30・優しい時間
こはると初めてまともに向き合った後、駅のホームで電車を待ちながら今日のやりとりについて考えていた。
思えば、初めて会った時からあまりにもこはるが私に対して敵意を剥き出しにしていたものだから、きちんと話したことがなかった。そのせいもあって、私は葵目線じゃないこはるについてはあまり詳しく知らない。
部活での様子を見ていると、私に対する態度以外は本当にごく普通の女の子だ。いつもふんわり微笑んでいて少し大人しいくらいだと思っていたのだが、今日のあの様子を見る限り、ただの気弱な女の子と言うわけではなさそうで、ますますよくわからない。はっきりしたのは私が嫌われていることくらいだけど……あ、なんかへこむ。
どうしたものかと考えていると、スマホが震えて紗良からのLAINの通知があった。
『詩織さんが次に来るまで待機中!』
そんなコメントと一緒に、日曜日に一緒に買ったお揃いのマグカップが見慣れた食器棚に並べられている写真が送られてきていた。
なにこれ、可愛い。私の推し、天使なんじゃなかろうか。疲れたタイミングを見計らったような写真とコメントに、心のHPゲージが一気に回復していくのを感じる。
『今すぐ行きたい』
『いいよー、来る?』
欲望のままに返信すると、あっさりとお誘いされて「え、いいの?」と思わず声が漏れた。行きたいとは言ったけど、本当に行けるとは思っていなかったので、ちょっと驚きだ。
でも、行ってもいいなら少しでいいから会いたい。紗良の顔を見たら、こはると話して動揺している気持ちが落ち着く気がする。
『ごめん、少しだけお邪魔していい?』
『うん、早速マグカップの出番で嬉しい!』
万歳してるパンダの動くスタンプが一緒に送られてきて、ほっこりする。
こんな急に押しかけるなんて迷惑だとはわかっているけど、ここは紗良の厚意に甘えてしまおう。疲れた時に甘いものが欲しくなるように、今の私には紗良補給が必要だ。切実に。
ちょうど来た電車にそのまま乗って紗良の家へと急ぎ、着いたのはもう六時半を回っていた。
「いらっしゃい、詩織さん。上がって上がってー」
「急にごめんね、お邪魔します」
ドアを開けて迎え入れてくれた紗良の顔を見て、ほわりと気持ちがほぐれるのを感じた。もう大分落ち着いたと思っていたけど、自分で思っていた以上に肩に力が入っていたみたいだ。
「ここに来るとほっとするわ」
「そうなの? そう言ってもらえると嬉しいな。いつでも来てね」
詩織さんなら大歓迎、と言ってもらえて口元がへにゃりと緩んでしまう。ダメだダメだ、こんな顔、紗良には見せられない。
そういえば、この家には何度も来ているけど、勉強なしで来たのって初めてだ。この場合、どういう理由ってことになるんだろう。『会いたくて来ちゃった』とか? いやいや、それどこの馬鹿ップルよ。違う、いや、違わないけど違う。
「ねえ、詩織さん、何飲む?」
「え?あ、何でもいいわよ?」
「えー、せっかくのマグカップデビューなんだから、ちゃんと考えてよー。いつもは紅茶だけど、最近暑いから麦茶でも……でもマグカップに麦茶も変かな?」
新品のマグカップに何を注ぐかを真剣に考えているのがおかしくて、笑い出しそうなのを必死で堪える。いや、大事にしてくれてるのは嬉しいんだけど、マグカップのデビューなんて考えたことなかったから。
私の場合、前世の知識や記憶があるから、精神年齢は実年齢より少し上がってるとは思うんだけど、気持ちの上ではまだ16歳。今は紗良とは同い年だ。
前世云々を差し引いたとしても、紗良は少し幼いと思う。そして、そんなところがまた可愛いから困ってしまう。
「いつもの紅茶がいいわ」
楽しそうに悩んでいる紗良にリクエストすると、「わかった、詩織さんはソファで待ってて」と言い残して、キッチンへと向かっていった。
音符とかお花が飛んでいそうな後ろ姿を見送り、言われた通りにソファで待つ。ついでに、今更だけど少し遅くなると家に連絡しておいた。紅茶をご馳走になったら帰ろう。いくら誘ってもらったからって、本当にノコノコと来るなんてどうかしている。私らしくもない。
それに、もう目的は果たしたし。紗良の顔を見て、少し話しただけで、干からびていた心がすっかりと潤っているのを感じる。推しの力って、本当に偉大だ。
「お待たせ、どうぞー」
紅茶が入った淡い水色のマグカップを受け取って、お礼を言う。持ってきてくれた紗良はというと、嬉しそうにニマニマと笑って、エメラルドグリーンのマグカップを大事そうに両手で包んでいた。聞かなくても、このマグカップを一緒に使えて嬉しいというのが伝わってきて、また心が満たされる。
