鍵盤楽器演奏特論~⑥~
次の日。四時限目、現代アート論の講義の終わりに由里やカンナの甘い誘惑を断ち切り、部室へと駆け足で赴いた。
部室には既に円先輩と拓哉先輩がいた。円先輩は窓辺の指定席で、いつもよりも大きめのハードカバーの単行本を読んでいた。拓哉先輩はというと、キッチンで皿を洗い、棚へとカチャカチャと音を立てて戻していた。
「やあ、ミホちゃん」
「拓哉先輩、円先輩、お疲れ様です」
「そろそろ来るだろうと思って、カミツレのハーブティーを淹れておいたよ」
「ありがとうございます。そうだ、今日はビスケット焼いてきたんで、みんなで食べましょう」
私は皿にビスケットを乗せると、テーブルの中心に置いた。と、そのとき、コンコンコンとノックする音が聞こえた。入ってきたのは飛鳥先輩だ。今日は靴から帽子まで真っ白なコーディネートだ。昨日の蛍光イエローよりは目に優しい色合いだと、心の奥で呟いた。
「あの、環さんに呼ばれてきたんだけど……」
「え? 円先輩に?」
私は驚いた。なぜ、円先輩は非部員である飛鳥先輩を呼び出したのであろう。そう思っていると、円先輩は本を閉じ、静かに立ち上がった。ブラインド越しの夕陽にシルエットが浮かぶ。
「よし、メンバーが揃ったな。話をはじめるぞ」
そう言うや否や、私たちは応接セットへと座らされた。
しかし、私には腑に落ちないことが一つあった。
「円先輩、なんで飛鳥先輩を呼び出したんですか? 飛鳥先輩は芸犯の部員ではありませんよ?」
「そう、それは私も思ったんだけど……」
当の飛鳥先輩も疑問を口にした。どうやら飛鳥先輩も、自分が呼び出された理由が分からず困惑しているようだ。
円先輩は、一度頷く。
「確かに和田さんを呼び出したことは一見奇異に見えるが、ちゃんとした理由がある」
そう言うと、円先輩はジャケットの内ポケットから、四枚の長方形の、少し光沢のある紙きれを出しテーブルに置いた。
紙切れには〈第四十六回盛岩総合芸術大学大学院音楽学部発表会〉と書かれていた。
「これは?」
「ま、円! いつの間にこんなものを! さては、そこいらの女の子をひっかけて二人で――」
まくし立てる拓哉先輩に円先輩は「じゃあかしい! 黙ってろ!」と怒鳴り、力ずくで口を封じた。怒鳴られた拓哉先輩はというと、ブツブツと名残り惜しそうに呟いていたが、ビスケットを一枚頬張ると「うま!」と目を見開いていた。
「これは見ての通り、今日これから執り行われる、大学院音楽学部の発表会の招待状だ。池田先輩からいただいた。ここに四枚ある。俺と拓哉、大地字、和田さんへとのことだ」
そこまで話した円先輩に、私はどうしても聞きたいこと、いや、聞かねばならないことがあったので、先生に質問を投げかける生徒のように、ピンッと腕を伸ばした。
「発表会に行くのはいいですが、円先輩、昨日はどこへ行っていたんですか? 連絡も無しに」
「どこへ? 調査に行ったんだ。そう伝えただろう?」
「それはそうですが。円先輩も拓哉先輩も、結局、連絡をくれなかったんで、どうなったのかなと思って……」
「俺はね、ミホちゃん」
拓哉先輩だ。
「昨日、一日かけて音楽学部に通う学生たちに声を掛けて情報収集していたんだよ。質問内容は二つ。一つはなにを専攻しているのか。もう一つは池田先輩についてさ」
私は、今度は拓哉先輩に質問をぶつける。
「二つ目の池田先輩について訊くのは分かりますが、なぜ回答者の専攻について訊くんですか? よく分かりません」
すると、拓哉先輩は人差し指を立て、「ちっちっち。まだまだ青いなぁ、ミホちゃんは」と言った。私の血圧は一気に上がり、脳はバトルモードへと切り替わり、あと数秒遅ければ拓哉先輩に跳び蹴りを食らわしていたであろう、そのタイミングで円先輩が口を開いた。
「大地字。突然、初めて会ったヤツから「池田先輩のことを教えてくれ」と言われたら、お前ならどんな気持ちになる?」
「え? そうですね……、「誰だこいつは」や「訊いてどうするんだ?」とか思うと思います」
円先輩は頷く。
「そう、誰だって初めて会うヤツには心理的にバリアを張り、自分の知っている、持っている情報を守ろうとするものだ。そこで、拓哉は相手の専攻している分野について知ることで、そこを切り口に相手の知っている情報を芋づる式に手に入れているんだ」
私は呆気にとられた。そのような技術を身に着けていたのか、拓哉先輩は。
「で、拓哉。目的の情報は手に入ったのか?」
「おうよ! 俺が誰だと思っているんだい?」
