63・とある少女の ②
「……もしかして、詰んだ?」
葵が『こはる』ルートへ進むトリガーは何だろうと思ってはいたが、まさか部活の選択だったなんて。そんなの、今更どうしようもないじゃないか。美術部は、既に葵が中心にいる。先日だって、葵から離れたこはるが孤立したばかりだ。恋敵である私がヨイショして褒めたところで、この環境でこはるが変わるとも思えない。
それに何より、最後に見せたあの闇落ちした笑顔!
「なんでハッピーエンドのルートでもヤンデレ化してるのよ!? そこは晴れやかな笑顔を見せるところでしょー!!」
まったくもって意味がわからない。自信のなかった自分を変えて、好きな人を振り向かせて、文句なしに幸せの絶頂の瞬間のはずなのに。何ですか、あの光のない目は。
葵視点の時は……あー、スチルはその後のキスシーンだったから目は閉じてたな。あんなヤンデレの微笑み見た後だと、もはや神絵師による美しいスチルも恐ろしく感じられる。
サヨウナラ、私の美しい思い出。
しかし、全く心当たりがないわけでもない。『こはる』ルートでのベッドシーンは、全部こはるがする側なのだが、その抱き方が……ねちっこいというか、何度も何度も抱き倒すようなしつこさだったのだ。
『ねえ、私のこと好き?』
『私のことしか考えられないようにしてあげるから』
『もっと溺れて……私なしではいられなくなって』
情事の最中のセリフも、こはるの背景を知った後だと全然印象が違う。こんなの定番のセリフだというのに、今では狂気を感じる。
あの抱き方も、もしかしてそれまでのコンプレックスの反動だったとか? ゲームをしていた時は、長年片思いしていた分ちょっと愛が重いだけだと思っていたのに!
「無理。これ、私の手には負えないわ……」
こはるの自信を回復させる機会は既に失われていた。つまり、葵と結ばれることはない。バッドエンドのルート一直線だ。『こはる』ルートのバッドエンドは、葵ーープレイヤーが他のヒロインを中途半端に攻略しようとして、誰の好感度も上げきれなかった時に発生する。葵が私に興味を持っているが、私が葵への好感度を上げていない今の状況はまさにそれに当てはまるだろう。
「っていうか、親……! 完全に負のピグマリオン効果でしょ、これ! 何してくれてるの、ほんとに! もー!!」
他者から期待されることによって成長が高まることを、ピグマリオン効果という。前世で塾講師をしていた頃、生徒の学力を伸ばすために意識していた心理学のひとつだ。
そして、これの逆が負のピグマリオン効果。ゴーレム効果とも言うのだが、出来ない奴だという烙印を押されれば、その印象通りにあまり成長しなくなる。これにハマると悪循環に陥りやすく、なかなか抜け出せない。
こはるみたいに子供の頃から出来ない子扱いされていて、自信を持てるわけがないだろう。むしろ、ハッピーエンドのルートでよくぞ回復させたと拍手を送りたいくらいだ。
「はー、辛い。もう放り出したい。私と紗良の身の安全だけ確保して、葵とこはるからは目を背けたい……!」
出来なくはないと思う。ゲームと今とでは状況が違っているし、私が葵をキッパリ振りさえすれば大丈夫のはずだ。問題は、それで彼女達がどう転がるかだが。出来ることなら、平穏に過ごしてもらいたい。切実に。
それに、さっきから目を背けたいものがもう一つ。膜の向こうでは『こはる』の別ルートが始まっていた。私がまだ夢から覚めていないということは、これまでのパターンだともうひとつ何かを見ることになる。
ハッピーエンドであれだったのだ。すでに精神削られまくっているというのに、これ以上何を見せるつもりなのか。今回はこれで一旦やめにして、続きは明日にしてくれないだろうか。一時停止ボタンが欲しい……。
途中まではさっきと同じ。入学して、料理部に入って、少しずつ自信を回復させて行く。そして――
※ ※ ※ ※
「ねえ、こはる。私、好きな人ができたんだ」
淡く頬を染めた幼馴染が、見たこともない表情でそう告げる。しかも、すでに付き合っていると、椿ヶ丘の女の子なのだと、こはるは続けて教えられた。