前から思ってたけど、この子は私を幸せにする天才なのかもしれない。
「美味しい。……あまり遅くなっても悪いし、これ飲み終わったらお暇するわね」
「え、別にいいのに。ああ、でもおうちでご飯用意して待ってるよね。暗くなったら危ないし」
「そうね、今日はちょっと会いたかっただけだから」
「……え?」
「え?」
きょとんとした顔の紗良に聞き返されて、つられて私も聞き返して、ようやく気づいた。そういえば、会いたかったとか疲れてたとか、全然言ってないんだった。
すっかり言ってた気になってたけど、やっぱり疲れてるな、私。
「えっと、私、てっきりマグカップを使いに来てくれたのだとばかり。会いたかったって、私に?」
「あー……、はい」
誤魔化そうかとも思ったが、はっきりと会いたかったと言ってしまった後では無理だ。というか、頭が働いていないせいで言い訳も出てこない。
「詩織さん、何かあった?」
「んー、あったと言えばあったけど、他の人のプライバシーもあって話せないわね。ごめんなさい」
「ううん、それはいいけど。ちょっと心配なだけ……あ、そうだ」
心配そうに眉をへにゃりと下げていた紗良が、何かを思いついたように顔を輝かせた。持っていたマグカップをソファの前のガラスのテーブルの上に置き、何故か私が持っていたのも引き受けて、自分のマグカップの隣に並べて置いた。
そして、いそいそと座り直したかと思えば、ポンポンとショートパンツから覗く太ももを叩き、なぜかドヤ顔で「どうぞ!」と言っている。
いや、どうぞって何を? なんとなくわかるんだけど、なんで急に?
「ひざ枕、どうぞ!」
「えっと……」
理由を聞くのも野暮というものなのかしら?
私がそこに頭を乗せることに何の疑問も持っていなさそうな紗良の様子を見ていると、躊躇っている自分がおかしいような気がしてきた。いや、気がしてきただけで、多分私は普通の反応をしているはずだ。
紗良のひざ枕。細いけれど程よくムチっとしたあの太ももに頭を預けてみたい、とは正直思う。しかし、それはダメだろうと私の中の良心が反対していた。
ちなみに、心に住まう天使は紗良の顔をしているので、悪魔と肩を組んで「ひざ枕! ひざ枕!」とひざ枕コールをしている。反対勢力が良心しかいない!
「詩織さん?」
「あ、はい」
体をずらして、コロンと頭を柔らかな太ももに乗せる。勝負は一瞬、良心はあっけなく負けた。
言われるがままひざ枕をしてもらったけれど、これはなかなか恥ずかしい。ただでさえスキンシップが苦手なのに加え、密着している場所が顔と太ももだ。普段高い場所にある顔と、下のほうにある太ももという、なかなか巡り会うことのないはずの二つがくっついていること自体が、わけもわからずなんだか恥ずかしい! どうしてこうなった!
「あの、紗良……なんで急にひざ枕?」
「うーん、友達が最近、好きな人を落とす方法を色々考えてくれるんだけど、その中の一つがひざ枕でね」
「え、私、今落とされそうになってるの?」
確かにこの状態、うっかりしてると落とされそうではあるけれど。むしろ、ドキドキしすぎて天国に昇りそうでもある。
「ううん、落とすには相手が弱ってる時を狙えって言ってる子がいてね、心が弱ってる時にひざ枕したらコロっと行くって……」
「え、やっぱり落とそうとしてる……?」
「もう、違うってば。その意見を聞いてた彼氏持ちの子が、彼氏が疲れてたりへこんだりしてる時はよくやるって言ってたの! だから、詩織さんにも効果あるかなーって」
「あー、なるほどね」
確かに、恋人にされたら嬉しいものなのだろう。疲れたり弱ったりしている時は、特に。
だからといって友達相手にするのは何か違う気がするのだけど、――でも、癒される。
普通の枕と比べれば寝心地は決してよくないんだけど、少し低めの体温とか、紗良の甘い香りとか、髪を梳くように優しく撫でる手がとても心地いい。気恥ずかしくてまだ上を向くことはできないが、硬くなっていた体も徐々に力が抜けてきた。
「詩織さん、どうかな?」
「効果バツグン。ありがとう」
「どういたしまして」
あと少しだけ、どうかこのままで。ゆっくり癒してもらったら、ちゃんと紅茶を飲み干して帰るから。
言葉はいらない、優しい時間。何度も繰り返し髪を撫でる温もりに、私はそっと目を閉じ、身を委ねた。
読んで下さってありがとうございます。