第一章・第三話 復活の儀式05
まだ働き始めるには些か早い時間。だが羊飼いにとって、この時間に牧場へ赴くのはなんら不思議な事ではない。彼らの朝は農民よりも早い。
そんな早朝の静けさを吹き飛ばす、悲鳴に近い声が辺りに響く。
「何だと? 羊がいなくなった!?」
「ああ。最近生まれたばかりの仔羊だ。…くそっ、何でこんな時に!」
普段ならば、たかだか仔羊の一匹。どうせ牧場から少し外れて迷子になってしまったのだろうと思って諦めるのが普通のこと。
しかし、ほんの少し前に起こった事件が人々の胸の内に巣食う恐怖や不安な気持ちを煽る。いくら事件が解決したとは言え、彼らの魔物への恐怖心はそう簡単に消えるものでは無い。
「おはようごさいます。…どうかなさったんですか?」
のほほんと穏やかな声をかける女性は、この度の事件解決に大きく貢献した最大なる功労者。この町のみならず、周辺の町々にも活気を取り戻し、人々に希望をもたらした存在。
過激な信者の信仰はひとまず鳴りを潜めたとは言え、それでも多くの人々、むろん信者でなくとも町人全員が彼女に感謝の念を抱いている。
「これはこれは。おはようございます、ユーナ様。あの。それが、うちの仔羊が…」
「様はいりませんけど、仔羊ですよね? それならここに。…ほら」
「おおっ、坊!」
少し高い声で鳴く仔羊が由那の後ろからちらりと姿を現す。それに促されるように羊飼いの男は仔羊を勢い良く撫でる。仔羊はちょっと迷惑そうだ。
軽く嘆息しながら、由那は仔羊を見つけた経緯を説明する。
「近くを散歩していたら何かの鳴き声を聞いて、茂みに入ってみたらこの子がいたんです。どうやら群れと逸れてしまっていたみたいですね」
「そうだったんですか。いや、ユーナ様のお手を煩わせて申し訳ない。どうもありがとうございました」
「本当に良かった。無事で何よりだ」
「ふふっ。そうですね」
ほっと胸を撫で下ろす羊飼いと仲間の男に由那も愛想の良い微笑みを向ける。その横に付き従うシャオウロウは無表情だ。
「夜露に濡れて体力を消耗しているみたいですから、良く休ませてあげてくださいね」
「おお、そうですね。本当に重ね重ね申し訳ないですのう」
「いいえ。無事でよかったです」
労わるように仔羊を撫でた由那は終始穏やかに笑みを携える。些か胡散臭いほどに。
それでも、この笑みの真の意味を知る者はここにはいない。シャオウロウがその一人ではあるが、彼は人間にそんな事を教えるはずもない。むしろ喋りはしない。
そして恐らく。この由那の微笑みを見た男たちは、先ほど抱えた恐怖などすっかりと忘れ去ってしまった事であろう。
「私はこれで失礼しますね」
品の良い仕草で頭を下げた由那に慌てて頭を下げ返す男たちはあっさり、まんまと彼女の術中に嵌まってしまった。
それに気づかない事が良い事なのか、それとも悪い事なのか。唯一事情を知るシャオウロウはしかし、考える事をもはや放棄している。
「シャオ。そろそろ戻ろうか」
『…承知した』
素直に了承するシャオウロウ。もうすっかりと転生した彼女の黒さに巻かれてしまっている。なんだかこの所、由那の行動を仕方なく諦め、受け入れてばかりなのは恐らく気のせいではない。
「シャオ。あのね…」
『うむ。覚悟しておる』
笑みを消して見つめる由那に、しっかりと頷いたシャオウロウは皆まで言わずとも了承するつもりだった。たとえ強硬が過ぎるとしても、主の意向に従うことこそがシャオウロウの喜びなのだから。
由那はため息とも苦笑ともつかない息を付き、静かに瞳を閉じて笑った。
「お帰り、カイル。今日はデートじゃなかったの?」
「うっ。…や、…ははっ。フラーラの両親に…ちょっと、な」
