第一章・第三話 復活の儀式07
長く果てまで延々と続く静かな回廊の先。重厚で飾り気のない無骨な鉄の扉を開けた先に奴はいた。
言葉は発しない。
響くのは、由那と彼女の霊獣の足音のみ。静寂にコツコツと響くそれに、闇に閉ざされた室内の天上がやけに高いことが知れる。
相手の顔は見えない。まだ明けぬ闇に薄っすらと見て取れるシルエットから、恐らく男性であることが分かる程度。だが、上からマントらしきものを纏っているのでそれも定かではない。
「あなたが、今回の主犯ですか?」
鈴を転がすような可憐な声音。緊迫した雰囲気を破るその穏やかさが、むしろより一層緊張感を高める。
ある程度の距離を置いて相対する。しかし男は答えない。
当然といえば当然。もしここで不必要に答えようものなら、由那はやる気を削いでいただろう。すんなりと事が運んでしまってはつまらない。一筋縄でいかないからこそ楽しみ甲斐があるというものだ。
闇に包まれた中でうっそりと笑みを浮かべる。それはほんの一瞬の事で、すぐいつもの微笑みを携える。
姿勢を崩すことなく、男を見据えたまま再度問いかける。
「もう一度問う。あなたがこの事件の主犯?」
苛立ちも、嫌悪も焦りも感じられない至極平静な問いかけ。しかし次は無い。
「………」
再度の問い掛けから十数秒。男が動く気配はなく、特に何らかの術を組むような素振りも見せない。ただ佇む、それだけだ。
だんまり。無視。拒否。拒絶。
そのあまりにも予想通りの反応に、どうすべきか分かりすぎて些か面白くない。こうしてわざわざ来てやっているのだ。何か予想を覆す応手を見せてもらわねば来た甲斐がないというものだろう。
「沈黙は肯定と取りますが、それでも構いませんか」
この状況でもまったく変わらぬ丁寧な物腰。纏う気配は多少荒立っているが、表情一つ変えずに確かな声音を紡ぐ。
しかし明らかに違うところもある。
そこにあるべき威を携え、全てを従わせる全能の王たる素質を持ったその力の一端。その存在感、威厳、力。思わず圧倒させられるほどの強大な力に、頭を垂れざるを得ない絶対のものを感じさせられる。
彼女こそが全て。世界は彼女そのもの。
まさにその道理が通ってしまうほどの圧倒的な存在感に、それまで感情を静めたまま終始平静だった男もさすがに隙を見せる。
「…っ」
感じ取れる微かな動揺。その隙を由那が見逃すはずがない。
男が立て直すよりも早く、動揺を抑える時間を与えず由那は問いかける。
「名を。せっかくですし、名乗っていただけますか。この私の包囲網を見事に欺いた巫師殿。
そして褒めてあげましょう。その稀なる力。
何故それほどまでにちっぽけな力で私を欺いたか――は、その見事な策を称えて聞かないでおいてあげましょう」
見事に上から目線。そして、これ以上ないほどに厳しく意地の悪い問いかけ。
この男はそれなりの力を有している。由那が言うほど力の無い巫師ではない。しかし彼女から見れば、誰であろうと爪の垢ほどもないちっぽけな力に見えるだろう。比較すべき次元が違う。
全てを見通すような深い、闇よりも深い漆黒の瞳。薄暗い部屋にも拘らず、鋭利な光を宿すその鋭い視線を感じ取り、男は明らかに狼狽している。言い逃れをする前からすべての手を読まれている。否応なくそれを悟ったのだろう。
由那の予想は確信。たとえ推測の域を出ていなくとも、彼女ならばはったりをかます事など容易いことだ。
「……失礼を。暦道のイブリース殿」
「………」
気を取り直した様子の男。すっと手を胸に当て、慣れた様子で一礼する。
―――名乗りもしないのにその名を口にするとは…。これはもう確実…、か。―――
予想が事実であることを完全に悟った由那は、これ以上ないほどに苦い顔をする。はっきり言ってあまり良い気分ではない。
「私の名はオークルード。オークルード・サー・エヴァン」
「サー・エヴァン? っ、そんな…。まさかっ。
尊き満ち月。その名前を世に知らしめたあの古の一族、サー・エヴァンの血族がまだ存在していたなんて…」
「左様。始祖オークルードの名を継ぐ、私はサー・エヴァンの現当主。一族唯一の生き残りだ」
唐突の告白に、形を潜めていた由那の『人』の表情が一瞬蘇る。まるで悲鳴にも似た問いかけに打って変わって平静な男、オークルードは皮肉ったように口元を吊り上げた。
サー・エヴァン。それは古語の呼び名。共通語では尊き満ち月を意味する古の一族。今はその名も擦れてしまうほどの昔に滅びた巫師の名家。そこに生まれし炎と闇を使役する始祖オークルード、その子孫の唯一の生き残りが彼だというのだ。
