69・大丈夫だよ
陽子とこはるに追い立てられるようにして紗良のマンションまで来たはいいが、よく考えればつい先日お邪魔したばかりだ。こんなに頻繁に、しかも『癒してほしい』なんていう名目で来るのは、我ながらどうかと思う。
あれこれ考えたところで、紗良においでと言われて断れるわけもないし、そもそもここに来ることは既に連絡済みなのだから、あとはもうインターホンを押すだけなのだけれど。
ひとつ大きく深呼吸をしてから、えいやっとインターホンを押し、待つこと数秒。大きく開けられたドアから「いらっしゃい」という弾んだ声と眩しい笑顔が飛び出してきた。
あー、もう可愛い! 好き! ただでさえとんでもなく可愛かったのに、最近更に可愛くなって困ってしまう。
「急にお邪魔してごめんね」
「ううん、来てくれて嬉しいけど、……陽子さんから聞いてた通りの顔してるね」
そう言って、私の顔をまじまじと見つめながら、目の下のクマにそっと触れる。優しくなぞるような指は柔らかく、突然の接近に鼓動が小さく跳ねた。
「えっと、陽子からは何て聞いたの?」
「美人が台無しの酷い顔って。美人なのは変わらないけど、ちょーっと情けない顔になってるかな。雨の日の子犬って感じ」
それ、寝不足だからじゃなくて、ここに来ることになった過程のせいじゃなかろうか。でも、美人って言ってもらえて、ちょっと嬉しい。
「それ、だいぶ情けない顔ね」
「大丈夫。ちゃんと拾って、寝床を用意してあげるから」
「大丈夫の意味がわからないんだけど……おじゃまします」
「はーい、どうぞ」
招き入れられ、リビングのソファへと腰掛ける。これがいつもなら、紗良がお茶を用意してくれるのだけど、今日はそのまま隣に腰かけて、こぼれんばかりの笑顔でポンポンと膝を叩いた。
うん、する気満々だ。「お膝、あっためておきました!」とでも言いたげな紗良に、嬉しいんだけど腰が引ける。
だって、まだ5日だ。膝枕で昼寝をさせてもらってたった5日で、今日また膝で寝かせてもらうために部屋に来るって、明らかにおかしいだろう。
「ありがとう、紗良。でも、今日は遠慮しとくわね」
「え、なんで?」
不思議そうに尋ねる紗良から、残念がっているのが伝わってきて心が折れそうになるが、ここで負けるわけにはいかない。
「あのね、気持ちはすごく嬉しいんだけど、年上の矜持というか……何かあるたび、紗良のとこに来て膝枕してもらうのって、子供がお母さんの膝に泣きついてるみたいじゃない?」
「あー、言われてみれば、少しだけ……」
「でしょ?」
納得してもらえて良かった。そんなことないよ! と言われてしまえば、私の頭はきっと膝の上に直行していた。
「私ね、自分が甘えるより、頼ってもらえる立場でいたいの」
紗良が安心して寄りかかれる存在に。最近、自分が思っていたよりもポンコツで情けなくて脇の甘い人間だったと思い知ることばかりだけど、好きな人の前くらいはカッコつけていたい。
もう情けないところを散々見られてしまったが、それはそれ。これからの頑張りで見返してみせる。
ごめんね、と頭を撫でると、紗良がぷくっと頬を膨らませた。何、その不満ですアピール。可愛い。
「もう十分頼ってるのに」
「だったら嬉しいけど、膝を借りるのはまた今度。気持ちだけ貰っておくわね、ありがとう」
「……わかった」
渋々ながら引き下がってくれて、ほっとしたのもつかの間。それなら、と間にあった拳二つ分の距離を詰めてきた紗良が、私の左腕を取ってピッタリと体を寄せた。
何事かと混乱し、身を硬くしていると、顔を覗き込んできた紗良が「じゃあ、今日は私が甘えるね」と、いたずらっぽく笑う。……死ぬかと思った。死因:尊死で。
というか、この状況は私が紗良を甘やかしているんじゃなくて、紗良が私に甘えてくれているのでは? 思い描いていた『頼られる私』ではなく、接待的な甘えられ方へのコレジャナイ感が凄い。
あと、この構図は『お店のNo. 1の女の子と、初めて夜の店に来て固まる若者』だと思う。女の子にくっつかれて嬉しいけど、どうしたらいいかわからなくて動けない、みたいな。
おお、私の中の思春期男子が一気に18歳まで育ってしまった。
「ねえ、紗良。この甘え方は違うと思う」
「え、そう?」
「ええ、これはその……恋人への甘え方じゃない?」
