第一章・第四話 リスクードの湖畔02
「ルティハルトの方へ行くんなら、せめてティエと一緒に行ったらどうだい? あの子も確か、そろそろ国に帰るとかで手続きしてたからね」
揉めに揉め、半ば強引に旅立ちの了承をさせた由那に、ハンナからせめてもの妥協案が出される。
予想外の切り返しにぎょっとした由那だが、いつもならここで『そうだよ、そうすべきだよ』などと言いながら賛成しそうなカイルが静かなことも気になった。
横目で覗うと、予想通りぶすくれた顔をして拗ねているカイルが映る。
かなり強行が過ぎたかもしれないが、彼のことはひとまず後回しにしても差し支えない。それより、まずはハンナの誘いを断ることが先決だ。
やっとの説得の末にレハスの町から出ること事に成功しても、ティエーネと共にルティハルトへ直行するなら、人との接触を避けてこの町を出る由那としてはまったく意味がない。そして、由那は出来ればルティハルトへの入国はなるべく避けたいと考えている。
その理由は、まず、由那のこの容姿にある。
以前、ティエーネが話していた双黒云々が適応される由那は、騒ぎを起こさず、目立たずにルティハルト国内を行動することは絶対に出来ないだろう。いくら本人が気をつけていても、彼女の黒眼黒髪に民が寄ってくるに違いない。なにせ、神の容姿を持つ者なのだ。もしかしなくとも、このレハスの町よりも神聖視されてしまうのは必至だろう。それならこの町にとどまった方がましだ。
そして散々目立った挙句、要人に目を付けられ、国力が高いために下手に逃げることも出来なくなる。そんな最悪パターンの方程式が自ずと出来上がり、由那の中ではルティハルトは断固入国拒否の決意が固く決まっている。
「私はルティハルト、とくに王都は経由しないで行きたいので、それはちょっと。それにティエにも予定があるでしょうし、私の都合に合わせてもらうわけにも行かないですから」
恐らくティエーネに話せば快く引き受けてくれるだろう。だが、それは心底御免被りたい。そして、その事をティエーネの耳に入れる事も防がねばならない。
もし耳に入ろうものなら、ハンナとカイルの強引さにプラスしてティエーネの一度決めたらとことん突き通す信念の護衛付きになってしまう。その苦労を考えるだけでげっそりする。
「それに、ティエは国の要職の人だと言っていましたし。私の友人は気難しい人なので、要人の彼女をあまり快く思わないと思います」
相手を考慮してそれは出来ないと仄めかす。と、それを聞いた途端、ハンナは暫く考え込んでしまう。その妙に落ちた沈黙に、由那の方が訝しく思う。
「ユーナ。あんたまさか、ルティハルトの反国王組織と繋がりがあるのかい?」
「反国王……。なんですか、それ」
まじまじと見つめられ、きょとんする由那。目を何度か瞬きし、首をかしげる。
それを見たハンナは、由那がそれらと関わりがない事を悟ったのだろう。彼女の問いに答えず、『なんでもないさね。あたしの勘違いだったようだ』と、ほっと一つ息を付いた。
「だがねえ。すぐ町を出るって言うなら、町の退去手続きを急がないとね」
「はぁ。退去手続きが要るんですか」
退去も何も、入居手続きなんてした覚えが無い。
ここは住民登録などもまだしっかりと成されていない場所であり、だから、ただお世話になった人たちや町長に挨拶に行く程度だろう。そう安易に捉えていた由那は、次に続いたハンナの言葉に驚愕する事になる。
「ああ、ほら。ディックが捜索隊の徴集に来た時、自警団の管轄で仕事を請け負うからって言うもんだから、あんたの住民手続きしてもらったんさよ。
自警団の直轄ってことは、レハスの町民が対象になるんさ。手続きしてなけりゃ、後から馬鹿どもが色々と煩くなるだろうからね」
「え…、ええ?!」
自分の知らないうちにレハスの住民として登録されていたらしい。
驚愕の事実に、思わず大声を出してしまった。無理もなかろうが、少々取り乱しすぎだ。
コホン、と小さく咳払いをし、己を落ち着かせる由那は改めてハンナの話に耳を傾ける。
「だからとにかく、今すぐにこの町から出てくことは出来ないんさよ。それに旅に出るにしても、まず色々と出立の準備をしないとね」
「…はい。それは分かってます」
何も、準備もせず今すぐ町を出て行く気はない。それでも近日中に準備を整え、早急に旅立つつもりだ。
それを指摘された由那は、コームを売った際に換金してもらったお金を元手に色々と買い揃えるつもりだと伝える。以前、この2ヶ月弱の滞在費を払うとハンナに提案したが、一度商談が成立して換金した金を受け取る気は無いと突っぱねられてしまっていたので、特に手もつけることなくそのままそっくり残っている。
ただでさえ居候の身でありながら、由那が手伝った店番のバイト代さえ出すというハンナに、さすがの由那もそれは滞在させてもらっている事とでお相子だと断った。なので、一応はタダ飯食らいではなかったのだが、あまりの優遇に気が引けていたのも事実だ。