事件が解決してもカイルの家に暫く滞在していたフラーラが自宅に帰ったのはいいが、何時までも娘を拘束していた駄目な恋人と判断されてしまったカイルは、その後満足に彼女と会えていないらしい。あれから何度かデートの約束をしているらしいが、ことごとく彼女の父親に握りつぶされてしまっているとか。
いくら彼女自らが望んで滞在していた事だとしても、父親としては複雑であり不満だったのだろう。事後挨拶も魔物討伐などでおざなりになったことも悪かった。
それまでが良好であっただけに、あまりの急速な変化にカイルは毎日沈んだ表情で職場へと向かっている。仮にも教育者がこれでは、教わる子どもたちだって覚える気にはならないだろう。気持ちは分からなくもないが、仕事で公私混同すべきではない。職場に私情を持ち込み、あまつさえそれが原因で支障をきたすなど社会人の風上にも置けない愚行だ。
「あ…、そうだ。聞いたよユーナ。群れと逸れた仔羊を見つけたんだって?」
「もう聞いの? それ今朝の出来事なのに」
この町の情報の早さに思わず苦笑する。教育現場は色々と噂が入りやすいのだそうだが、それにしても早い。ちなみに自警団が一番情報が早く回る。ならばティエーネやエイブの耳にも入っているだろう。
失踪事件が解決したら国に戻ると言っていたティエーネは、何やら手続きがあるとかでまだ町に滞在している。由那としては嬉しい事だが、彼女も自国でやるべき事があろう。別れの日はそう遠くないはずだ。
それを言えば、由那だって遅かれ早かれレハスの町を出て行くことになる。いくらハンナやカイルが引きとめようとそれは変わらない。ここに永住するわけには行かないのだから。
「町長がすごい感謝してたぞ。また何かやろうかなんて言ってた」
「え…」
前回の信仰騒動のきっかけも、あの町長たち絡みですごい事態に発展したのだ。出来れば遠慮願いたい。
ものすごく嫌な顔をしていたのが分かったのか、手の止まっている由那とは裏腹に、彼女の倍の速度で針仕事をしていたハンナも会話に加わってきた。
「嫌なことは嫌ってちゃんとお言いよ。あの町長はとことん食らい付いてくるしつこい爺だからね」
「ハンナさん…」
町で一番偉い人物を爺呼ばわり。この町でハンナに敵う人物はいないんじゃないか、と何となく思ってしまう。
「っ、痛!」
「な、何事だ!? って、ユーナ? えっと、大丈夫か?」
仕事の疲れというよりは、舅の婿候補いびりと格闘した疲れを椅子に寄りかかって解していたカイルは、突然上がった声にひどく驚き、思わず椅子からずり落ちそうになる。いくら平時とは言え、些か気が弛みすぎだ。
「うん…。とりあえず、平気。ちょっと針を指に刺しちゃっただけだから」
左の人差し指を口に咥えている由那は少し顔を赤らめている。掃除や料理はある程度になってきたが、針仕事はまだ難航しているらしい。繕い物を真っ赤に染めてしまう事はさすがに無いが、こうして気を緩めると途端に針を刺してしまう。
もっと意識を集中しなければ。これではカイルのことを笑ってはいられない。
「大丈夫かい? ほら、手を出してごらん」
すぐに薬箱を持ってきたハンナは、手際良くさっと処置を施してしまう。塗り薬を塗って布を宛がうといったシンプルな治療だが、的確でとても素早い。
こうしてハンナに治療してもらうのは、一体何度目になるだろう。とりあえず両手では数えきれない回数であることは間違いない。それだけ由那は家事で怪我をしている。
恥ずかしい限りだが、今まで家事のかの字もしていなかったのだから仕方ない。やけどや料理用ナイフで手をちょっと切りつけてしまうなどはもう当然越えてきた過去だ。
要領がいい由那だから同じ失敗は繰り返さない――はずなのだが、この針仕事だけは例外だと言える。こうして針を刺したのは一度や二度の事ではない。
「ユーナはお針は向かないのかもねぇ…」
「………」
