第一章・第二話 闇夜の失踪10
「これは…」
「ああ。魔物の足跡だ」
雨が降った後のため、くっきりと残るその跡は明らかに人のものではない。強靭な爪によって地面を抉り取られた歪な足跡。もうこれは決定的だ。
「こりゃ決まりだな。へへっ、腕がなるぜ!」
「しかし魔物が犯人となると、失踪した者たちは恐らく…」
「ああ、そうだ。残念だが、生存の可能性は極端に低くなったということだ」
不敵に笑うエイブを苦笑するティエーネ。そして戸惑いを含んだ彼女の表情にディックが頷くと、途端に全員が暗い表情をする。まあ無理もないだろう。
しかし唯一、由那だけはその会話に参加しない。シャオウロウもそんな主の様子を静かに見つめ、二人は難しい表情をして考え込んでいた。
「ユーナ。私としては午後もこの辺りを調査し、その結果次第で近日中にも魔物狩りを決行すべきだと考えている」
「…ええ。そうですね」
名指しされた事でようやく顔を上げた由那は特にこれといった表情を出すことなく頷く。たぶんそれが最善の方法だろう。被害に遭った者たちには申し訳ないが、これ以上の犠牲を出さないことが先決だ。
まだ魔物に食われたと言う証拠は無いが、犯人が魔物ならば生存は絶望的。せめて遺体を捜し出し、残された家族たちに届けてあげることが出来ればと思う。
「そこで編成を組むが、君とビレフには必ず参加してもらいたい。あとは腕の立つ者を中心に少人数の精鋭部隊のみで退治する方向で考えている」
現在60名ほどいる捜索隊の中で、魔物狩りの経験者はそう多くない。そして魔物を目の前にして精神状態を保てる者もあまりいないだろう。
これ以上の犠牲者を出さないための精鋭部隊だ。由那の見立てでは、この中で使える者は10名もいないだろうと思う。だが、だからこそ成功の確率が上がる。
各々の行動に責任の持てる腕の持ち主たちだからこそ、判断が早く、かつ迅速に魔物狩りを遂行できる。例え人数が多くとも、そこに足手まといがいた方がかえって負担を増やし、隊全体の士気も落ちるというものだ。
「分かりました。魔物を狩るのは力ある者の義務。人々を守るのは巫師としての義務ですから」
「ユーナ、無理だ! 君は巫術を使えても、実際の戦闘能力は低い。幾ら巫師だとしても危険すぎる」
「そうだぜ、団長。ユーナは護身術程度しか使えねーんだ。例え後方支援させるとしても、いざって時に攻撃をかわせるくらいじゃないと危険だと俺も思うぜ」
すんなりと了承した由那に、ティエーネもエイブも大反対する。確かに由那は優れた武術や剣術を身につけているわけではない。現代人にしては優れた運動神経を持っているだろうが、比較すべきはこの世界での身体能力だ。
はっきり言って現代人として車や電車で移動している由那は、このリヴィルでは話にならないくらいに劣っている。この世界の人は自らの足で一日100キロを歩くのが普通だ。一応この世界でも馬での移動が主流だが、一般庶民や行商はこれくらいは可能なのだ。
一日の移動距離(睡眠や食事の時間などを抜いた、正味8時間程度を計算とする)が30〜40キロ程度と平均される現代人が、この世界の人と比べてどれほど身体能力が劣っているかが良く分かるだろう。
「確かにユーナには後方支援をと考えているが、この作戦には巫師の参加が絶対だ」
そうだ。魔物狩りには必ずではないが、出来るだけ巫師が付くのが通例だ。
なぜなら、巫師は魔物が発する空気の淀みを浄化したり、倒した後にたまに発生する瘴気などを食い止める役割を担っているのだ。
人々を気配もなく攫うこの足跡の主は相当凶悪であろう。そんな相手が酷い淀みを放っているのは想像するまでもない。
「だったらビレフの野郎だけで十分だろ、団長!」
「それで本当に事足りるならば、私もこうして無理に協力を強いるような真似などしない」
「……っ」
そう。あの役立たずは魔物狩りの経験がない。絶対に、確実に役になど立ちはしないだろう。そもそもあの様子からして、巫術の基本中の基本である浄化術をまともに行使した事すらないのでは、と怖い想像すらしてしまう。
「心配してくださってありがとうございます。でも大丈夫です。私にはシャオウロウが付いてますから」
「あ…」
「そうか。ユーナには頼もしいナイトが付いていたな」
由那の周囲を常に離れず護衛する美しく頼もしい飼獣、もとい霊獣。彼なら例え何者であろうと、由那に害をなす存在を放っておかない。黙ってはいないだろう。
少し自慢するようにシャオウロウの首もとを撫でる由那は、よろしくと言いながら頬を寄せる。
「確かにユーナがいてくれる方が力強いけどな。でも、無理すんじゃねーぞ」
「分かってます。私は私自身に出来る事を精一杯尽くすつもりです」
立ち上がって相好を崩した由那は、おもむろに手を差し出す。共に全力を尽くしましょう。と、そんなことを言うように差し伸べられた手。
一瞬動きを止めたエイブは、暫くしてその手に合わせるように握った己の拳を差し出す。それに苦笑しながら、由那も拳を握って合わせた。