最近、様子がおかしいとは感じていた。妙にウキウキしていて、空いた時間にスマホを眺めることが増えていたし、休日もどこかに出掛けているのに何も教えてくれない。何かあるとは思っていたがこういうことかと、こはるは理解した。
「すっごく綺麗な子なんだよ。最初は全然相手にしてもらえなかったんだけど、もう押して押して押しまくって仲良くなってさ、昨日ダメ元で告白したらオッケーしてもらえて……」
聞いてもないのに馴れ初めを語り惚気る声に、こはるは耳を塞ぎたくなった。好きな相手が幸せならそれで良い。そんなのは幻想だ。綺麗事だ。負け犬の強がりだ。
せっかく回復してきていた自信も、自己の肯定感も、想い人に振り向いてもらえなかったという事実に、粉々になって崩れ落ちてしまった。
「そう……良かったね」
オメデトウという言葉が、寒々しく口からこぼれる。きっと上手に笑えていないけれど、浮かれている葵の目には映っていないだろう。
美しい容姿、優れた学力、そして葵。
こはるが欲しくて欲しくて仕方ないものを全て持っている『藤岡紗良』という少女。彼女が妬ましく、恨めしかった。神様は、なんて不公平なんだろう。自分には何も与えてくれないのに、その子はなぜそんなに恵まれているのだろう。そんなにいっぱい持っているのなら、せめて葵だけは自分に譲ってくれてもいいじゃないか。
それ以降、葵は必ずと言って良いほど、紗良と休日を過ごすようになった。他の友達に紗良のことは話していないらしく、初めての恋人との甘いやりとりは全てこはるに伝えられた。
普段、自分をそんな特別扱いするわけでもないくせに、なぜこんな時だけ白羽の矢を立てるのか。そんな特別感なら欲しくなかったのに。
葵が紗良の名前を出すたび、胸の内にドロドロのコールタールをぶちまけられるような想いだった。幸せそうな笑顔を見るたび、恋心が血を流しているのを感じた。
「こはるにも好きな人ができたら、応援するから!」
いつもはあんなにも空気が読めるのに、私の恋心には全然気づいてくれず、その上そんな残酷なことを言うのか。私はいつまでこんな気持ちでいなくてはいけないのか。
次第に、葵との時間はこはるにとって苦痛なものに変わっていたけれど、それでも一緒にいたのはやっぱり好きだったからだ。
葵と会わないならこはるの休日は暇なもので、その日も何をするわけでもなく自室で寛いでいると、軽いノックの音の後に2つ年上の次女が顔を覗かせた。
「こはる、今いい?」
こはるは、長女よりも次女との方が仲が良い。歳が近いからというのもあるが、自分にも他人にも厳しいきらいのある長女よりも、さっぱりした性格をしているので付き合いやすいのだ。
長女は小学校からそのままエスカレーター式で大学まで行ったが、次女は高校から椿ヶ丘に通っていた。
「これ、映画の前売りチケットなんだけど、こはるにあげる」
「え、なんで? お姉ちゃん見に行けばいいのに。彼氏か友達と行きなよ」
「その彼氏と別れたの。友達と行くのも癪だし、こはる行ってきなよ」
「えっ、別れたの!?」
写真を見せてもらったことがあるが、爽やかそうな好青年で、お似合いの二人だと思っていたのに。こはるは驚き、思わず聞き返してしまったが、姉は少し渋い表情をしただけで聞き流してくれた。
「一年生にとんでもない美少女がいてね。そっちを好きになったから別れてほしいってさ。根っからの面食いね」
「……お姉ちゃんも綺麗なのに」
「ありがと。でもねー、悔しいけど藤岡紗良は別格だわ。むしろ、元カレが身の程知らずって感じ。玉砕してたし」
――藤岡紗良?
聞き捨てならない名前に、サッと血の気が引く。
椿ヶ丘の一年生。美少女。藤岡紗良。人違いなわけがない。葵を射止めた女が、姉の彼氏まで奪ったなんて……ますます許せない。
別に姉の彼氏になんて興味なかったが、またひとつ自分の周りのものを持っていかれたようで、こはるが抱える紗良への憎しみが更に増した。
「あそこまで綺麗だと大変そうだけど……あの子、どんな人と付き合うんだろうね」
彼氏を盗られたというのにどこか同情的な姉の声が、こはるの耳にやけに残った。
明けましておめでとうございます。
夢の話はこの回で終わらせるつもりでしたが、長くなったのと後半の方が書く時間がかかりそうので、まずはここまで。
読んで下さってありがとうございます。