シャオウロウから一族が絶えた事を聞いてひどく残念に思っていたのだが、まさかその血族がこうして生きていようとは。
「目的は、血の存続…か」
聞くまでもなかった。それ以外に理由は無い。
「ご明察。やはり、すべて気づいておられたようだな」
観念したように肯定する。最強の存在に偽り通せるほど甘くない事は理解しているらしい。そこは評価しても良い。
「集めた人々の生命力や精神力を使って一族の再興を目論んだ、といったところでしょうね。その血を、サー・エヴァンの血脈を永遠に失う事を恐れて」
凍えるほど冷ややかに、由那の声が紡がれる。注がれたその視線も酷く冷めていた。
生命力や精神力を奪われた失踪者。その記憶が曖昧だったこと、そして肉体が無事だったことから、大体の目的は予想が付いていた。
人々の血肉を必要としないことで大規模な禁忌の術ではなく、しかし生命力が大量に奪われていた事で何らかの復活を行うことが目的なのだと。
「禁忌の術を行使することがどれだけの代償を払うか。それを知らないとは言わせない」
「………」
死者を出すことなく皆無事だったとはいえ、こうして人々の命を軽んじるこの男を許すわけにはいかない。まして禁忌の術を行使しようとするなど。
冷ややかな問いに、しかしオークルードは答えない。
「周囲に及ぼす被害、そして行使した者の命をも犠牲にしかねない危険な術。それ故に『生』を使った巫術は禁忌の術として、忌むべき大罪として遙か昔に使用を禁じられた。
術の代償にどれほどの嘆きと悲しみを生むか。それを理解していなかった訳ではないでしょう。むしろそれを知っていたが故にあなたは、あなた方はそれを使う事を選んだ」
そうでしょう? と、今までになく厳しい表情を浮かべた由那は、何の感情も浮かばせることなく佇むオークルードを見据える。その瞳は、深い悲しみ、哀れみ、後悔、そして底知れぬ激情の色を宿している。
今にも流れ落ちそうな涙。しかしそれは幻で、彼女の瞳は乾いている。
哀れすぎて泣けもしない。そんな深い怒りを感じさせる漆黒の双眸は、オークルードの血のように赤いそれに注がれていた。
「あなたは…、本当に哀れね。哀れで醜い存在。でも、それ故にひどく美しい」
言葉とは裏腹に、哀れみを感じさせない表情。本当に愚かな者の前では、そんな表情すら向ける価値もない。
「――…血族に縛られた哀れな魂よ。今、私が楽にしてあげましょう」
そう言って酷薄でいて慈愛を含んだ笑みを薄っすらと浮かべた由那は、まさしく神そのもの、だった。
「…っ、オークルード様!!」
大した抵抗もなく、大人しく己の運命を受け入れるように瞳を閉じたオークルード。そんな彼に安らかな眠りを届けるように由那が手を翳した瞬間。死の静寂を打ち破るかのようにけたたましく叫ぶ男が一人。
「ビレフ…」
呟いたのはオークルードではなく由那だった。そして同時に呆れたようなため息を付く。
「ご無事ですか!? オークルード様!」
慌てて駆け寄るビレフは、どうやら彼の飼い犬のようだ。これまで行方知れずだったこの男がここにいることでそれは証明された。
魔物の討伐から逃げ出した彼は、そのまま行方不明になっていた。失踪事件が解決した明るい話題もあり、彼の失踪はろくに捜索されずもみ消されていた。
やっと事件の不安から解放されてなお、新たな失踪者が出るなどという更に不安を煽るような出来事はあってはならない。たとえあっても、知られなければいい。だから消されたのだ。レハス町長以下、周辺の町長たちの手によって。
もともと町の者たちから虚け者だの無能だのと信用されていなかった存在だ。そんな者など居なくなっても誰も何も思いはしない。ならば、新たな出来事で隠してしまえばいい。そんな町長らの非情な思惑のターゲットとして選ばれたのは、言うまでもなく事件解決の功労者たる由那だった。
町の者たちの異常なまでの由那への信仰心は、町長たちのそうした情報操作も原因にある。由那もそれを知っていたからこそ、しつこくはた迷惑な彼らを振り切れずにいたのだ。
問題はもみ消してしまえばいいという町長たちの案には決して賛同はしない。だが、不必要に彼らの不安を煽るべきではないと思っていた。だから知らぬ振りをして合わせてやっていた。全ては町の者たちを思っての行動だ。
「き、貴様…!」
