第一章・第二話 闇夜の失踪12
「ディック殿、左を頼みます」
「ああ。ティエーネは右、ラートは中央を任せたぞ!」
世界が違っても、また種族が違っても右が利き腕のものが多いようだ。この魔物も例外なく右利きだ。
腕が立つとは言え、やはり女性が右手に回るのは危険が多くなる。ティエーネ自身が的確に判断し、即座に三人の陣形が成される。さすがはここまで無傷で戦ってきた者たちだけはある。
「はあっ!!」
ディックとティエーネがそれぞれ魔物の前足を抑える。その隙を突いてストラートの一撃が打ち込まれる。庇う者がいなくなった事でとても良い連携を見せたが、しかしそれは魔物の素早い動きにかわされてしまう。
「ラート、右へ回れ! 陣形を崩すな!」
「はっ」
しかしたった一度の失敗で彼らの士気が落ちることは無い。新たに次の手を、それが駄目なら更に次の手を。魔物を確実に仕留める策を講じる。
その激闘を負傷者たちを看ながらカイルやシャオウロウは見守る。カイルは心底心配そうに、シャオウロウは顔色一つ変えず平常心で。
しかしそこに張られた結界内に、術を行使した人物の姿は無い。
『!』
「シャ、シャオウロウ…」
静観を保っていたシャオウロウが動き出す。隣にあった気配が消えた事に少し不安を覚えたカイルが無意識に名を呼んだが、彼は当然無視だ。
シャオウロウが動き出した事を合図に、ディックたちは魔物の間合いからすぐさま退く。魔物もそれを承知なのか、逃げ出した人間ではなく向かってくるシャオウロウを待ち構える。
魔物と霊獣。相容れぬ二つの存在がぶつかり合う。黒と白。対極の色を持つ彼らの激しい戦い。その姿を今まで尽力を尽くした者たちが疲弊した様子を見せながら見守る。
由那の許可もあり、少しばかりリミッターを外したシャオウロウは先ほどとは違う。ディックたちがその体力を削っていた事もあり、形勢は徐々にシャオウロウの優勢へと傾く。
「シャオ!」
シャオウロウの位置からことのほか近くで聞こえた由那の声。その声に従うようにシャオウロウもディックたちと同様、その身を引く。彼の退却で生じた砂埃から、まるで最初からそこに佇んでいたかのように平然と。まるでそこにいる事が至極当然のように堂々と。艶やかな漆黒を携えた存在が姿を現す。
立ち込める砂埃の中からすっと顔を上げた由那が浮かべているのはもちろん不動なる微笑み。今まで姿を消していたのが嘘のように、その確かな存在感が場を支配する。
当然、そのまま威圧するように魔物を睨み据えると思いきや、しかし由那はまず周囲を一瞥し、手を横へ軽く払うように一振りする。それだけで立ち込める砂埃が嘘のように静まる。
それを確認した由那はようやく魔物へと視線を移し、それまで引き結んでいた口をおもむろに開いた。
「戒めの風よ。邪悪なる者を留め遮断せよ!」
シャオウロウが射程圏内より抜けてすぐ。その詠唱を合図に、姿を隠していた間に準備していた由那の巫術が作動する。
自身の間合いから離れたシャオウロウを追うように動き出した魔物はしかし、由那の堅い呪縛と強力な結界内に拘束されてしまう。
本来結界は相手から身を護る守護結界が一般的だが、これは相手を逃さないようにする檻のような役目。こうしてようやく捕らえたのだ。そう簡単に逃げさせはしない。
「ふぅ。やっと捕まえた」
声と共に由那は再び掻き消えるように姿を消す。そしてパッと、まるで呼吸でもするかのように自然な仕草で彼女が姿を現したのは、なんと魔物の足元だ。
そう。由那はディックたちやシャオウロウが魔物の気を引いている内に、こうしてこっそりと移動していたのだ。本来ならば由那の持つ巫の力で見破られてしまうが、相手の気がそれていれば気づかれにくい。
「さて。これでチェックメイト、ってね」
結界を張った際に視野と音響を少しばかり弄らせてもらっているので、この中にいる限りは少し無茶をしても心配はない。
風の結界によって生じた微風が由那の漆黒の髪を揺らす。その髪がかかる頬に浮かべられているのは最上の微笑み。そして最も残酷な笑顔。
