博物館資料保存論~④~
次の日。十六時の赤谷美術館。
私たち三人は展示室ではなく、その出口に立っていた。展示室はまるで蛇行する蛇のような構造であり、入り口と出口が別々にある。
待っていると、展示室から「キャアアアアアアアアア!」というけたたましい叫び声が聞こえ、しばらくして猛ダッシュしたマリアちゃんとローラさんが走り出てきた。
ローラさんがマリアちゃんに追いつき、その細い腕を掴む。
「マ、マリア。いつものことだけど、走らないでよね……ハアハア」
どうやら、またしてもマリアちゃんが『愛』を観て叫んでいたようだ。
そこへ円先輩が近づく。
「ローラさん、マリアさん、こんにちは」
話しかけられると思ってもみなかったのだろう。ローラさんはビクッと身体を震わせ、声をかけた円先輩に振り向いた。顔見知りだと気づいた彼女の安堵の表情が、私は忘れられない。
「おかーさん、オレンジジュース」
マリアちゃんは、お母さんの表情の変化や私たちの存在にも気がついていないようだった。
「ええ、そうね。オレンジジュース飲もっか!」
そう言うと、ローラさんは喫茶店に移動する。それに倣い、我々も喫茶店へとついて行く。
私たちは、ローラさんたちが座っている隣のテーブルに腰を据えた。
注文を取りに来たウェイトレスにローラさんが「オレンジジュースをひとつ」と伝えた。「それと、大人はコーヒーで」と円先輩が付け加えて注文した。
数分後、ウェイターがオレンジジュースの入ったグラスとストローを持ってマリアちゃんの前に置いた。それからホットコーヒーが私たちの前に置かれた。
「ごゆっくりどうぞ」
ウェイトレスが離れていく。それを待っていたかのように、ローラさんが少し小さめの声で尋ねてきた。
「例の件、どうなりました?」
まるで、探偵に依頼したかのようだ。
だが、確かにそうだ。
芸犯は大学の一部活だ。だが、その実は大学内で巻き起こる事件や謎を解き明かすことを主活動としている、探偵まがいの部活であると間違えてもおかしくないのである。かの、ベイカーストリートイレギュラーズのようだ、と私は最近読んだ小説のキャラクターたちを当てはめてみた。
「目下、調査中です」
円先輩がそう伝えると、ローラさんは、さらに小さく「そうですか」と呟いた。
「実は今日来ましたのは、ローラさんにお尋ねしたいことがありまして」
「私に?」
目を見開いたローラさんに、円先輩が静かに、小さく頷いた。
「いまからお訊きする質問は私的なものになるかもしれません。ですので、答えたくなければ、答えなくてよろしいです。いいですか?」
ローラさんはジュースをズズズッと啜る娘を見てから円先輩に「どうぞ」と伝えた。
「では、改めてお訊きします。マリアさんが泣き叫ぶようになったのは、この美術館の展示会で展示されるようなってからなのですね?」
ローラさんが一つ溜め息をついた。困っているような、戸惑っているような、悲しんでいるような、あるいはそれらすべてを混ぜ込んでいるかのような、そんな表情を見せた。
「え、ええ……」
ローラさんがそう応え、円先輩はパチンと指を鳴らした。なにかを思い出したようだ。
「マリアさんについてです。マリアさんは自閉症であるとの解説がありましたが、本当ですか?」
すると、ローラさんの表情が固まり、一度ゴクリと唾を呑みこんだ。
「はい。もともとマリアは人とのコミュニケーションが不得意でした。なにをするのにもひとり。マリア自身も、それがあたり前のことが如く生活していましたし。私もはじめての子だったので「ああ、こういうものかな」と楽観視していたんです。でも、一歳、二歳、三歳と、歳を重ねるほどにマリアの行動が他の子とは違うことが気になりだしたんです。そして、三歳のときに重度の自閉症と診断されたんです」
