18・傘とハンカチ
紗良の学校での状況が改善したと聞いても、もしかしたら上げて落とすつもりなのではないかと密かに疑っていたのだけど、話を聞く限りはそういうわけではなさそうだ。
休み時間には雑談したり宿題のわからなかったところを教えあったりして、昼休みは一緒にお弁当を食べているらしい。
昨日は放課後にみんなでタピオカの店に並んだらしく、タピオカミルクティーが美味しかったと話してくれた。
「タピオカ、初めて飲んだけどモチモチしてて美味しかったよ。今度、詩織さんも一緒に行こう」
「そうね、私も実はまだタピオカ未体験なのよ。興味はあったんだけど、カロリーが高いって聞いて飲まずにいたから。紗良のオススメの店なら行ってみたいわ」
「そうなの? 私、タピオカ初めてだって言ったら、みんなにありえないって言われたのに。詩織さんも仲間なら嬉しいな」
腰掛けていた白いソファに深く背を埋めて、ニコニコと笑いながら話す紗良の表情は明るい。憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔は、先日までとはまるで別人みたいだった。
四月に出会ってからの紗良も、いつも笑って暗い影を感じさせることはなかったけれど、やはり相当なストレスがかかっていたのだろう。これが本来の姿なのだと、今ならはっきりわかる。
「詩織さん、どうかした?」
楽しそうに話す紗良を愛おしいと思った。
この気持ちを何と呼べばいいだろう。恋じゃない。推しへの愛でもなく、友情でもない、名前のつかない不思議な気持ち。
私はきっと、この子がこうして笑っていてくれるだけで幸せなんだって、この笑顔を守りたいんだって、心から思えた。
「ううん、良かったなーって思って」
「ありがとう。詩織さんのおかげだよ」
「私は結局、大したこと出来なかったから……」
あれだけ紗良を守るんだ! って意気込んでいたのに、空回りしてしまってカッコ悪いったらありゃしない。MVPは紗良、次点が友田さんだ。
「今ね、紗良がすごくいい顔してるから、私も嬉しい」
「そう? 自分じゃわからないや」
わからないと言いながら頬をムニムニと触っているが、もうそんな顔ですら別物なのだ。彼女の纏う空気ごと、ガラリと変わっている。
「わからなくていいの。最初はどうなるかと思ったけど、無事に落ち着いて良かったわ」
「カフェで詩織さんが泣き出した時には、私もどうなるかと思ったなぁ」
「鼻水たらして?」
「そうそう、鼻水たらして」
その時のことを思い出したのか、クスクスと笑いながら紗良がこちらに肩を預けてくっついてきた。出来ることなら、あの場で号泣したのは忘れてほしい。当の本人が冷静なのに、なんで私一人があんなに取り乱してしまったのか。
私の方が年上なのに。前世の年齢差も合わせたら精神的には一回り上なのに!