「何言ってるさね。そんなこと、あたしらだってユーナには恩があるんだから、言ってくれりゃこっちで用意するさね」
「え……」
恩人の旅立ちに金を取るような馬鹿共はこの町にいない、とハンナは豪快に笑う。
「シャオがいるとは言っても、女の一人旅は何かと金がかかるだろ? だからその金は大事に取っときな」
こちとら返せないほどの恩があるんだからね。と、由那を諭すハンナは少し寂しげな表情をしている。
由那が出ていくことは一応了承したハンナだが、心中は寂しくないわけがない。2ヶ月も寝食を共にすれば当然のことで、ましてハンナは由那の事を娘同然に可愛がっていた。その彼女の唐突の出立に、十分な恩も返しきれないままでは立つ瀬もない。
様々な感情が渦巻くハンナの心情を知ってか、由那もあまり多くを語らない。まずは出立の準備を急がねばならない。
「必要な物は出来うる限り用意しとくから任しときな」
「ありがとうございます、ハンナさん。…じゃあ私は自警団の方へ挨拶をしに行って来ます」
住民手続きの事もある。由那自ら赴くべきだろう。
ハンナが示した紙に必要物資をすらすらと連ね、お願いしますと一言だけ付け加えると、由那はシャオウロウを引き連れて部屋を後にした。
「まさか、こんなにも早く別れの時が来るなんてね…」
室内に残されたハンナはため息混じりに苦い笑みを溢す。
「ほら、馬鹿息子! いつまでも子供みたいにふて腐れてないで、さっさとここにある物を買ってきておやり!」
「………」
由那の出立が決まり、一言たりとも発することなく黙りこくっていた息子の頭を遠慮なく引っぱたいて叱咤する。
「ユーナだって辛いんさよ。あんたは見ていて分かんなかったのかい?!」
「………」
町を出ていくなど絶対に許さない、と断固反対する二人以上に、それを告げる由那が零した苦渋の微笑み。実際は、その上から穏やかな様相を保っていたが、ハンナはそれを見事に見抜いていた。
様々な葛藤から心底苦悩し、その上で決断した、覚悟を真っ直ぐに向けた瞳。その眼差しを静かに見据えたハンナは、己が紡ぐはずの言葉を全て失った。
あの瞳の、あの漆黒の双眸に隠された深い光の色を見つめてしまえば、もう反論など出来ない。出来る筈がない。
あれは、たとえどんな事があっても、決して折られる事のない覚悟を宿した強固な眼差し。覚悟を腹に括った者の眼差しだった。
「――まったく。お前は本当に子供さね」
呆れるように苦笑し、カイルの頭を優しく手を置いたハンナは深く息を付いた。
「本当に馬は要らないのかい? 遠慮しなくても良いんさよ」
「いいえ、大丈夫です。これほどの物資を用意していただいただけでも十分なのに、そこまで甘えるわけにはいきません」
ハンナたちが買い集めてくれた物は、由那がリストに書いた物だけに留まらず、これから旅をするに事欠かないほど十分な物資を用意してくれていた。
これだけでもかなりの金額になっただろうに、由那の出立準備だと聞いた商人たちは、みな快く安価で譲ってくれたそうだ。場所によっては無料で大奮発したところもあったとか。
確かにこの量を運ぶには馬が必要になる。だが由那には心強い旅のパートナー、シャオウロウがいる。
これらを運んでもらうのは忍びないが、主のためならば彼は快く添えを引き受けてくれるだろう。むしろ、馬に役目を取られることこそがシャオウロウには不愉快な事だ。
その時の恐ろしさを考え、由那は少し苦笑する。
そして由那にとっては、馬自体が大きな荷物となる。これらの物資はシャオの背に乗せたり、または由那の術で運ぶ事も出来るのだから、なるべく身は軽い方が良い。
「私はまだ手続きに時間が掛かるから、一緒に行けなくてすまないな。ユーナと共に祖国への旅が出来たらよかったんだが」
「気にしないで、ティエ。急に出立を決めたのは私なんだから」
由那と違って国家間での書類等の処理に手間取っているというティエーネは、あと10日ほどでレハスを離れるという。
彼女ともいずれ別れる事になると思っていたが、由那の方が先に旅立つことになってしまった。
「私の任務地は王宮に近い。王都に寄ったときは尋ねて来てくれ」
「うん。ぜひ寄らせてもらうね」
ルティハルトへ行くつもりは毛頭ないが、その言葉に快い返事を返しておく。
「ディックさん。手続きを急がせてしまってすみません。お世話になりました」
「いや。私の方で勝手に住民手続きをしてしまったからな。時間が無かったとはいえ、知らせなくてすまなかった」
本人了承も何もなく住民票を作れてしまうなど、日本にいた頃では考えられないほどにアバウトな管理体制だとは思ったが、結果的に失踪事件の捜索隊に参加出来たのだから良しとしておこう。こうして謝罪をしてもらったことでもあるし。
「エイブさん、テッドさん。お世話になりました。ストラートさんも、カイルと一緒に荷を用意してくださったとか。本当にありがとうございました」
「いや。町の恩人に対して出来うる限りの敬意を表したまでだ」
「ああ、麗しの君。俺は君との別れが辛くて仕方が無いよ…」
「うぜーな。色ボケはだーってろ!
