40・約束
うちの母は、底抜けに明るい人だ。肝っ玉母さんというには貫禄が足りないが、あと10年もすればいい味が出るんじゃなかろうか。
兄・姉・私の3人を生み育て、バリバリと家事をこなしつつ、「引きこもってたら浦島太郎になっちゃうでしょ! 自分が外で稼いだお金で美味しい焼肉を食べたいのよ!」と適度にパートで働き、趣味友と週に2日ジムに通い、宣言通り焼肉を食べる。そんな豪快な女性だ。――前言撤回、すでに肝っ玉母さんの域に到達しているかもしれない。
紗良の家庭教師を引き受けた時、毎週通うのに親に何も事情を説明しないわけにもいかず、一緒に勉強することと一人暮らしをしている件は伝えたのだが、その時にも親元を離れている紗良を気遣ってあげるようにと言っていたくらいだから、母なりにずっと気になっていたのだろう。そういう人だ。
しかし、それにしたってタイミングが悪すぎる! せめてもう少し心の整理がついてからか、全然自覚がなかった時に言ってくれればいいものを、一番動揺している時に追い打ちかけるなんて!
しかし、おかげさまで一周まわって冷静になれた。精神的に疲れすぎて、もはや深く考えるのをやめたとも言える。ぐったりしながら今からすべきことを思い浮かべれば、まずは顔を洗ってお粥を作ることだろう。
今の私の顔はとにかくひどい。大泣きしました、と顔中に書いてる状態で、鼻は真っ赤だし目の周りも腫れてる。これをどうにかしないことには、家にも帰れない。
スマホで調べたら、冷やす・温めるを交互に繰り返せと書いていたので、自分のハンドタオルで何度か繰り返すと、泣き腫らしたとはすぐにはわからない程度には復活した。ネットに書いてあることも、信じて実践してみるものだ。
それにしても、人の家のソファで蒸しタオルを顔にのせてくつろぐなんて、一体何してるんだろう、私。これをしてる時に紗良が起きてこなくて本当に良かった。
「あとはお粥か」
時間を確認すると、すでに20時半になろうとしている。さっさと作ってしまおうと、簡単な卵のお粥を作った。白だし、しょうゆ、みりんで味付けし、卵とねぎを入れたお粥は栄養たっぷりで優しい味にしあがっているだろう。ホカホカと湯気が立つお粥はいかにも美味しそうで、泣きすぎてお腹が空いている私が食べたいくらいだ。
例によってなぜかあった一人用の土鍋に入ったそれを寝室に持っていくと、紗良はまだ眠っていた。
あんなことの後だから顔を見るのが少し怖かったのだが、気持ちを自覚して心の準備が先に出来たおかげか、無自覚の時よりも落ち着いていられた気がする。そのことに安堵して枕元に近寄ると、気配に反応したのか小さくふにゃふにゃと唸った後、うっすらと瞼を開け、緑がかった瞳が覗いた。
「…………詩織さん?」
ぎゅううっと、心臓に甘い痛みが広がる。無自覚の時より落ち着いていられるなんて、儚い夢だった。名前を呼ばれただけでこれだなんて、先が思いやられる。
持っていたお粥をサイドテーブルに置いて、近過ぎない位置から顔色を確認すると、寝る前より少し良くなっている気がした。薬が効いてくれたのかもしれない。
「紗良、体調はどう? 少しはスッキリした?」
「うん、なんだか楽になった気がする。詩織さんのおかげだね」
「そんなことないわよ。お粥作ったけど、食べれそう?」
「食べるー! お腹すいちゃった」
こぼさないようにね、と渡したお盆を受け取り、ベッドの上でお粥を一口食べた紗良の表情が「美味しい」と蕩ける。そういえば生姜焼きから始まり、一緒にいくつもの料理を作ってきたが、私だけが作ったものを紗良が口にするのは初めてだ。
好きな人が自分の作ったものを「美味しい」と言って食べてくれるのは、なんだか胸がムズムズするものだということも初めて知った。
「それ食べたら、熱も測ってね」
「うん。あっ、詩織さん、時間……」
「大丈夫よ、家には連絡してあるから」
というか、連絡があったから。ついでに、ミッションも押し付けられたけど。
「そっかぁ、良かった。ごめんね、こんな時間まで。帰り道、気をつけてね」
