鍵盤楽器演奏特論~⑤~
「ふう、まだかな」
私は応接セットのテーブルの上にスマホを置き、スマホが鳴るのをいまかいまかと待っていた。だが、スマホはまるでバッテリーが切れたかのように微動だにしない。
「はあ、緊張するなぁ」
私は、うーんと、背伸びをした。定期的に連絡をくれるとは言っていたが、どのタイミングで連絡をくれるかは分からなかった。
気が滅入る気がした。
コンコンコン。扉がノックされた。
誰だろう?
「はい、どうぞ」
扉が開くと、そこにいたのは飛鳥先輩だった。今日の飛鳥先輩は、全身を蛍光イエローの服で統一していた。目が痛い。
「あら? 今日はミホちゃんだけなのね?」
飛鳥先輩はキョロキョロと部室内を見渡すと、不思議そうに問うてきた。
私は頷く。
「え、ええ。そうなんです。私はお留守番かな――」
「へぇー……そうそう、実はこの間の心理学概論のレポート、ミホちゃんのおかげで合格できたのよ! ありがとう!」
「ええ! 本当ですか? よかったですね」
私は飛鳥先輩と手を取り、その場で喜びのジャンプを繰り返した。飛鳥先輩だけでなく私自身、あのレポートで大丈夫かとハラハラドキドキだったのだ。だから飛鳥先輩の喜びは、私の喜びでもあった。
「そこで、今日は感謝の気持ちを込めて、ミホちゃんの代わりに私がおやつを作って来たの。食べましょう」
そう言うと、飛鳥先輩はテーブルの上に持っていた袋を置き、中から紙箱を取り出した。紙箱を開けると、ほんわかと甘い匂いが漂った。
「ホットケーキなんだけど、どうかな? 安直かな?」
「いいえ、とってもいいです。ステキです」
「ありがとう」
そう言い、飛鳥先輩はホットケーキを皿に取り分けた。当然だが、ホットケーキの熱はすでになく、ただの〈ケーキ〉なのだが……。
「いただきます」
私はモグッと、ホットケーキを一口食べた。これは――。
「……飛鳥先輩、これは?」
「そうそう、メイプルシロップの代わりに粉砂糖をかけたの。どうかな?」
残酷ではあるが、私の舌は正直だ。
「飛鳥先輩……しょっぱいです……」
飛鳥先輩が目を見開いた。
「ええ! そんな、まさか」
そして先輩もモグッと食べた。と、グフッとのどに詰まらせて吐き出しそうになる。何度か咳払いをする。
「ごめん、ミホちゃん。砂糖と塩を間違えた……失敗した」
テンションだだ下がりで謝られた私はどうしたらいいものだろうか。
「だ、大丈夫ですよ。これが円先輩じゃなくて、よかったですね。円先輩なら百叩きの刑でしたよ」
「ううう、そうね。私ドジだから、慣れないことをすると、全然できないのよね……。よし、次は失敗しないわよ! ミホちゃんも期待していて!」
「ハハハ……無理なく期待してまーす」
時計を見た。十九時になろうとしていた。スマホはまだ微動だにしない。円先輩と拓哉先輩は、いったいどこでなにをしているのだろう。無理をしていなければいいのだが。
「どうしたの、ミホちゃん? 怖い顔して」
「え? いえ、その、なんでもないです。ハハハ」
と、またコンコンコンと、扉がノックされた。円先輩か? 拓哉先輩か? いや、二人とも入室の際にノックをしているところを見たことがない。では、誰であろう?
「はい。どうぞ」
扉が開かれる。そこにいたのは種田先生だった。先生は、いつもの鮮やかに彩られた白衣を着ていた。
「おや? 大地字君と和田君だけかい? 円君に用があって来たんだがね」
「すみません。円先輩と拓哉先輩は、今日は来られないようです」
「ほ~。珍しい。彼が部を休むなんて……なにか、そう、雷でも落ちるんじゃないかね」
種田先生は「ホッホッホッホ」とフクロウのように笑った。きっと、円先輩の勤勉さからの意外性を表しているのだろう。
「私も意外に思っていたんですよね」
飛鳥先輩も種田先生に同意する。それほど調査のためとはいえ、異様な現状なのだ。
「彼がいないのならしょうがないな。すまんが大地字君、円君が戻ったら私の部屋まで来るよう、伝えてもらってもいいかな?」
「はい。分かりました」
と、種田先生はサッとホットケーキの端きれを手にし、口に放り込んだ。
「「あ――」」
私と飛鳥先輩の声がシンクロする。
瞬間的に、ゲホゲホと種田先生が咽返る。盗み食いなど罰当たりなことをするからだ、と私は思った。
「しょおおおおおおっぱ~い……」
「はい水です。飲んでください」
私はコップに入れた水を種田先生に渡した。「ども」と、先生は受け取り、グビッと呑み乾した。それほどしょっぱかったのだ。
「いや~、ビックリしたなぁ。大地字君がおやつ作りに失敗するなんてぇ」
私は慌てて手と首を振った。
「ち、違いますよ。今日のおやつは飛鳥先輩が作ってきてくださったんです」
「えぇ? 和田君がぁ?」
そう言うと、種田先生は身も心も縮んだ蛍光イエローの飛鳥先輩を見た。飛鳥先輩は、いまにも消え入りそうな声で「すみません……」と謝罪を述べた。
種田先生もバツが悪そうに、その癖毛を掻いた。
「いやいや、元はといえば僕が盗み食いをしたからね。和田君に非はないよ」
それでも和田先輩は謝罪を止めない。すると、「ふうん……」と先生は考えたようで、口を開いた。
「それじゃあ、こうしようじゃないか。一週間後に、またおやつを食べに来るよぉ。そのときに和田君のおやつを持ってきてくれるかな?」
「は、はい! 分かりました」
「じゃあ、そういうことで~」
そう言うと、種田先生は拓哉先輩と同じく風のように去って行った。
呆気にとられていた私たちだったが、クルリと、飛鳥先輩が振り向いた。
「どどどど、ど~しよう! 一週間後だって! なにを作ったらいい? そもそもどう作ればいい? 私に作れる? うわ~ん!」
和田先輩はパニック状態だ。それならば、なぜ「はい」と応えたのだろう。無理なら【無理】でいいと思うのだが、いまとなっては取り返しがつかない。来週に向けておやつを作るしかないのだ。
「ミホちゃん」
「は、はい?」
「お願い。力を貸して!」
私は、少しだけ迷った。
「もしかしたら心理学概論の単位、落とされちゃうかも……!」
「ははは、それはないんじゃないですか? もうレポートの評価でてますし」
「でも、正式にはまだ単位をもらってないわけだし……合否の操作は出来るでしょう?」
「そ、それは、そうですが……」
相手はあの種田先生だ。レポートの合否判定や成績の認定など、いとも簡単に操作できるだろう。
「教養科目は心理学概論で終わりなの。だから、どうしても落とす訳にはいかないの」
飛鳥先輩はいまにも泣きそうだ。
「わ、分かりました。協力しますから、泣かないでください」
私は根負けした。
「ほ、本当に! ありがとう、ミホちゃん」
歓喜に沸く飛鳥先輩と同じように、窓の外には月が煌々と照っていた。