「「「石井拓哉」」」
私たち三人の声がシンクロする。思いは同じだ。だが、それにも拓哉先輩は動じない。
「かあ~、分かっているじゃないか! しかーし、それだけでは足りないな。なんせ、俺はスーパー・タクヤさ」
「はいはい。で、情報は?」
私はポーズを極めている拓哉先輩に話を促した。
「おうよ、ミホちゃん。聴いて驚くなかれ。池田先輩についての情報は雲上の太陽さ!」
「……? つまり、どういう意味ですか?」
「つまり、ミホちゃんや円が思っている以上に意外なことが分かったんだ」
部室に緊張が走った。いったい、どんな情報を掴んだのか。
「それは、どういうことですか?」
「私も気になります!」
飛鳥先輩だ。彼女は眼を爛々と見開いている。どうやら興味が湧いたらしい。
だが、張り詰めた緊張を切り裂いたのは円先輩だった。円先輩の手には、いつの間に用意したのか、カミツレティーが注がれたティーカップがあった。忘れていたが、テーブルの上にはビスケットもあったのだった。
「まあ、待て。一旦、落ち着こう」
私たちはティーポットからカップへとカミツレティーを注ぐと、一口グビッと飲んだ。
また一口、飲んだ。そして、ビスケットを一枚噛む。なんだか、先ほどまでの緊張がどこかへと行ってしまい、いつもの部の雰囲気に戻ったようだった。
「って、なんですか、これは!」
私は話を戻した。「ふー」と、一息ついていた一同に緊張を走らせる。果たして、拓哉先輩が得た情報とはなんなのか。
と、時計がカチリと針を動かした。それと同じくして、円先輩がテーブルに出していたスマホがブーブーブ……と、鳴動した。どうやらタイマーが設定されていたようだ。
「時間だ。これから発表会に行くぞ」
私たちの心には、より一層の緊張が走った。
***
十六時半。盛岩総合芸術大学音楽学部附属音楽ホール。ホールの外も内も人でごったがえしていた。
収容人数最大二〇〇〇人。赴くのは、以前、音楽部の発表会の中間発表会で起きた事件以来だ。多くの人はフォーマルに身を包んでいる。そして、よくよく見ると、私以外の三人もフォーマルだ。
「……円先輩。これはどういうことですか?」
「〝どういうこと″とは、どういうことだ?」
円先輩はしれっと言って退ける。フォーマルを着た先輩は、いつもタイトなカジュアルを着てはいるが、改めて見ると、どことなくカッコよく見えた。
拓哉先輩もフォーマルだ。だが、飛鳥先輩はフォーマルではなく、ドレス姿だった。ただ、ドレスはドレスでも、中世ヨーロッパ風の、どこか仮装と勘違いされる風貌だった。実際、何人かは彼女のことを白い目で見ては通り過ぎて行った。
「なんで私だけ私服なのか、と言うことです。皆さんフォーマルじゃないですか」
「まあ、そんなヤツがいてもいいじゃないか。芸術でいうスパイスさ」
「そうだよ。ミホちゃんぜんぜん浮いてないよ」
「そうよ、ミホちゃん」
私は後戻りできず、「そうでしょうか……」と呟くしかなかった。
私はジーンズにニットなのだが……。
放送が響く。
《ご来場の皆様にご連絡です。これより盛岩総合芸術大学大学院音楽学部の演奏会を執り行います。受付けを済まされました方におきましては、チケットの席番号をご確認いただきまして、お席へと移動していただきますよう、よろしくお願いいたします。会場は現在、照明を点けてはおりますが、御足元にお気をつけて――》
「よし、会場に行くぞ」
円先輩のその言葉に促され、私たちは「はい!」と、後に付いてく。
受付を済ませ会場に入ると、そこは人で溢れかえっていた。席という席は埋まり、どの人々も演奏が始まるのをいまかいまかと待ち望んでいるように見えた。
「うわ~……すごい人だかりですね」
「これが名物〈音楽会の豆大福〉なんちゃって」
「どういう意味です? 拓哉先輩」
「餅にもあんこにも豆がぎゅうぎゅうっていうわけ……あれ? うけない?」
「そんなこと言ってないで、行くぞ」
円先輩の足先は、チケットに書かれている席ではなく、どういうわけか
会場横の通路を進み、【STAFF ONLY】と書かれた扉へと向かった。その扉をノックすると、カチャっという音と共に手前に向かって開いた。そこにいたのは中川さんだった。
「おお、来たか。準備はできておる。演奏会が始まる前に行くんじゃ!」
その言葉に後押しされ、私は理由も分からぬまま円先輩たちに付いていく。
――準備はできておる。
中川さんはいったいなにを知っているのだろうか? それとも、それは円先輩との口裏合わせなのだろうか?
