鍵盤楽器演奏特論~③~
コンコン。
次の日。部室の扉がノックされた。時刻は十六時だ。部室には私と円先輩がいた。拓哉先輩はバイトとかで、今日は来ないらしい。拓哉先輩がいないと、円先輩になんと声をかけてよいのか、少々困る。どうやら【でくのぼう拓哉】にも役割があったようだ。
「どうぞ」
円先輩が言うと、扉が開いた。入ってきたのは、誰であろう、依頼者の池田先輩だ。先輩は、例の盗聴器付きのグレーのコートを羽織っている。
と、池田先輩の背後に誰かがいた。見ると、二人の女性がいるようだった。
「円さん、ミホさん。姉さんが戻ってきました」
私たちが「え?」と驚いて反応せずにいると、池田先輩の後ろにいた二人のうちの一人が前に出た。顔に少しそばかすのある、長い髪を三つ編みにした女性だった。
「あの。弟がお世話になりました……」
「ケガもなく、見ての通りピンピンしています」
どうやらこの女性が池田先輩のお姉さんらしい。
「あの、そちらは?」
私は、まだ顔を見せていない三人目を指した。
「え? ああ、母です」
母と呼ばれた女性は、細面で身体も細く、どこか体調が悪いのか青白い顔をしていた。しかし、それとは反してエルメスやグッチなどの高級ブランド物で着飾っているのが傍目にも分かった。
「この度は博人がお世話になり、ありがとうございました」
池田先輩のお母さんが、深々と頭を下げながら言ってきた。
「いえ。それよりも良かったですね、お姉さんが戻ってきて」
「ええ……」
どこか腑に落ちないような返答だ。
「なにかありましたか?」
「い、いえ。なにもありません。そうだ、円さん、ミホさん。今度、音楽ホールで行われる大学院音楽学部の演奏発表会に来ていただけませんか? せめてものお礼です」
そう言い、池田先輩は四枚のチケットを渡してきた。
四枚?
「円さんとミホさん。それから、拓哉さんと飛鳥さんにです」
池田先輩が発した言葉に、ああ、そういうことか。と、思った。
円先輩が一歩前に出た。
「ありがとうございます。ぜひ行かせていただきます」
「それでは、当日、音楽ホールでお待ちしています」
そう言うと、池田先輩たちは立ち去った。
扉が閉まると同時に、円先輩の表情が固くなったのが、雰囲気で分かった。芸犯に入部して半年。円先輩の一挙手一投足が手に取るようにわかるぐらいには、私の目も肥えてきていた。
「……円先輩、どうかしましたか?」
すると、円先輩は、なにかブツブツ唱えながら、部室の中で円を描くように、ゆっくりと歩きはじめた。
それから数秒後、「ふむ」と唱えると歩みを止め、円先輩の指定席でもある窓辺のスタイリッシュな椅子に腰を据えた。私は一人、その動きを見届けた。
ブラインドの上げられた窓からは、いまは燦々と夕陽が部室の中に差し込んでいた。だが、その夕陽が強ければ強いほど、暗雲とした影もまた、色を濃くしていた。
私は円先輩に声をかけられずにいた。なにか言葉を発した途端、この世界が陰に呑まれ、崩壊してしまうのではないかという、恐ろしい錯覚に捕らわれはじめていた。
それから、私は静かに心の中で三十秒数えた。三十秒後、私は円先輩に声をかけることにしたからだ。
一、二、三……
静かだった。まるで、窓際に座る円先輩は、本当はもう帰ってしまっていて、そこにあるのは先輩の空蝉なのではないか。
……十五、十六、十七……
どこから出てきたのか、汗が顎の輪郭を伝って床に落ちた。
胸がドクドクと脈打つのも感じた。気が高ぶっているのを自覚した。
……二十一、二十二、二十三……
私は意を決した。
……二十八、二十九、三十!