「ええ、ありがとう。……それでね、さっき連絡した時にお母さんが言ってたんだけど、今度うちに遊びに来る?」
「え? うちって、詩織さんの家ってこと?」
「そうよ」
他のうちがあれば良かったんだけど、残念ながら連れていけるのはそこしかない。
「ただ、うちには遊べるものが何もないから、来てもつまらないわよ」
「そんなことないよ。詩織さんのおうち、行ってみたい」
「そう。じゃあ、そう言っとくわね。部屋も片付けておかなきゃ」
「えー、隠さなきゃいけないものでもあるの?」
「そんなの、あるに決まってるでしょ」
主に本棚に並ぶ百合本とか。春から読み始めたというのに、すでに本棚を一段占拠している。あの本をどこに隠そう。やはりダンボールに入れてクローゼットの奥に押し込むのが安全だろうか。
何を隠すのか聞いてくる紗良には、言うわけないでしょと返した。
「詩織さんの子供の頃の写真とか、見てみたいな」
「いいわよ」
「可愛かった? どんな子だった?」
「そうね、兄や姉の後ろについて、元気に走り回ってる子供だったわ」
今のインドアな私からは想像出来ないくらい、おてんばで外で遊ぶのが好きな子供だった。アルバムにも、こんがり日に焼けた私が大きな水鉄砲を構えている写真や、顔より大きなトウモロコシにかぶりついている写真があったはずだ。
「えっ、詩織さん、もしかして末っ子?」
「そうよー、7つ上の兄と、4つ上の姉。2人とも家を出てるから、今は家に私しかいないけど」
「うわー、意外! でもいいなぁ、私もお兄さんかお姉さん欲しかったぁ」
羨ましそうに目を輝かせて、紗良が言う。そういえば、紗良から家族構成について聞いたことがない。
これが昨日までなら、「私がお姉さんみたいなものでしょ?」などと言ったのだろうが、今はとてもじゃないがそれを口にする気にはなれなかった。
「3人一緒に写ってる写真もあるはずだし、探しておくわ」
「ありがとう! 楽しみだなぁ、早く風邪治して見に行かなくちゃ」
空になった土鍋を渡し、ワクワクした顔でまた布団に潜る彼女は、薬がしっかり効いてくれたようで来た時より随分と元気だ。
体温計で熱を測らせると、37.4度とかなり下がっている。これならもう大丈夫だろう。
「今年の夏休みは、楽しみがいっぱいだー。クラスの友達とも遊ぶし、詩織さんの家にも行くし。あっ、花火大会にも行こうよ」
「花火大会? いいけど、クラスの子とは行かないの?」
「うん。なんか夏季講習で行けないとか、彼氏と行くとか言ってた。それ聞いて花火大会あるんだって知って、詩織さんと行きたいなーって思ったの。ねえ、ダメ?」
その聞き方はズルい。
惚れた弱みとでも言うべきか、好きな相手からそんなふうに誘われ、期待に満ちた目で見つめられて行かないなんて言えるわけがない。少なくとも、私には無理だ。
こんなふうに誘ってくれるのも、友達としか思われてないからだという悲しみと、紗良と2人で花火大会に行ける喜びが心の中でせめぎ合った結果、後者が勝った。
「いいわよ、行きましょう。そういえば、前に浴衣着てお祭り行きましょうって話もしてたわね」
「わぁ、浴衣! 私、着たことないんだー」
テンションが上がってまだまだ話し足りなそうな紗良に「おやすみなさい」と告げ、部屋から出た。
さっきの彼女の様子を思い出し、やっぱり距離を置くのは難しそうだとクスリと笑いがこぼれた。まっすぐな好意はつらくもあるが、同時に嬉しいものでもある。何より、紗良のあの笑顔があれば、多少苦しい時があってもやっていけると思えた。
なんだか、前世で好きだった百合作品が急に恋しい。片想いで苦しんだ先人を見て、思いっきり共感したい気分だ。
『舞-HaMA』のぶぶ漬け会長、『長月の巫女』のお嬢様、『わが君』の副会長。私の中の三大片想いキャラだが、今の世界にあれらの作品が存在しないのが残念でならない。
「あれ、でもこの3人のうち2人はヤンデレ化するわね……?」
――ふむ。共感はしても影響は受けないようにしよう。
土鍋を洗いながら、私は1人無言で頷いた。
読んで下さってありがとうございます。