見覚えのある廊下に出た。白一色の廊下の左手には、いくつもの控室の扉が並んでいる。だが、どこにも人の影は無かった。
「一足遅かったか」
「ああ。……だがまだだ!」
そう円先輩は言うと、廊下の奥へと駆け出した。廊下の突き当たりはステージ袖へとつながっている。
「池田先輩!」
そこには池田先輩をはじめ、多くの正装に身を包んだ出演者たちがいた。もちろん池田先輩もタキシードを着ていた。そして、いまかいまかと待ち焦がれる会場の人々のざわめきが聞こえる。
私はステージ入り口とは反対の薄暗闇に、池田先輩のお母さんとお姉さんがいるのに気がついた。どうしてここに? 息子の晴れ姿でも見に来たのだろうか?
「やあ、環君。来てくれたんだね。どうしたんだい? そんなに汗だくになって――」
「三十秒で終わらせます」
その一言で、溌剌とした表情を浮かべていた池田先輩は口を噤んだ。その目線は、確かに円先輩を捉えている。
スッと、円先輩は息を吸った。
「池田先輩、まず、あそこにいるお二人、お母さんとお姉さんと言っていましたが、あれは嘘ですね?」
二人を指さしながら言ったその言葉は、私の予想を超えていた。
「彼女らは、察して誘拐犯といったところでしょうかね」
「おおっと、ま・ど・か~。その前に俺の調査結果を言わせてもらおうか」
しゃしゃり出てきた拓哉先輩は、まるで主役は俺だと言わんばかりに胸を張っている。そして、懐からB5版ほどの黄色のメモ帳を取り出し、その表紙をペラッと捲った。
「俺の調査によると、池田先輩、あなたには【家族】と呼べるのは、実のお姉さん、ただ一人ですね。あなたは幼少の頃に両親が交通事故で亡くなり、親類とも疎遠であったことから児童養護施設に預けられて育った。孤独な生活の中で育ったあなたにとって、唯一の娯楽が音楽だった。施設を退所したあなたは、アパートで独り暮らしをしながら、オルガンの研究に励んでいる」
「違う。俺には家族がいる。そこにいる母さんと姉さんがそうだ」
「違うね!」
私は驚いた。いつもへらへら愛想笑いをしている拓哉先輩にしては、断固とした意思をもった拒絶の言葉だったからだ。
「違う……と、いうと?」
飛鳥先輩は、どの出演者のドレスよりも華やかなドレスを揺らしながら拓哉先輩に問いかけた。
私の頭の中に童謡『赤とんぼ』の三番が流れた。あの歌詞は――
「そう、あなたのお姉さんは誘拐されたんだ。そこにいる二人にね!」
そう、拓哉先輩が断言するか否や、お母さんとお姉さんは踵を返して通路へと駆け出した。
「あ、待て!」
「誰が待つかよ! バーカ!」
そう、そばかすのお姉さんが言いながら、あっかんべーをしてくる。
「あんたの姉は、殺して川にでも捨ててやるからな!」
と、お母さんは走りながら言い放つ。
反応しきれていない我々。しかし、そんな私たちに代わって二人の前に立ちはだかったのは、誰であろう、中川さんだった。中川さんはその小柄で一見して華奢な風貌とは裏腹に、すれ違いざまに二人の首根っこを掴んだ。
「お主たち、その邪な心を神聖なる芸術の場に持ち込みよって! 成敗じゃ」
中川さんは二人を、一瞬だが無重力であるかのように持ち投げると、豪快に床に叩きつけた。二人は失神したようで、その場に力なく四肢を放り出していた。
私はこの老齢の管理者に畏怖の念を抱いた。
「姉さん……姉さんの居場所は……?」
池田先輩が狼狽する。あまりの展開の早さに付いていけていないのだ。
「大丈夫です、池田先輩。こんなこともあろうかと、こいつらの素性については調べ上げています。こいつらは巷で暗躍している女強盗犯。こいつらのアジトに、先輩のお姉さんは捕らえられているんです」
「どうして、そんなことまで分かるんです?」
私は率直な質問をぶつけた。なぜそんなことを円先輩は知っているのだろうか?
すると、円先輩は「フフン」と鼻を鳴らした。この人を見下す態度がよくない。私は改めて【ユグドラシル・円】と呼ぶことにした。
「なぜわかったか? そんなの簡単だ。尾行していたんだからな」
「尾行? 誰を?」
私の問いに、円先輩が指を立てて応える。
「池田先輩を尾行するこいつらをさ!」
床に伸びきっている二人はまだ意識を取り戻さない。
「尾行の尾行。まるで漫画みたいだが、それが功を奏した。こいつらのアジトは郊外のアパート。感付かれないように探ると、部屋の中には両手足を縛られた女性がいた。それが恐らく、池田先輩のお姉さんでしょう」
尾行の尾行。だから円先輩は電話連絡をしなかったのだ。もしも犯人たちに気付かれたら、一巻の終わりだからだ。
私たちは目の前の犯人たちを縛り上げ、駆け付けた警備員に突き出した。ここから先は警察の登場だろう。




