第一章・第二話 闇夜の失踪02
「え? 失踪事件…ですか?」
「そうさね。何だか最近、近くの町で増えてるみたいだからユーナも外に出る時は気をつけるんだよ」
由那がレハスの町に滞在してから、今日でちょうど1ヶ月が経つ。ここでの生活にもだいぶ慣れてきて、朝はハンナと一緒に朝食の準備と昼の下ごしらえをして午前中は店の手伝いや掃除をする。お昼を食べ終わるとカイルからこの町や世界の事をいろいろと教えてもらう。それがもう日常となってきた。
意外だが、要領の悪そうなカイルは勉強が出来る。町の子供たちに読み書きや数の数え方、歴史などを教えている。
覚える事はとてつもなく膨大な量だったが、物覚えの良い由那はこの1ヶ月の勉強でかなりの情報を得ることが出来た。元々がこの世界の存在なので、地球とは異なる文字の読み書きは出来るし、高校数学をしっかりと勉強している由那に数の数え方は無用だろう。むしろお金の単位が違うので、そっちの方が役に立った。
助かったと言えば、時間や物の単位はほぼ地球の物と同じなので覚え直す必要がないのは助かる。理解したとは言え、お金の単位は未だに円と混同してしまう事もあるからだ。ちなみに、硬貨は隣国も共通だそうだ。
カイルが教えてくれる歴史はこの国を主にしたものだったが、周辺諸国の歴史もカイルは知っていた。彼らは一般人なので、知りたい事全てを聞き出せるほど詳しい事を知っているわけではない。場合によっては国によって隠された歴史もあるのだから。
しかしカイルから教わった事である程度は現代の状況を把握することが出来た。由那が知っている国がまだ現存していたり、随分と様変わりした土地もある。
でも。それでも。時はこうして流れている。暦道のイブリースが消えても世界はちゃんと動いているのだ。
自分が消える事で世界に影響を与えてしまう事が、由那は一番怖かった。もし時が暴走して世界が狂ってしまったら。もしすべてが無に帰してしまったら。そんな想像もしていた。
でも世界は変わらず動いている。しっかり歴史を紡ぎ、後の者を育んでいる。この世界を守ってきた存在である由那にとって、これ以上嬉しい事は無い。
「ユーナ、今日は遊びに行かないか? ここ1ヶ月ずっと勉強ばかりしてて町に出てないだろ?」
「え?」
確かにそうだ。由那は知識を入れることをまず優先としていて、町へは買出しに1回だけ付いて行ったくらいだ。この家は町外れにあるから、町の人との交流は本当に限られている。
ハンナとカイル以外の知り合いは、シャオウロウを魔物と間違えた折に様子を見に来た数人の男の人達だけ。その中のカイルの友達二人はその後も1、2回会ったくらい。それもあいさつ程度。
たまには町へ出かけてみるのも良いかもしれない。そう了承の返事を返そうとしたときだ。
「何言ってるさね、カイル! ユーナを危険な目にあわせる気かい!?」
「う…、だ、だって母さん」
「聞き分けの無いこと言ってるとお前だけ外に放り出すよ」
いつ見てもハンナとカイルの言い合いは母親が幼い子供を叱るような感じを受ける。これでもカイルは今年で成人だ。由那より年上なのだから、もっとしっかりしていても良いはずなのだが。
由那も普段の言動から見てカイルとは同い年くらいだと思っていたので、その事を聞かされたときは本当に驚いた。3つも年上には全く見えない。
ハンナが怒るのは最もだけど、実は由那も町へは興味がある。ただ、今までは学ぶ事を最優先にしていただけで、人と交流したいとは思っていたのだ。前世や異邦人云々を抜きにして。
失踪事件なんて面倒な、もとい物騒なものには関わるつもりは無いが、折角だからちょっとした近況の情報くらいは得ても良いかもしれない。少し興味もある。