「あの時ね、初めて詩織さんに会った日のこと思い出したよ」
「大雨の日のこと?」
うん、と隣で紗良が相槌を打つけれど、何か思い出すような共通点があっただろうか。もしかして、ゲリラ豪雨のような泣きっぷりだったとでも言いたいのか。
「入学式の日ね、急に雨が降ってきて本当に困ってたんだ。配られた教科書とかプリントとか紙の荷物がいっぱいあって、濡らすわけにいかなかったし。どうしようかって思ってたら、詩織さんが傘を差し出してくれて」
「そうだったわね」
「カフェでもね、頑張れって言うだけじゃなくて、一緒に考えるからどうにかしようって言ってくれたでしょ? なんだか、困ってる私に詩織さんがまた傘を差し出してくれたような気がしたんだ……って、なんか恥ずかしいこと言ってるね、私」
紗良がへへっと照れ臭そうに笑う。
どんな反応をしていいかわからず黙っていると、一呼吸おいてまた話を続けた。
「今回も、ね。詩織さんは私を傘に入れて、濡れない場所まで連れて行ってくれたんだよ。大したことしてないなんて絶対ない。詩織さんがいなかったら私はとっくに諦めてたし、勉強も料理もダメダメで、友田先輩に力を貸してもらえることもなかったもん」
「あなたがそう思ってくれるなら、少しは力になれたのね。……結構ボロボロの傘だったけど」
「詩織さんって、もうほんっとそういうとこ! 変に完璧主義っていうか自己評価低いとこあるよね。超人かってくらい色々出来るくせに。終わり良ければ全て良し、でしょ?」
「……そうね」
まだ自分の中では納得できない部分があるけど、紗良の言う通り、終わり良ければ全て良し。今の彼女の笑顔が全てだろう。
それに紗良に友達が出来て孤独でなくなったのなら、いつか見たあの悪夢のような未来は回避できるだろう。彼女には本当に好きになった人と結ばれて欲しい。
それまで私は、出来る限り丈夫で大きな傘を持ってそばにいよう。
「ねえ、私が詩織さんに出来ることってある? 何か恩返しがしたいんだけど、思いつかなくて」
「そんなの気にしなくていいのに。私だって紗良にいろんなものを貰ってるんだし」
「ダメ、それじゃ私の気が済まないよ!」
「うーん……」
そうは言っても、紗良はもうそこにいてくれるだけで満足っていうか、推しは存在してくれてるだけで感謝しかないんだけど。
これが陽子なら、胸揉ませて! とかセクハラまがいなことを言い出しかねないけど、私はそういうのは求めてないし……あ、そうだ。
「ひとつ、あった」
「え、なになに? 何でも言って」
「紗良にハグしたいな」
「……え?」
それまで私にもたれかかっていた彼女が、顔を赤くして体を離す。おや? と思ったら、まるで警戒した子猫みたいな顔でこっちを見つめていた。
あ、これ陽子にセクハラ発言された時の私の反応だわ。完全に誤解されてる。
「ちょっと待って、話を聞いて、誤解だから。ほら、友田さんとかクラスの友達が紗良にハグしてたでしょ? それがちょっと羨ましかったっていうか……あー、なんだか私も恥ずかしいこと言ってるわね」
「あ、ああー、そういうこと! ビックリしたぁ。私、てっきり……」
「てっきり?」
「何でもない! ハグ! 問題ないよ、ほら! カモン!」
言いたかったことはなんとなく想像つくけど、そこを深く突っ込んだらハグはさせてもらえないんだろうな。
さっきよりも顔を赤く染め、両腕を広げて待機している紗良にそっと近づく。そのまま背中に腕を回して抱きしめたら、思った以上に細い体に驚かされた。
こんなに細いのに柔らかくて、温かくて、とってもいい匂い。もう少しだけ堪能したくて腕に力を込めると、紗良の細い肩が小さく跳ねた。
――こんな華奢な身体で、この子はもう何年も重荷に耐えていたのか。
「よく頑張ったわね」
何を、とは言わない。労わるように背中をポンポンと叩くと、耳元でヒュッと息を飲む音が聞こえた。
「もう……詩織さん、ほんとそういうとこ……っ」
呆れまじりの震える声で、紗良がさっきと同じことを言う。
「……ハンカチ」
「え?」
「ハンカチ、なってくれるって……言ったよね?」
「……どうぞ」
確認か、懇願か。嗚咽まじりのそれに許可を出すと、ギュウッと痛いくらいに抱きしめられた。声を押し殺し、小さくうなるようなその泣き方に、もしかしたら私や彼女の家族が知らないところで、こんなふうに涙を流してきたのかもしれないと思う。
だとしたら、こうして涙を見せてくれたのはいい傾向だ。この子はもっと、人に甘えることを覚えた方がいい。
「恩返しのつもりだったのに」とか「こんなはずじゃ」とか、泣きながら可愛い悪態をついているのを笑っていると、もう一度だけ強く抱きしめられる。
啜り泣きの合間、小さな声で「ありがとう」と聞こえた。
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