第一章・第一話 再びの大地01
「由那!」
「!」
唐突の呼び声と共に、腕をぐいっと引っ張られる。それと同時に今、自分が向かおうとした所が壁だと言うことに気が付く。
「危ないよ。ちゃんと前見てた? というか酷いよね、人の話し聞いてなかったでしょ」
そう言って自分を引っ張ってくれた人物は不審そうな瞳で見る。しかし彼女、宮永由那は直ぐに反応出来ずにいる。何故かと問われても、それに対して由那に返答できる言葉はないのだ。
理由は決して言えない。人に話せたものではない。
「ごめん有紗。大丈夫、ちょっと考え事してただけだから」
そう言って由那は曖昧な微笑みを浮かべる。老若男女問わず、誰であろうと虜になる女神のごとき美麗な微笑みを。
「! そ、それなら…いいんだけど」
「ありがと」
途端ぴしりと停止してしまった友人、有紗を多少不審に思いつつも別段気にせず由那はお礼を述べた。
ここは学校の中央廊下。由那たちが向かう先は図書館。しかし今日は平日ではないため、昼間でも打って変わって閑散とした空気が流れるだけだ。
そんな休日に彼女たちは二人、図書委員なために書庫整理へと登校してきているのだ。
もちろん休日でも部活動のある生徒は各々の練習場所で日々その技術を磨いているが、生徒棟のこのような場所で練習がなされることはないため、今は集合時間より早く来た由那たち二人しかいない。
「最近多いよね…」
ぽそりと、しかししんと静まり返った空間ゆえに有紗の呟きは由那にしっかりと聞き取られた。
「何?」
「あ、聞こえちゃった?」
隠したり誤魔化す事をしない有紗のこういった素直な性格は少しうらやましく思う。もちろん正直に生きようとはしているつもりだが、しかしそれは彼女の持つ『影』がそれを許してはくれない。
もしかしたら有紗なら多少の驚きと共に最後は受け入れてくれるかもしれない。しかしそれ以上に非難され、疑いの目を向けられ、嫌悪される可能性の方がどう考えても高い。
そんな由那の心情を知ってか知らずか、有紗は暢気に彼女の地雷を踏む。
「いやほら、最近そうやって考え事してるの多いよね?」
「っ…」
今度は由那の動きが止まる。幸か不幸か周囲の変化に鈍感な友人はまったく気づいておらず、にこやかに笑っている。
そんなこの友人に気づかれるほど、最近の自分はぼーっとしている事が多いことに由那は改めて気づかされる。
目を見開いてぴたりと動きを止めてしまった由那など、普段そう多く見ることは出来ない。周囲に人がいたならば驚きと心配、そして興味を抱いた目で見られていたことであろう。しかし幸いにも周りに人はいない。
その事を頭のどこかで冷静に認識していた由那は少しだけ心を落ち着ける事が出来、鈍い友人を見つめて微苦笑を浮かべた。
「ほら、来年は私たちも受験生でしょ? 家のこともあるからそれなりの大学に進まなきゃいけないと思うとちょっと憂鬱で」
「あーそっか。由那のお父さんって貿易会社の社長さんだっけ? 確かお母さんは…」
「名家のご令嬢様だよ。それはそれはやんごとない家の雅なお姫様だから、それこそ好き勝手してるけど」
にっこりとこれ以上無い嫌味を乗せたが、しかし普段とは違い、なんとも素っ気なく言ったので恐らくこの友人は気づかなかっただろう。いや。由那の家族嫌いは、それなりに付き合いの長い有紗も十分に理解してはいる。
そう。由那は大の家族嫌いだ。
貿易会社の代表取締の父は仕事の虫であり、年中何処かの国へ仕事で出向いているため、家に帰ってくることは滅多に無い。お嬢様育ちのわがままし放題の母は、好き勝手に家を空けては何十人もいる恋人の所や友人と遊び歩いている。
今これだけすれ違っていて良く結婚したと思わせる両親は、娘の由那に対して本当に放任だ。むしろ各々が好きなことに打ち込んでいるために興味が無いといった所だ。
そんな自分勝手な親たちを誰が尊敬し、好きになれると言うのだろう?