「あなたは誰の手先? 素直に答えるのならば楽に逝かせてあげましょう」
純真な少女が美しい花束を愛でるかのように可憐な声を紡ぐ。しかし実際に問いかけている言葉はこの上なく物騒だ。
一歩。また一歩と、拘束され動く事の出来ない魔物に近づく。結界の外では魔物の出す邪気を浄化する作業に移っている映像が映し出されているため、唯一真実が見えているシャオウロウでも今の由那の行動を止める術はない。映像が消え、さらに拘束している結界をも解いてしまっては元も子もないのだから。
「もう一度聞く。あなたは誰の手先?」
多少厳しさが増した口調を放つ由那は、言葉が通じる事を前提として話しかけている。
もちろんただの人間が魔物の言葉を解する事は出来ない。カイルたち普通の人間やビレフのような一般の巫師にはそれが常識だ。しかし、国などに仕える宮廷巫師や特殊な力を受け継いでいる巫師の一族など、ごく一部の力の優れた巫師はそれが可能だ。
由那は言わずもがな。魔物どころか、シャオウロウのように霊獣の言葉すらも理解出来るので問題はない。
当然この問いは魔物にも理解できるもの。沈黙など通用しない。
『貴様に話すことなど無い。忌々しい巫師め』
口を開き、大きな牙を出して低く笑う。その度に禍々しい瘴気が漂い、それをいちいち浄化しながらまだ穏やかな表情で由那は見つめる。
「そう。では質問を変えましょう。失踪した者たちは何処へやった」
『…この先の住処だ』
暫しの沈黙の後、魔物は意外とすんなり答えた。
それに特に反応するでもなく、由那は冷静な態度を崩さない。
「あなたの目的は何? なぜ彼らを攫って…」
『これ以上答えてやる義理はない。下等な巫師どもは質問とやらが好きで困る』
由那の言葉を遮り、魔物は歪んだ表情を見せる。そこには瘴気と共に殺気が込められている。
「ふっ、そうね。少しは答えてくれたことだし、楽に逝かせてあげましょう」
その殺気をさらりとかわすと同時に由那はこれまでの笑みを消した。
手を翳し、静かに目を閉じる。そしてゆっくり、ゆっくりと歌を紡ぐように詠唱を始める。
「其を成し示すは3方の時。其を形成せしは4つの魂。我が声と共に器より離別し、穢れを祓いて在るべき場所へと還れ……」
これは時の巫術、鎮魂術だ。
魂を洗い清め、大地へと還す。これは元々死せる魂を鎮めるために向ける術だが、使い方によっては生者の魂にも使用は可能だ。言わば寿命を吸い取っているようなもので、悪用も出来てしまう恐ろしい術だが、由那が行っているのは搾取ではなくきちんとした浄化。術の本分どおり、魔物の魂を洗い清めるために使っている。
「其、『勇』を持ちて忍耐を覚え。其、『親』を持ちて調和を覚え。其、『愛』を持ちて慈悲を覚え。其、『智』をもちて知性を覚え。
我、慈愛の心を持ちて其を鎮めんと成す」
両の手を鳴らすように合わせると由那はゆっくり息を吸い込み、そして静かに魔物へ吹きかけるように吐く。まるで今まで紡いだ詠唱を余すことなく届けるかのように。
キラキラと光の雫が魔物を覆う。それに呼応するように魔物の躯も輝き出す。どうやら術が効いてきたようだ。次第に半透明になり、浄化されていく。
その状態を黙って見守っていると、魔物が皮肉った表情で吐き捨てた。
『おめでたい巫師だ。さっさと面倒なく殺せばいいものを』
「言葉とは命そのもの。特に巫師は自然の理を大切にし、己の言葉には責任を持つ存在。その巫師の言葉に偽りがあってはならないというものです」
慈悲の込められた優しい微笑み。その笑みに先ほどのような残忍さは含まれていなかった。
嘘偽りは人間のみが持つもの。それを律して真実を通し、見定める者こそが巫師の基本。言葉が力の循環を左右する巫術は、やはり嘘偽りを言わぬ者こそが精度を高める事ができる。元が人間でない由那は嘘をつくことはしない。むろん、方便はつくが。
「さあ、眠りなさい。静かなる安息の眠りを抱き、そして再びの目覚めがあらん事を」
最後の言葉は術ではなく手向け。哀れにも穢れきった魂を持つ魔物への、せめてもの慈悲の心。