世話になったのは俺らのほうだぜ。また来い。今度は旅した国の武道を覚えて来いよ」
「ふふ。ええ、そうですね。せめて体術くらいは身につけておきます」
三者三様の答え方に苦笑しつつ、由那は深々と頭を下げる。そしてゆっくりと佇まいを戻し、息を深く吸い込むと、意を決したように並んで立つ二人へと振り返る。
「カイル…」
ポツリと落ちる言葉。あれ以来、カイルとは一切口を利いていなかった。
本当は今日も来てくれないのでは無いかと心のどこかで思っていた。でも、彼はこうして来てくれた。
「カイル。色々とありがとう」
もっと言いたい言葉はたくさんあった。けれど、その一言にすべてを込めて今までの感謝を告げる。
返事は無い。それが当たり前なのかもしれない。
「………」
顔を背けて後ろ手に手を組んでいる変な姿勢のカイルを怪訝に思いながらも、返事をする気がないと悟った由那は小さく息を付き、ハンナの方へと視線を移す。
目が合った瞬間に、ハンナの『まったく…』と言いそうな呆れた表情が見て取れた。
「ハンナさん。今まで本当にお世話になりました。この2ヶ月の日々を、私絶対に忘れません。
二人から貰った優しさや温かさ。本当の家族のような温もり……。本当に、本当にありがとうございました」
直立して深々と頭を下げる由那に、涙を浮かべたハンナが必死に気丈を装いながら由那を抱きしめた。
「ユーナ。あたしたちは家族さね。たとえどんなに離れていても、血なんて繋がってなくとも。あんたはあたしの娘さよ」
「ハンナさん…」
過ごした日々は決して幻なんかじゃない。きつく抱きしめるハンナの背に由那も腕を回す。
何度も何度も由那の背をあやすようにぽんぽんと叩くハンナ。その温もりを確かめるようにハンナの衣服を握り締める由那。その抱擁はとても長い時間に感じられた。
「疲れたらいつでも帰っておいで。ここはあんたの家さね」
長い抱擁を解き、ぐすっと鼻をすするハンナは涙を拭う。それに一瞬瞠目した由那は、すぐに目を細め、そして静かに微笑んだ。
言葉で返さなかったのは、胸がいっぱいになっていただけでは決してない。由那は返せなかったのだ。その思いやりに満ちた優しい言葉を、これ以上ないくらいに踏みにじる方便の言葉など。そんなの、返せるはずがなかった。
「…皆さん。本当にお世話になりました」
待機するシャオウロウの隣に佇み、由那はもう一度深々と礼をする。これが最後の挨拶だ。この時の笑みは、本当に心からの微笑みだった。
「じゃあ、そろそろ行こうか。…シャオ」
『うむ』
既に荷物を背に背負ったシャオウロウは短く一言だけ返し、了承すると同時に彼らに背を向けて歩き出す。その準備の良さに苦笑し、ハンナたちに手を振りながら由那も歩き始める。
今生の別れ。もう二度と彼らに会うことは無い。
その思いが由那に大きく、大きく手を振らせた。
「っ、待ってくれ、ユーナ!」
「!?」
町の区域から抜ける地点に差し掛かった時、慌てたような人物の声がかけられた。
引き止めたのは、なんとカイルだった。
「これ、持って行ってくれ。きっと役に立つ」
そう言って渡された包み。見た目からして本だろう。
確かめるために開けると、2冊の本が包まれていた。
「地図と歴史書。地図はクルドとルティハルトの詳しい町名まで乗ってるから」
「でもこれ、大事な教材じゃ…」
「町長からは許可を得た。だから貰って欲しい」
役立ててくれと続けるカイルに、由那は『ありがとう』と笑って受け取った。
「それともう一つ、この先を進んだ街道に荷馬車が止まってる。ルティハルトのラミノルまで行くみたいだから、途中まで乗せてもらうように頼んであるんだ」
俺からの紹介と言えば分かるから、と照れくさそうに告げるカイルに、由那の穏やかな微笑みにピシッと亀裂が走る。
「せめて国境入りするまでは同行させてもらうように言ってある」
「………そう。それは、どうも…ありがとう」
得意げに話すカイルに、由那は心底要らぬ餞別を貰った事に軽く眉根を寄せながら礼を言った。