り戻している以外は、皆それほど変わらず、場に満ちた恐怖に支配されている様子だ。それでも取り乱した者がいないところは、さすがは訓練された国の武官と賞すべきだろう。
さて。どうやってここを去る口実を切り出すべきか。
そのタイミングを計っていた由那は、次に青年から紡がれた言葉にあんぐりと口を開け、茫然自失してしまった。
がんと頭に衝撃を食らった気分だ。それに足りうる衝撃的な爆弾発言だった。
「名乗り遅れて申し訳ない。私の名はフィスフリーク。フィスフリーク・エオル・イルグロード・ルティハルトと申す」
「………………………………………………………」
は?
恐らく、今の由那の心情を的確に表すであろう言葉だ。
―――今…、なんて……。彼は……、…え…?―――
告げられた言葉の意味をどうしても頭が理解しない。受け付けない。
嫌な予感だけであってほしい。いや。嘘であってほしい。いや。いっそ夢であってほしい。
そんな無駄な足掻きを幾重にも重ねて否定する。しかし、どこまで逃避しようが現実は変わらない。
「ルティ…ハルト…」
呆然とつぶやいた言葉。恐らく頬は引きつっていたであろう。呼吸すらもヒクリと引きつる。
ルティハルト。それは先ほど、入国申請を済ませた国の名前だったような、そうでないような。いや、ルーハルトだったか。それとも、ルティハールだったか。
なんとしても肯定したくない気持ちが由那を更に逃避させる。しかし、それも無駄なあがき。導き出される結論は覆りはしない。
ルティハルト。それは大陸の南から中央に大きくその国土を広げる、大陸屈指の大国。その名が姓に入る者は、当然王家に名を連ねる者のみ。
「私は一応、現在ここに滞在しているこの城の主……ということになっている」
とても不服そうに答えた青年の言葉に、思わず天を仰ぎたくなった由那はしかし、がくりと肩を落とし、ため息がこぼれそうになるのを必死に飲み込みながら瞳をきつく閉じた。
どうかこれが夢であってほしい、と懲りずに何度も何度も願いながら。