むしろ大人しく家の教育方針に従ってそれなりの立ち振る舞いをし、勉学や習い事に打ち込んだ由那は立派だと言えよう。
「派手だよね、由那の両親」
「ある意味ね」
『あれら』を派手の一言で片付けるこの友人は本当に大したものだ。由那は呆れるよりいっそ尊敬した方がいいか本気で悩む。
「そっか。由那も大変だね」
「うん。まあね…」
やっぱり尊敬するのはよそう。
と、たどり着いた図書室の扉を開けていつものように暢気な様子でにこやかに笑っている友人を見つめ、由那は思った。
「ねえ、このシリーズ何に分類したらいいと思う?」
「あ。それ読んだ事あるよ。確か、ファンタジーだったよ」
今行っているのは今月おすすめ本の分類だ。そのジャンルは学園モノ、推理モノ、SF、ファンタジーなどなど事細かに分かれている。他にも男女別のおすすめ本や、ベストセラーはもちろん、司書の先生のおすすめコーナーもある。
大体あらすじから分類しているのだが、有紗が指したその本のあらすじに見覚えがある。確か作者の表現や書き回しがとても面白く、思っていない予想外な展開へと流れていき、楽しませてもらった一冊だった。
「由那って本当に色々な本読んでるんだね。もっと難しい文学本とか読んでるイメージあるよ」
「そんなイメージ作らないでよ。私だってライトノベルくらい読むよ」
「ごめんごめん。だって由那ってお上品な社長令嬢っていうイメージ定着してるし」
「上品って…」
半ば呆れながら呟く。だが有紗の言うとおり、それは既に定着した由那のイメージである。
由那は自覚はないだろうが、彼女は秀麗で高貴な雰囲気がある。
華奢で色白。しかし儚い印象はそれほど受けず、凛とした神々しささえ感じさせる気高さがあり、その立ち振る舞いや優美な笑顔は人々を惹き付ける。だからといって気取った風でもなく、本当に自然体でいて魅力があるのだ。
「だって実際由那の人気ってすごいよ? ほら、今だって由那見てる男子多いし」
鈍感のくせに色恋沙汰には敏感な有紗にそう言われて周りを見渡す。すると視線が合うと同時に何人かの人物は気まずそうに視線を逸らした。
「ね?」
「……」
「だから自覚しなってば。由那は自分がどれだけ綺麗で人目を惹くかって事」
自信満々に言われても呆然とした由那は返す言葉すら思いつかない。そう。自覚が無いのだ、由那は。
顔はまあまあ整っている程度であり、目の前の友人に比べたら地味顔。性格もそれに比例し、決して人見知りではないが、かと言って有紗のように陽気で明るいわけでもない。言うなら、物静かで落ち着きのある、ごくごく控えめなタイプである。話す人は仲の良い女友達が主で、クラスの女子と話す事は日常的でも用事がある時のみ。そして男子とは本当に事務的なことで話す程度。
と、本気で思っている由那は知らなくて当然だ。もはや仕方ないと言える。
「綺麗で人目を惹くのは有紗の方だって。彼らも有紗を見ていたんでしょ?」
「……」
一体何処をどうしたら、ここまで無関心でいられるのだろう。まったく、これはある意味才能なのだろうか?
あまりの事に有紗は絶句してしまう。二の句が継げないとは、まさしくこういった状況の事を言うのだろう。本当に的確な言葉だ。
「ほら、あと少しだから早く終わらせようよ」
そう言い終わると同時にてきぱきと作業に戻ってしまった、全くの無自覚な由那を見、もはや反論する気力も失った有紗は深々とため息を付いたのだった。
「お疲れ。本当にごめん、先帰るね」
「おつかれー。別に気にしてないって、家の用事じゃ仕方ないじゃん。明日はちゃんと遊び行くんだし!」
無事に書庫整理が終わり、その後有紗と何処か遊びに行こうとしていた由那に家から緊急の電話が入った。
内容は両親が帰ってきているというもので、由那にとってそれは全く緊急ではなく、むしろ無視してもまったく微塵の問題もない用件と言えるものだったが、『いつも忙しいご両親がせっかく帰ってきてるんだから、今日は早く帰ってあげなよ』と有紗に言われてしまった手前、帰らないわけにも行かない。むしろ帰りなよ、と有紗がしつこく言って来る。
ぶっちゃけ全くもって帰りたくないのだが、そうさせてもらえない由那は仕方なく覚悟を決めたのだ。
「本当にごめんね。じゃあまた明日」
「うん、じゃあ…っと。そうそう、週末に出た宿題写させてね!」
「……」
最後まで期待を裏切らない友人に、由那はなんとも言いようの無い脱力した嘆息を返す。
「じゃね! 由那」
「…また明日」
まったくもって元気な有紗に対し、由那は本気で沈んだあいさつを返す。
有紗と由那の家は学校から正反対の方角にあり、そのため校門を出て直ぐに別れることになった。本当ならば有紗の家の方角に一緒に行って楽しく遊ぶはずだったのに。
元気良くかけて行った有紗の後姿を暫し見つめ、予定を変更しなければならなくなった原因に対して顔を歪める。
「何で帰ってくるんだろ。面倒くさいな」
深々とため息を付き、由那は諦めて家の岐路を歩みだした。