「あの……!」
そのとき扉が開いた。
「まーどかー!」
疾風のごとく飛び込んできたのは、誰であろう拓哉先輩だった。
***
「ウワォ! 今日は【でですけクッキー】かい。このココアの部分がたまらなく美味しいんだよね!」
そう急き立てる拓哉先輩は、今日は季節外れではないかと思ってしまう紫色のTシャツ姿だった。表には、これも芸術家の卵の証しなのか、一言では表せないキャラクターが描かれていた。
「はいはい、食べる前に手ぐらい洗ってくださいよ」
「ワオ! そうだね。食中毒になったら――クワバラクワバラ」
「バイトはどうしたんですか?」
「それがねえ、シフトの変更が急にあって、今日はお休みになったんだよ。で、さっきまで図書館で卒論の資料集めしていたんだ」
「そうだったんですか。お疲れ様です」
手を洗うためキッチンコーナーへと向かう拓哉先輩の背中を目で追う。と、いつの間にか円先輩の椅子の向きが変わり、部室の内側を向いていた。
円先輩は呟く。
「十五で姐やは 嫁に行き お里の便りも 絶え果てた」
それは『赤とんぼ』の第三番だった。池田先輩の事件は、この歌とともにはじまった。
「おい、拓哉」
円先輩の目には光が宿っていた。その光が物語っている。〝この事件は終わっていない″と。
「クッキー食べてないで働け。お前の力が活かされるぞ」
「お! 俺の出番でかい? なんなりとお申しつけくださいまし、王様」
拓哉先輩は、明らかに演技であるかのように円先輩に頭を下げた。
「お前にして欲しいのは聞き込みだ。お前の人脈で、池田先輩のことを調べ尽くせ」
「え? どうしてですか、円先輩。なんで池田先輩のことを調べるのですか?」
すると、円先輩は私に向き直り、右手の人差し指をピンッと立てた。
「この事件がまだ終わっていないことは、お前もうすうす感づいているだろう」
私は頷いた。
「だからこそ、事件の裏に隠された謎を解き明かすときなんだ。そして、鍵となるのは、おそらく依頼者である池田先輩だ。しかし、どうだ。俺たちは依頼者である池田先輩について、大学院生でパイプオルガンを弾いているということぐらいしか知らない。圧倒的に情報が欠けている。だからこそ、その〝情報の欠けている状態″を補完する必要がある。いいな、拓哉」
「イエッサー!」
拓哉先輩は、演技と分かりつつも、勢いよく敬礼して見せた。
踵を返し、部室を出ていく拓哉先輩を見送ったあと、私と円先輩は応接セットに腰を据えた。と、今度は飛鳥先輩が種田先生とともに訪れた。どうやら飛鳥先輩が種田先生の講義のレポートが書けず、種田先生の部屋に直談判に訪れたというのだ。そして、困った種田先生が、とりあえず落ち着かせるために、いまこうやって来たというのだ。
「……飛鳥先輩、今度はなんの科目ですか?」
「えっと、その……教養科目の心理学概論、です」
そう答える飛鳥先輩の隣で、種田先生が溜息をつく。
「和田君はこの四年間、ずっと心理学概論を受け続けていてね。私としてもなんとかして合格して欲しくて、再試験のレポートを科したんだ。でもね……」
見ると、飛鳥先輩の目から涙がこぼれていた。〝落ちこぼれ女子″という肩書は辛辣で、私としても避けて通ってほしい思いに駆られた。
「で、僕がレポート作成に関わることはできないから、すまないが円君と大地字君に手助けをしてもらえないかと思ってね。頼めるかな?」
「お願いします!」
飛鳥先輩は、嗚咽を漏らしながら頭を下げた。
時計を見ると十七時四十分を過ぎたところだ。私たちとしては、拓哉先輩の情報収集が終らない限りは、ひとまずやることはない。
「いいですよ、種田先生。飛鳥先輩、一緒にレポート作りましょう」
「ううう、ミホちゃ~ん」
「そうだ、種田先生、おやつ食べていきませんか? 【でですけクッキー】を焼いて来たんです」
「そうかい? それじゃ、お言葉に甘えて」
それから一時間ほどだろうか。私と飛鳥先輩はレポート作りに、円先輩と種田先生は次のゼミの話に集中した。
飛鳥先輩は心理学概論の指定のテキストを持っていたが、線を書いたり折り目を付けたり曲げたりせず、新品かと見間違えるほど、保存状態は良かった。
――だって線書いたら中古で高く売れないでしょ?
私は溜息を吐いた。中古で高く売れても単位を落としたら元も子もない。だいたい、四年生で留年ギリギリなのだから、危機意識をもっと持ってもらいたい……私は心の内でツッコミを入れた。だが、このテキストは飛鳥先輩のものだ。どう扱うかは、飛鳥先輩が決める。
「ここ、分かりますか?」
「う~ん……難しい」
大袈裟に両腕を放り投げる飛鳥先輩に、私は溜息を吐く。
「しょうがないです、コピーしましょう。食堂にコピー機があったはずです」
私は円先輩たちに断りを入れ、飛鳥先輩の手を引いて食堂へと向かった。
時刻は十九時前。食堂にはまだちらほらと学生たちが屯していた。補習扱いになった学生たちのだ。彼らの目はテキストやパソコンと睨めっこ状態だ。
コピー機は二台あった。白黒コピー一枚につき十円。このハイコストにどれだけの学生が気付いているだろう。
「それじゃ、ここと、ここと、ここと、ここのページを全部A4でコピーしてください」
「はーい」
飛鳥先輩がコピーを取りはじめた。と――
「ねえねえ、トモコちゃーん」
この尻の軽そうな声は……。そう思い振り返ると、食堂の一角にガヤガヤと学生たちが集まっていた。そして、その中心で一大ハーレムを築いているのは、誰であろう拓哉先輩だ。
「ヒトミちゃ~ん、音楽に興味ある?」
ヒトミと呼ばれた女子は紙コップ片手に「フフフ」と息を漏らした。
「音楽? 聴くよ。ジャニーズとかAKBとか」
「違うよ。クラシックさ。特にパイプオルガンなんてどうだい?」
「渋い~。なに? 拓哉君ってそっち派?」
「ノンノン。訊いただけさ。あ、マチエちゃんは音楽聴いたりする?」
拓哉先輩はどんどん目に入った女の子に質問を投げかけていく。
――これが円先輩の言う拓哉先輩の調査なのか?
そう思っていると、チャリチャリチャリと小銭の落ちる音がした。
「コピー終ったよー」
「え、あ、飛鳥先輩、それじゃあ部室に戻りましょう」
私たちは、背後で「モモエちゃんはどう?」という質問を投げかけている拓哉先輩に気付かれないよう食堂を出た。