「私も、よろしく頼むよ」
「こちらこそ、ティエ」
こちらは素直に握手を交わす。もう二人はメンバー確定だ。ディックがまだ指名していなくとも、二人とも素晴らしい腕の持ち主だ。
「よし。話は上手くまとまったようだな。じゃあお前たちにもここの捜索を手伝ってもらうぞ」
「はい。了解です」
腕を組んでうんうんと頷き、満足そうな笑みを浮かべるディックの指示の元、由那たちは周辺の捜索に加わった。
「で、3日後に魔物の討伐を決行するのか? ちょっと急過ぎじゃないか?」
「もう一刻の猶予もないんだからディックさんの決断は当然だと思うよ、カイル。確かに本来なら十分に検討するべきだけど、失踪者が少しでも生存の可能性を残している内に先手を取るべきだしね」
午後も森の捜索に当たった由那たちだが、これといって情報は掴む事ができなかった。
でもようやく解決に結びつきそうな手がかりを得たのだ。これが消える前にとディックも考えているのだろう。その決断は評価できる。由那にしてみれば明日にでも決行すべきだと思うが、各々準備がいるだろう。
夕刻の報告の場で討伐の事と共に、討伐隊の人員も発表された。当然巫師の由那とビレフはメンバーであり、その他にはエイブとティエーネの名前もあった。その面子は大体由那が予想していた通りだった。
「ユーナもそれに参加するのか?」
「もちろん。ディックさん直々の指名だし、私は巫師だから」
「何言ってるさね。そんな危険な事、お止しよ」
フラーラの看病を終えて二階から降りてきたハンナも険しい表情をしている。捜索隊のメンバーに入る事でさえこの二人には大反対されたのだ。生半可な説得では梃子でも動かない事はもう分かっている。
でも。それはこちらとしても同じだ。由那は彼らの目を真剣に見つめる。
「いいえ。何と言われても私は討伐隊に参加します。これは決して曲げられない私の意志です」
しっかりと二人へ向ける漆黒の双眸は、何者にも覆す事の出来ない強い信念が見て取れた。由那は本気だ。今度は何を言われても決して引かない。
その意志の強い真剣な眼差しを向けられ、カイルと同じように不安げに瞳を揺らすハンナだったが、由那の揺らぐ事のない本気を悟ったのか、しぶしぶだが諦めたように目を伏せた。
深々とため息を付き、苦い表情を作る。本当なら決して許すつもりは無かったのだろう。でもこんな視線を向けられてしまえば折れるより他は無い。
「まったく、アンタには負けたよ」
「か、母さん?!」
「ありがとうございます、ハンナさん」
ハンナの了承の言葉に驚きを隠せないカイルと微笑んでお礼を述べる由那。その声はほぼ同時に響いた。
「仕方ないさね、カイル。ユーナは本気だよ。それをあたしらが止められはしないよ」
「でも危険だ。俺は絶対に反対だからな!」
「………」
頑なに拒否するカイルに、今度は由那がため息を付く。彼の方が年も身長も上なのに、どうしてこうも子供っぽく見えてしまうのか。物腰や性格による相違にしても、あまりに精神年齢が低い。
環境なのか、元々の資質なのか。とにかく聞き分けの無い彼のこの調子には困ってしまう。
「カイル、ごめんね。私は巫師だから。何と言われてもこの信念は決して曲げられない」
「…だけど!」
「すみませんが先に休みます。おいで、シャオ」
由那はそんなカイルの抗議を聞くこと無く、非情にも穏やかな様子でその場を立ち去る。
まだ何か言いたそうなカイルだったが、少し寂しげに微苦笑する由那の表情を見ては何もいうことが出来なかった。
「…っ、くそっ」
扉が閉まる瞬間。カイルらしからぬ声が聞こえたが、由那は立ち止まることなく歩き出した。
『主。あの小僧は良いのか?』
「大丈夫。カイルだってちゃんと分かってくれるよ」
大きく伸びをして体を解す。これから大仕事があるのだ。少しでも精神統一するため簡単なストレッチを始める。これからの事を考えて俊敏性は少しでも高めておくに越したことはない。
由那に見習って自らもストレッチを始めたシャオウロウは、おもむろに口を開く。
『主よ。あれは何だ』
「………」
妙に低い声で問われた言葉。それに反応するようにぴたりと動きを止める由那をじっと見つめる。
ゆっくりと振り向いた由那は、非常に渋い表情をしている。
「さあ、何だろうね。私が昨日感知したのは明らかに別のものだったけれど」
『反応はあったのか?』
「うん、まあね。正体もあらかた掴んだはずなんだけど…ね」
確証を持って印を調べに行ったら、そこに倒れていたのはカイルの恋人であるフラーラだった。
「どうやら、敵の手のひらで踊らされてるみたい」
ぞっとするほど美しい笑みを浮かべる由那。その明らかに激怒している様子に、シャオウロウは思わず息を呑む。
「でも…。もうこのまま泳がしておくつもりはない」
綺麗に微笑んでいても、目だけは決して笑っていない。
まっすぐ森の方を睨み付ける由那は、今まで終始穏やかに笑みを浮かべていた口元を不意に引き結んだ。