「あの、ハンナさん。私からもお願いできませんか?」
失踪事件が多発していると聞いて自ら危険な目に会おうとは思わない。でも人となった今だから。今だけはわがままを許して欲しい。
本当は、ずっと人間と交わってみたいと思っていた。
理性で自分を抑え、秩序や理を重んじてばかり。それが正しい事とは言え、本当は自分の思うがまま自由に行動してみたいと由那は常々思っていた。
「はぁ、まったく。仕方が無いね」
「行ってもいいんですか?」
「ああ。好きにおし。ユーナも自分の事は自分で考えられる年頃さね。自分の行動に責任が持てるなら、思う存分楽しんでおいで」
「ハンナさん!」
ハンナがにっかりと笑うのを見て、由那も表情を明るくする。輝くような笑顔を携えた由那は、勢い良く彼女に抱きついた。
「まったく。勝てないね、ユーナには。でも喜ぶのも結構だがね、これだけは胸に留めといとくれ」
由那の頭を二、三度撫でながらハンナは今までの表情を消し、不意に真剣な表情をする。
「忘れないでおくれ、ユーナ。あたしたちは一緒に暮らしてる。あんたはもうあたしたちの家族なんだ。だからあんたにもしもの事があったら、あたしもカイルも悲しむって事をさ」
信じられないような、とても呆然とした表情で由那は見上げる。目の前で微笑むハンナのその表情。それは、今まで人の生を歩んできた中で初めて見る表情だった。
親でも友人でも、まして長い付き合いがあるわけでもないハンナ。ほんの1ヶ月前までは知り合いどころか、同じ世界にいたわけでもない女性。その彼女が今、もっとも自分に近しいところにいる。親身になって、その心を砕いてくれている。
「ハンナさん…」
なんとも言えない思いで胸がいっぱいになる。呼びかける以外、何も言葉に出てこないのだ。
「行っておいで」
「……はい」
ありがとうございます。
そう紡がれなかった言葉はしかし、ちゃんとハンナの心に届いたことだろう。
何も言わずとも、その思いが伝わる時もあるのだから。
「じゃあ案内するぞ。って言っても、そんなに大きい町じゃないから説明するところも少ないけどな」
「そんな事ないですよ。お願いします」
日が落ちる前には必ず帰ることを約束し、二人は買出しも兼ねて町へと歩く。何だかんだと不満だったハンナは、ただでは起きなかったと言うことだ。
「それにしてもユーナさ、何でずっと敬語なんだ? もう1ヶ月も一緒にいるんだから、普通に話してもいいんじゃないか?」
「え? ああ、敬語ね。私、家族にも敬語で話すの」
「ええ!? それって疲れないか?」
驚いたようにカイルは大きなリアクションをとる。その姿を見て少し愉快そうに由那は答える。
「ううん。それが普通だから。それに、カイルやハンナさんにはこれでも大分硬いのが取れてきたはずだけど?」
確かに始めの頃よりは穏やかな口調で話すようになっている。カイルへの呼び方も呼び捨てだし、由那にしてみればこの短期間でえらい進歩なのだが。
この短い間でそれだけ気を許していると言うことなのだから。
「ま、あ…そうだな」
「納得できた?」
少し不満なのか、むーんと考え込んでいるカイルを見て微笑む。彼は本当に感情が表に出やすく、素直な人だ。知っている人が言うと『バカ正直』なのだそうだが。
「母さんに少し多めにお金持たされたし、うちの服ばかりじゃなく他の店の服も少し見てこうか」
町に入って暫く。特に予定も決めていなかったカイルは、品揃え豊富な服屋を指差す。当然その様を見て由那は目を丸くする。
彼は自分の母親の性格を知っていて言っているのだろうか?