静かに。しかし確実に、魔物の魂は大地へと還っていった。
『主!』
「シャオ…。ごめんね、ずいぶん心配をかけてしまったね。それから、皆の護衛をありがとう」
魔物の魂が消えると同時に、由那がかけていた結界もまた消え去った。
それに伴い真っ先に駆け寄ってきたシャオウロウに抱擁し、続いて近づいてきたティエーネたちに視線を向ける。
「ご苦労様でした。無事、魔物の討伐は完了しました」
にこっと笑う由那。彼らが見ていたのはもちろん由那がちょっとばかり細工した光景だったが、魔物と会話していた事と鎮魂術を除いては流れは似たようなものだ。つまり、魔物を捕らえて『すぐさま』詠唱を始め、魔物を『倒した』と言うこと。
由那に不自然なところは一切無く、軽やかに魔物を討伐したように見えていたというわけだ。
「あっと、そうでした。魔物を倒した時に伝わってきたんですが、失踪した人たちは魔物の住処にいるらしいです。ざっと気配を探ってみましたが、恐らく皆さん無事でしょう」
「それは本当か?!」
くわっと目が見開いた気がするディックに驚きつつ、由那は二、三度頷く。とりあえず嘘偽りは言ってない。
魔物から聞いた場所は彼の住処。このまま進んだ場所には確か洞窟があったはずだ。しかし調査の際には危険だからと近づかなかった場所だった。
今回の討伐もそこに狙いを定め、洞窟へ行くことを目的としていた。
「でもここの負傷者と合わせて50名ほどはいますから、私たちだけで運ぶのは到底無理ですね」
「それもそうだな。…うむ。魔物の討伐も無事済んだことだし、自警団の詰め所にいる団員を呼ぶか」
晴れた表情をするディックの横顔に、眩しいほどの朝の陽光が照りつける。そろそろ夜明けだ。
気持ちが良い朝焼けに、皆明るい表情へと変わる。やはり太陽は人を安心させてくれるものだ。明るく、そして温かい。
「そうですね。失踪者の安否は気になりますが、ここの人たちを置いて捜索に行くわけには行きませんし、この人数では2班に分かれて先へ進むのも危険ですからね。まずは一人…いえ、二名ほどで自警団の人たちを呼びに行くべきでしょう」
まだ作動していた光を消し、由那は眩しそうに上り始めた太陽の光を手で遮りながら助言する。ここで口を挟まないディックは、それに異存は無いようだ。無言で頷いているように見える。
「では俺が行こう」
「ストラートさん…、ですが…」
「あまり人員は割けないからな。この役は俺一人で大丈夫だ。すまないが、あとはよろしく頼む」
皆疲れているのは同じ。最も消費が激しく見えるのは由那だが、実際力を抑えて戦っていたために一番消費が少ない。しかし重要な巫師がここを抜けるわけにも行かないし、ティエーネは女性であり、ディックはこの隊の隊長。カイルに至っては、無事一人で森を抜けられるかも怪しい。となれば、自ずとストラートに限られる。
彼ならば低級の魔物と遭遇しても回避する事が出来るし、自警団の調査などで土地勘も良い。迅速かつ正確にここまで仲間を導いてこられるだろう。
「では、私は負傷した人たちの手当てをしておきますね」
「そうしてもらえるとありがたい。私は見える範囲だが、この辺りを少し調べてこよう」
「それなら私もお供します」
ストラートが去ると同時に由那は負傷者の治療、ディックとティエーネは辺りの巡回へと向かう。
由那の結界が張ってあるとはいえ、辺りの安全は確認しておくべきだろう。先ほどまで嫌と言うほど立ち込めていた淀みが消失しているところを見れば恐らく大丈夫であろうが、念のために見回っておいても損は無い。
「え。あ、っと…俺も手伝うよ、ユーナ」
三人に一拍も二拍も遅れているカイルは、あたふたと自らも出来る事を探し出した。
まったく。彼は由那の護衛としてついてきたというのに、一体何のためについてきたのか。町の巫師のような酷い足手まといにはならなかったにせよ、特にこれといった活躍もない。
それでもエイブや仲間の看病はしっかりとしているようで、治療補佐としては何とか役に立った。という事にしておこう。
閑話12.5があります。