夜の蝶とお客さんという言葉を飲み込み、恋人という単語に変換したはいいが、その甘い響きに自分で自分にダメージを与えてしまった。この状態を更に意識してしまい、顔が火照る。好きな人の前ではカッコつけたいなどと奮起した直後だけど、早速無理そうだ。
私の指摘に「そうかなぁ?」と紗良は思案顔を見せたが、腕を解くつもりはないらしい。それどころか、無邪気にありえない提案をしてきた。
「じゃ、今だけ恋人ってことで」
──とんでもない小悪魔だと思った。
本当の恋人なら、こんなことされたら服を着たままではいられないぞと、18歳になった思春期男子が胸の中で囁く。私の誇る鉄壁の理性さんも、ここまでされたらもういいんじゃないかと言い始めた。どうしよう、誰も止めてくれない。
「ねえ、紗……」
「それで、詩織さんはどんな怖い夢を見たの?」
「……え?」
理性は止めてくれなかったけど、獲物側からストップがかかった。
不意に待てを食らって戸惑う私に、紗良が続ける。
「陽子さんから聞いたよ。詩織さん、夢見が悪くて眠れなかったって。どんな怖い夢見たの?」
「……忘れちゃった」
「嘘つき。忘れられるなら、一晩中眠れないなんてことにはならないでしょ?」
「ふふっ、確かに。あーあ、陽子は誤魔化されてくれたのに」
「残念でした。今日の私は甘える側だから、聞かずにいてあげるほど優しくありませーん」
なるほど。甘えてほしいと言った手前、ここだけ甘やかせというのは都合が良すぎるか。
逃がさないとニッコリ圧をかけてくる可愛い人に、苦笑いで白旗を上げた。ふぅと息を吐いて手を握ると、チラリとそちらを見た紗良が顔を上げ、どうしたのと小首を傾げる。
「あのね、紗良が殺される夢を見たの」
当然、ゲームや刺した人物については話さないが、一部をぼかしてなら話しても問題ないだろう。気持ちのいい話ではないけれど、彼女が用心するきっかけになればいいとも思う。
「ほら、プレゼントを買いに行ったショッピングモールの上にシネコンがあるでしょう? あそこで映画を観た後、後ろから駆け寄ってきた女の子に紗良がグサって」
「えええぇ、怖っ!」
「でしょう? 紗良は血まみれで倒れるし、犯人は自分の首を刺して自殺するし。それを横で何も出来ずに見てるっていう、凄くリアルな夢を見たわ」
「そっかぁ、それは……怖かったね」
そう、怖かったのだ。
あの夢はゲームでの紗良ルートのバッドエンドを再現しているのだから、私が飛び入りで紗良を守ることは出来ない。薄い膜越しに見せつけられ、どうにかあちら側に行こうともがいても跳ね返されるだけだった。
大事な人が冷たくなっていくのを、ただ見ているしかないなんて、あんな思いは夢だけでたくさんだ。
「大丈夫だよ、詩織さん。ほら、私はちゃんと生きてるからね」
繋いだ手を、ぎゅっと握って紗良が言う。
「それに、悪い夢は人に話したら正夢にならないって言うし。私に話したから、もう大丈夫だよ」
大丈夫、と力強く言葉にしてもらって、スッと肩が軽くなった気がした。軽くなったことで、今まで肩に力が入っていたことにすら気づけていなかったことを知る。
そっか。私、大丈夫って言ってほしかったんだな。そんなのは現実にならないよ、ただの夢だよって、笑い飛ばしてほしかったんだ。
「……敵わないわね。結局、私が甘やかしてもらっちゃった」
「そう? あっ、じゃあさ、記憶の上書きしに行こうよ」
「上書き?」
「うん。一緒に映画観に行って、楽しい記憶で上書きしようよ。前に行ったパンケーキのお店行って、映画観て、浴衣の小物も探そう」
したいことを指折り数えながら、スタダの期間限定メニュー・ハニーレモンフラペチーノも飲みたいと追加する。
あえて現場に行ってやろうという前向きな提案についていけず、呆気に取られてしまった私の鼻先を、紗良が繋いでない方の指先でツンと突いた。そして──
「何かあっても、今度は詩織さんが守ってくれるんでしょ?」
なんて。何の疑いもなく、信頼しきった口調で言うものだから。
まったく、この小悪魔め。ちょっと目頭が熱くなったじゃないか。
「もちろん、任せて!」
バッドエンドなんて、絶対に認めない。この笑顔を、私が守るんだ。そのために出来ることがあれば、何だってしてやる。
左腕に伝わる愛おしい温もりに、私はそっと誓った。
「あなたは死なないわ、私が守るもの」って、脳内で詩織さんが何回も言っていました。
シン・エヴァ面白かったです。