しみじみと言われてしまえば返す言葉もない。ただでさえ小さくなっていた由那は、ますます縮こまる。
針仕事は、不得手の無い由那の珍しく苦手な分野だったようだ。
「手に指しちまう事を除けば、あたしよりずっと丁寧で綺麗な縫い目さね。ちょっとくらい苦手があったって誰も責めやしないさ」
あまりに落ち込んでいる由那に思わずフォローに入る。それに次ぐようにしてカイルも思いっきり肯定する。
「そうそう。俺だって苦手な事ばっかりだし。ユーナは何でも出来すぎるんだから、たまにはこうして隙があっても良いと俺は思うけど」
男はそういう隙がある女の子にぐっとくるんだぜ、などと言い募るカイル。もちろんハンナもそれに乗る。それはもう、すごい慌てようだ。
「ぷっ…。ふふ」
「「?」」
身振り手振りでフォローを入れる二人に、思わず噴きだした由那。突然笑い出した由那にカイルもハンナも目が点になっている。
「ごめ、なさ…。で、でも…、可笑しっ…」
震える声で笑いをこらえる由那はとても珍しい。普段こういった笑い方をしないだけに、ハンナもカイルも受け入れるまで暫く時間を要したようだ。
「な…なんだよ。こっちはすごい気を使って…って、ああ、もう…」
「はっはっは」
全く正反対の反応をする親子だが、結局最後にはみんなで笑い合うことになった。
「ふふふ。はぁ…もう可笑しい」
涙がにじむほどにこうして笑う。そんなこと、未だかつて経験した事がなかった。
柳田や真希、そして有紗たち学校の友人と向き合っている時ですら、周囲をいじめて愉しむことはあるにせよ、こんな風に大笑いすることはなかった。特に精神が成長した近年ではことさら稀なことだ。
だが。そのあり方を変えるほどに。たとえ僅かであっても、その感情を素直に表せるほどに。由那はこの場所やこの人たちの中で馴染んでいる。
それは驚くべきことであり、同時に嬉しい事でもある。
しかしその反面、それはとても辛い事にもなり得る。
「あはは……。――はぁ…」
その危険性を理解している由那は、笑顔で笑いながらも複雑な心情を抱いていた。
『何やら楽しそうであったな』
「え? ああ、うん。…そうね」
今日は夕食に降りてこなかったシャオウロウが、なんとも憮然とした表情で由那を迎えた。これは明らかに拗ねている。
まったく。この霊獣は。
由那は肩をすくめてシャオウロウの隣に腰を下ろす。膝を抱えて座れば、シャオウロウのほうが由那よりも大きい。ランプに照らされている影もそれを示している。
「私もだいぶ、この町に馴染んできたみたい」
今更な事をつぶやいてシャオウロウの背にもたれ掛かる。
「馴染みすぎて…別れのときが辛くなるくらいに……」
トーンの低い、本当に微かなつぶやき声だった。しかし、その顔を耳近くに埋められていたシャオウロウには、弱々しくもそのつぶやきが聞き取れた。
『主よ…』
「由那。…そう呼んでって言ったよね」
顔を埋めたまま、それでも由那は指摘した。
『すまぬ。由那』
「ん…」
『由那』
「ん?」
『否。何でもない』
「…そう」
普段ならば、是が非でも言いかけた言葉を答えさせたであろう由那は、しかし小さく言葉を返すだけで留まる。それだけひどく堪えているということなのだろう。
何か声をかけたいシャオウロウだが、これからの事もある。たまには一人で整理をつける時間も必要だろう。そう判断を付ける。
『……暫し見回りをしてくる』
「え、シャオ?」
埋めていた顔を上げると同時にシャオウロウは立ち上がる。困惑気味な由那に体を一瞬だけ摺り寄せたかと思うと、次の瞬間にはするりと窓から駆け降りた。
「シャオ…」
今まで隣にあった温もりがなくなったこと、寄りかかっていた存在が抜け出てしまったことに、呆然と窓枠に手をかける由那。
ぼんやりと立ち尽くす彼女はしかし、己の足で立っていた。