主人の無事を確認し、凄まじい殺気を放ちながら振り向いたビレフは今にも術を放ってきそうなほどいきり立っている。だがあまり大きくない力の持ち主の威嚇など、この彼女にとってはその辺の小石と同じくらい意味を成さないものだ。むしろ小石以下である。
ましてこの男のそれなど無いに等しい。取るに足らない。
「シャオ」
煩わしい愚者がキャンキャン吠える声を何を見るでもなく無感情で一瞥し、由那は後ろに静観したまま控えている霊獣を呼ぶ。
「この者たちは私がやる。あなたは紅蓮の炎をお願い」
『奴か。承知した』
由那の命に戸惑うこと無くするりと部屋を出て行くシャオウロウに視線も向けず、そのまま静かにオークルードを見据える。その真紅の瞳を携えるに相応しい憑き物の気配をシャオウロウに追わせた。この彼に殺気が見られずとも、奴からは凄まじい憎悪が発せられていた。居場所は容易に分かるだろう。
まったくもって、この由那に恐れ多くも殺気を向ける同胞がいようとは。いくら己が主人のためなれど、些か無謀に過ぎるというものだ。
「さすが最強と崇められた神だけはある。私の配下をいとも容易く察知しようとは」
諦めたかのように無防備をさらした彼の余裕は、由那がシャオウロウに追わせたその気配の主という切り札があってのこと。
「ふ、それこそ戯言というもの。尊き満ち月は炎の恩恵を受けた一族。あなた方の使役する契約主は、私たちからすれば中位に属する。その程度の輩の気配、私が分からぬはずがない」
ひどく心外だと言うわりに愉快そうに嘲笑うその表情。もう明けても良いはずの薄闇の空から僅かな光を受けた由那の容貌は、一切『生』を感じさせない残忍さがある。それに顔面蒼白で思わず息を呑んだのはビレフだ。
まるで別人のような彼女の本質。その片鱗とはいえ、巫師となるにはぎりぎりの、それこそちっぽけな力しかないこの男には、由那の力を受け切れはしまい。気絶しないだけまだマシだったと評価しても良いくらいだ。
これでオークルードの飼っていた犬は使い物にならないだろう。廃人すれすれに抑えてやったので、オークルード本人にはあまりダメージを与えられなかったのは致し方ない。
「さて。オークルード」
「…っ、ぅ」
深く、この場を覆う闇よりも暗い、すべてを飲み込んでしまう双眸をオークルードに向ける。見据えられた彼は、その視線、そして呼ばれた名前に支配されるように苦しみ出した。
今、由那はまさに彼を縛っている。彼の名、その命、そして生そのものを。
「あなたが攫った人々から集めた生命力、行使する前に解放しなさい。すべて私に委ね、すべてを捨て去りなさい」
強く厳しくも、優しさを込めた導き。すべてを無に返さず、生かす道を選んだ由那はもしかしたら甘いのかもしれない。
これが人となった弱さならば、なんと愚かで浅はかな、そしてどれほど尊いものなのか。
その計り知れない天秤を思いながら、由那は静かに、しかし確実に彼を解放へと導く。
「ぅ、あ……がっ、は…」
オークルードの中に蓄積されていた人々の生命力。それは彼の欲望にまみれ、酷い腐臭と共に穢れた気配に歪められていた。
哀れな彼に溜め込まれた力は、同じ哀れな人間のもの。生命力に善悪は決してないが、人欲に支配されたそれは良いものと呼べるはずがない。
「ふ、はは…。ははは…。……はっーはっはっはっ!!」
「!?」
唐突に。それまで力を吸い取られることに苦しんでいたオークルードが、狂ったかのように高らかな声を上げて笑い出す。同時に、今まで感じなかった気配が彼を支配している事に気がついた。
「ダレガ…ワタスモノカ。コノチカラハ私ノモノダ。私ノモノ。私ノモノ。私ノモノ。私ノモノ。……私ノモノダァ!!」
「っ!! あ、なた…は…っ」
気が狂れてしまった狂人ように、あらん限りの声を吐き出すけたたましさ。赤と漆黒の秀麗な彼の容姿は見る影も無く、醜悪な気配が包んでいる。
信じられないものを見るような驚愕の表情。大きく目を見開いたまま、身動き一つ取れない。
「ふ、くくっ。くははははは! ………――」
狂い笑っていたオークルードは、唐突に狂気を治める。落ち着きを取り戻し、すっと視線を合わせるそれは、平時そのもののように冷静な色を宿していた。
それを不審と思わず、ただ呆然と眺める由那はしかし。次に紡がれた言葉に何の反応すらも出来なくなってしまった。
「…――久々だな、暦道の。またこうして相見えるとは思わなかったぞ」
笑い狂うそのさまが嘘のように、急激に平静をとりもどしたその彼が紡いだ言葉。
今度こそ、由那のすべてが止まった。