「カイル。そんなことしたらハンナさんが怒ってしまうと思うけど…」
見覚えの無い服を由那が着ていたら、ハンナは当然良く思わないだろう。そしてそれを勧めたカイルをいつもの様に叱るに違いない。
こんな風に無神経だと彼女も大変なのじゃないかと心配になる。そう。驚くべき事にカイルには付き合って半年になる恋人がいる。幸いにもレハスの町の女性ではないようだが、よくこんな性格のカイルと付き合っていると思わずにはいられない。
彼氏の家に身元不明の若い女性の同居人がいること。それも、彼女には教えていない。自分だったらこんな彼氏は絶対嫌だと由那は思ってしまう。誰だって嫌だろう。
「う…。それもそうか。じゃあ、町の名産品とか見に行くか」
「ええ、お願い」
カイルもハンナに大目玉食らうのは嫌なようだ。案外すんなりと行き先を変更する。
それにしても、頭にフードを被っているので下手に注目されずに済んでよかった。フードと言ってもサリーのようなもので薄いのだが、それでも十分顔を隠す事ができる。
顔を隠していたら逆に注目されそうだが、この世界では意外とニーズの高いアイテムだ。顔を隠したい人、素性を隠したい人、おしゃれでする人。用途は様々だが、女性も男性も付けている。
由那は一応顔を隠す必要は無いが、なんとなく付けてみた。むやみに顔を晒さなくて済むなら嬉しいものだ。
「ここだ、ここ」
「ここ?」
カイルが言う名物品とやらが見られる場所へ着いたようだ。しかしそこは広場のようで、名物品と呼ばれるようなのもは見当たらないように見える。
「ああ。この広場、レハスの町で一番有名なんだ。
この広場の中央にある木。そこになる実はピチュアの実と言って、恋愛成就の実として謳われている。ここはクルドの知る人ぞ知る恋人たちの聖地なんだ」
「…………………………………………」
にっこりと微笑んだ由那の微笑みに一瞬、歪みが見える。それはそうだろう。まったくもって、カイルは分かっていない。
確かにこの広場周辺は若い男女の組み合わせが嫌に多い。本当に今更だ。
「ん? どうした、ユーナ?」
「カイル。あなた、恋人に振られてもかまわないの?」
「は? なんで?」
きょとんとカイルは由那を見る。傍から見れば、恋人同士が見つめ合っているように。
「……。ここは恋人の聖地と呼ばれている場所なのでしょ?」
「ああ。そうだけど」
かなりイラっとしている。場所が場所じゃなければ罵倒したいくらい、由那はひどく怒っている。
「あなたには恋人がいるでしょう? その恋人がもし今、私と一緒にここにいるあなたを見たらどう考えると思う?」
「あいさつするだろ? 普通」
ズルっとこけそうになる。コントか! と、すっ叩きたくなる程度にはこかせてもらった。
だが全然違う。これでは遠回りに言っても全然埒が明かない。そう判断した由那は仕方なくストレートな物言いをする事にする。
「だから、その彼女が今の私たちを見たら、あなたが浮気していると思ってショックを受けると思う。そして当然、あなたに対して怒る」
「そうか? フラーラはそんな事じゃ怒らないと思うけど」
「………………。でも、嫌な気持ちにはなるわ。いいえ、嫌なのよ。嫌」
ここまではっきり言って伝わらない人は初めてだ。ちゃんと共通語で話しているよね? と、由那は伝わらないのを言語のせいか疑い始める。
これはビシッと一言で言い切ったほうが良い。
「フラーラさんが例え表情に出さなくても、付き合っている恋人が別の女性とこんなところを二人で歩いていたら不安に思うの。口に出さなくても、嫌なものなの」
「そういうものなのか。…わかった。気をつけるよ」
ここまではっきり忠告したのはさすがに初めてだ。むしろ説得だろう。
由那に言い含められたカイルは、ようやくこの場所から動く気になったようだった。それにほっとしながら、これから向かう場所は穏やかであってほしいと願う由那だった。
閑話02.5、02.6があります。