鍵盤楽器演奏特論~①~
そのとき、私こと大地字ミホは動くことができなかった。私がいまいるのは、大学附属音楽ホール。定員二〇〇〇席の満員の中、一階席の目立たない席に座っていた。
ステージから鳴り響く音階。どこか懐かしいメロディー。そこにあるのは、ステージの天井を突き抜けているのではないかと見間違うほどに巨大なパイプオルガンだった。そして、その幾段にもなる鍵盤の前に座る一人の青年がいた。
一週間前のこと。
私はいつものように右手に先輩たちのために作ったおやつが入った紙箱を引っ提げて部室へと向かっていた。今日はお手製のドライフルーツケーキだ。
私はふと紙箱の中身のことを考えた。ケーキは八つに切り分けられている。切らずにホールで持ってきてもよかったのだが、そうなるとホール用の箱が必要だ。それに、持ち歩くのにも「傾いちゃうんじゃないだろうか」とか「潰れてしまうんじゃないか」などと細心の注意を払わなければならない。だが、自分でいうのもなんだが、私はそれほど繊細にはできてはいない。もとより、先輩二人も同じようなものなのだが。
私はいま〈芸犯〉こと〈芸術犯罪解決サークル〉の一員として給仕……ではなく、先輩たちに遅れを取らないよう勉強をする毎日である。とはいえ、先輩たちからは「普通に講義を受けていれば、知識は身についてくる」といわれる始末。
……私、当てにされていないのかな?
そんな、うやむやな気持ちを抱きつつ、部室の扉を開けた。
「ミッホちゃーん!」
ウサギのように飛び跳ねているのは芸犯に所属する芸術心理学科四年の石井拓哉先輩だ。拓哉先輩は、今日もTシャツにジーパンというラフな格好だ。華奢な身体つきだが、一八五センチの高身長と少しのイケメン顔であることを鑑みれば、少しはちゃらちゃらして夜遊びがうまそうな雰囲気を感じてしまうのだが、本当の拓哉先輩は大真面目。一度、事件が起こると彼が築き上げた人脈を駆使して情報を集める。見た目とは裏腹に努力家であり策略家でもあるのだ。
その拓哉先輩が私の持つ紙箱に視点を当てた。
「なになに? 今日はケーキなの? やったね!」
拓哉先輩はより跳躍力を上げて跳ねた。両手はガッツポーズだ。彼の好物はケーキだったと、遅れながら思い出した。
「はい。今日はドライフルーツケーキです。お口に合えばいいんですが……」
「大丈夫、大丈夫。ミホちゃんのお菓子作りの腕は確かだから。だろ? 円。お前もこっちに来いよ」
私は拓哉先輩が声を投げかけた方を見た。窓辺にある、この部室には不釣り合いなほどスタイリッシュな椅子があった。そして、その椅子に腰かけている人物。円先輩だ。
芸犯の部長であり、芸術心理学科四年の環円先輩は、ハードカバーの単行本を読んでいたようだが、その本をパタンと閉じ、立ち上がった。
――大きい。
毎日のように会っているはずなのだが、私は改めて円先輩の身体の大きさに圧倒された。一九二センチの身長に、日々スポーツジムで鍛え上げている身体は、そこら辺の軟弱な大人では太刀打ちできないほどのオーラを纏っていた。だが、単に私の身長が一六〇センチと小柄であるがため、そう見えるのかもしれないのだが……。
しかし、だ。
「円先輩も食べますか?」
「うむ」
そう、返事とも唸り声とも取られぬ声が聞こえた。
もうちょっと愛想よくできないものか、そう、いつも思う。こんな態度ばかり取っていたら、ボタンのかけ間違いが起きそうである。
私が棚から皿とフォークを取り出しているうちに、応接セットのテーブルに置いていた紙箱から拓哉先輩が、ちゃっかり、ケーキを取り出す。
「おおお! スゴイ! このなんともいえないこの香りがたまんない! だろ、円もそう思うよな、なぁ」
「ああ。香りで分かる。今回のケーキは直球できたな」
「直球? どういうことだ」
すると、円先輩は拓哉先輩の隣に腰を下ろした。それから、右の人差し指を拓哉先輩の顔の前でピンと立てた。
「ドライフルーツケーキとしての不純物が無いってことさ。ふむ……バニラエッセンスではなく、リキュールが使われているな」
私は皿を並べた。
「ただのリキュールではないですよ。なんと、一本一〇〇〇円もするナリタ屋の高級リキュールなんです! 太っ腹大サービスですよ!」
拓哉先輩も円先輩も、一瞬、反応が遅れたように感じた。
「……そ、そんなに気張らなくても……なぁ、円」
「あ、ああ。ちょっと食べづらいかな……」
あれ? いつもは強気な先輩たちが怯んでる。高級路線作戦は失敗かな?
「食べたくなければ別にいいですよ。私と種田先生とで食べますから」
私のセリフを聞くと、先輩二人の表情に衝撃が走った。
「そうだ。種田先生のこと忘れてた。ヤバい、ヤバい! 呼んでくる」
拓哉先輩がウサギらしく素早い身のこなしで部室から出ていった。
残されたのは私と円先輩。私は、ひとまず皿にケーキをよそった。と、「紅茶でも飲むか?」と言い、円先輩が珍しく台所へと向かった。
「珍し――」
私はボソッと呟く寸前で言葉を呑んだ。いつもは岩が如く動くことがない円先輩が、なにを思っての行動なのだろうか。種田先生が来るからだろうか? そういえば、円先輩は種田先生のゼミに所属していたはずだ。
五分ほど経って、拓哉先輩が種田先生を連れて帰ってきた。それから、なぜか飛鳥先輩も一緒だ。訊くと、途中で会ったから連れてきたという。
和田飛鳥先輩は、以前、【絵画Ⅰ】という授業で私の絵を模造し、本物と偽って提出した犯人である。しかし、私と和解した後は、公私ともども良好な関係を築いている。
「あの、ミホちゃんのケーキがあるって聞いて、来ちゃった。けど、お邪魔じゃないかしら……?」
「大丈夫ですよ。沢山ありますから。あ、種田先生、ソファにどうぞ」
私は種田先生を促した。
種田先生は、この盛岩総合芸術大学芸術心理学科の教授である。いつもハチャメチャな絵具で塗りたぐられた白衣を身に纏った初老の男性で、詳しくは知らないが、この大学において絶対的な権力を誇っている。つまり、この大学では種田先生の名を出せば、閲覧禁止図書の貸し出しだけでなく、気に入らない学生や教員の首切りなども可能となる。恐ろしきことこの上ない。
種田先生と、ついでの飛鳥先輩がソファに座る。そこへ、タイミングを見計らったかのように、円先輩が紅茶の入ったティーポットとカップを人数分運んできた。
「どうぞ」
「おお、円君。君が紅茶を淹れるなんてぇ、なにか弱みでも握られているのかい?」
「……いえ、自主的にやっているつもりです」
私は笑いだしてしまった。種田先生から見ても、円先輩のこの行動は奇異に見えたらしい。
「円先輩、紅茶を淹れていただいて、ありがとうございます。さあ、ケーキを食べましょう」
私はみんなに、ケーキを乗せた皿を手渡した。




