鍵盤楽器演奏特論~⑦~
「ありがとう……」
そう、安堵したのか力なく言ったのは、誰であろう池田先輩だ。先輩は大粒の涙をポタポタと重力に任せて流していた。それから、蝶ネクタイを力任せに引き千切ると、思いっきり踏みつけた。その瞬間、ネクタイから「ジャリ」となにかが潰れた音がした。
「これで、本当の自由です。姉さんも時期に助け出されるでしょう。環君、石井君、大地字さん、和田さん、本当にありがとう」
池田先輩は、再び大きく頭を下げた。
円先輩が応える。
「池田先輩。感謝するのは後ですよ。会場が待っています」
放送が鳴る。
《会場の皆様にご連絡です。会場内での喫煙、写真撮影、飲食、飲酒、録音等はご遠慮ください――》
「では、俺たちは席に行きますので。先輩の演奏、楽しみにしているんですからね」
「頑張ってください、池田先輩」
そう言い、立ち去る私たち向け、池田先輩はまた一つ大きく頷いた。
《続きましては、大学院修士課程二年鍵盤楽器専攻、池田博人による演奏です》
会場の拍手に応えるように、ステージ中央に池田先輩が現れる。
会場の照明のトーンが下がる。
輝く光の中を、池田先輩は一歩一歩進み、ステージに据えられているパイプオルガンへと腰を据えた。
決して大きくはないその背中に、二〇〇〇人を超える視線が注がれる。
――ジャン!
鍵盤を叩いた。いくつものパイプから空気が、音が紡ぎだされ、会場の隅々にまで満ちていく。
私はもちろん、多くの人々がその音圧に圧倒され、瞬時に魅了される。
〝パイプオルガン、伊達じゃねえな″
そう言っているような、感嘆の息が漏れるのが聞こえたような気がした。
「バッハの『トッカータとフーガニ短調』だ」
「そうなんですか? バッハって、音楽史に出てくるバッハですよね?」
「そうだね、ミホちゃん。あ、豆知識でいうと、バッハはドイツ人で、ドイツ語で【バッハ】は【小川】のこと。だから、彼は【小川さん】なんだね。なんだか身近に感じない?」
拓哉先輩はなんだか自慢げに言ってきた。だが【小川さん】というのは私の中で少々ウケた。思わず笑ってしまいそうになる。
と、円先輩を見ると、まるで龍に襲いかかる虎のような形相で拓哉先輩を睨みつけていた。
だが、その視線は拓哉先輩を飛び超え、その隣の飛鳥先輩を射抜いた。飛鳥先輩はムンクの叫びが如く、石にのように固まっている。
「そ、そうですね。【小川さん】いいですね……。円先輩はバッハに詳しいんですか?」
「詳しいというほどではないが、パイプオルガンといえばバッハでこの曲というほどメジャーだな。音楽と美術は同じ芸術という舞台にはあるが、そこには芸術論とともにそれぞれの違い【個性】がある。それを学ぶことで、より深めて考察を行うことができる」
そこで、私はあることを思い出した。
「円先輩、なぜ犯人たちは池田先輩を狙ったのですか?」
すると、円先輩は薄暗闇でもわかるぐらい目を輝かせた。
「池田先輩の【池田】は養子縁組をした家庭の名前だ。本当の名前は成田屋博人。そう、お前がお菓子で使ったリキュールを始めとする、酒造メーカーの御曹司さ」
「えええ!」
私は反射的に声を上げたが、どうにか堪えた。
「そんなにすごい人なんですか、池田先輩は」
「ああ、だから犯人たちの動きも分かりやすく、こちらも手を打つことができた、というわけさ」
そのときだ、鍵盤の上を池田先輩の指が、滑らかに、しかし確実に音を響かせて、猛スピードで下って行った。そして、その後に奏でられたのは――
「これ……『赤とんぼ』だ」
私の目には、古き良き時代の金色に輝く田園風景が映っていた。北からの涼しい風に乗って、穂先に止まっていた赤とんぼが一匹、空へと舞いあがる。
予定にはないアレンジだったが、どの人も文句を言わなかった。その代りに感嘆の息を漏らす。皆の心が一つとなった。
「こんなパイプオルガンもいいもんだな」
「そうですね……」
パイプオルガンを演奏する池田先輩。彼はまさしく、歓喜に沸いていた。