「重度の自閉症ということは、知的障害も併せもっているのですか?」
自閉症と知的障害は密接に関係している。重度ともなれば尚更だ。
「……いえ」
ローラさんが口を固く結び、断じた。
「マリアの場合、幸い知的には問題が無いとの検査結果は出ています。ですから、障害名は〈高機能自閉症〉となっています。ですが、自閉症が重度なので、行動や考え方の偏り、外部からの刺激への反応が苦手なんです。あ、あと協調性もですね」
ローラさんが視線を窓へと向けた。窓の外は美術館らしく、青い芝生が植えられた開放的な広場となっていた。だが、その窓ガラスには、いつの間に付着したのか、おたまじゃくしのような、いくつもの滴がくっついていた。
「そういえば、マリアさんのお父さんはどんな方なんですか?」
私は、ふと疑問に思ったことを訊いた、つもりだった。私の言葉を聞いたローラさんは目に涙を溜めた。
「マリアのお父さんは、いません。あの子が……マリアが自閉症と診断されると、あの子のお父さんは世間体を気にして、書置きを残して出ていきました」
しまった。率直にそう思った。触れてはいけない琴線だったのだ。
コツッと円先輩に小突かれた。小突かれなくても十分にその失態はわかっていた。
「ローラさん。ローラさんはどこのお国の出身なんですか?」
私は話の方向を、むりくり変えようとした。
「私はイタリアの出身です。ですが、もう二十年は帰っていません。毎日、仕事、仕事……それでも、その日暮らすので精いっぱいです。とてもじゃないですが、イタリアに帰るお金は工面できません」
ポロポロと、ローラさんの両目から涙が零れ落ちた。彼女はその涙をピンクのハンカチで拭う。
私の作戦は失敗だった。
私は再び円先輩に小突かれた。
***
今日は土曜日。そして、あたり前ではあるが明日は日曜日だ。当然のごとく、芸犯の活動も休みとなる。
じれったかった。目下、捜査中の事件があるのに休みだなんて。まるで犯人の居場所を突き止めたのに「お休みです」ということを理由に逮捕へ向かえない刑事のようだ、と表現すればよいのだろうか。とにかく、もどかしいのである。
私はよくよく考えた。土日は博物館も美術館もやっている。変わって月曜日は休館日にしているところが多い。
つまり、月曜日には調査ができない可能性が高い。
私はトートバックを手にした。
今日は私ひとりの自主調査としよう。先輩たちは口にしないが、ただでさえ足を引っ張っている可能性が高いのだ。それに芸犯のメンバーとして恥じない調査力は備え付けていなければならない。いまがそのときだと思う。
ひとまず、赤谷美術館へと行くことにした。すべての答えは赤谷美術館にあるような気がするからだ。なぜなら、円先輩の視線の鋭さが、いつもとは異なっていた。まるで日本刀を突きつけられているかのような鋭さがあったのだ。
赤谷美術館は、土曜日ともあり、そこそこ混み合っていた。
「学生ひとり」
「学生証の提示をお願いします」
私は財布から学生証を取り出し、受付のお姉さまに見せた。
お姉さまは学生証を確認すると、「六百円です」と言い、私は六百円を支払い、チケットを手に入れた。
展示室は、相変わらず薄暗かった。作品や解説には個別に小さなライトが点けられているので、観るのには苦労は無かったが、気をつけないと、他の人とぶつかってしまうのではないかと思うほどには、暗かった。
「あった」
そこに『愛』はあった。
私は部屋の片隅の暗がりに身を顰めた。『愛』を観る人の反応は様々だった。
ジッと真剣に観る人、「ふーん」と軽く受け流す人、気づかない人。しかし、そのどの人もが『愛』の意図を捉え損ねているように感じた。
……私も、まだ真意は掴めていないのだが。
私は他の作品も観て回った。絵画、彫刻、工芸、工作、書道、ポスター、グラフィックデザイン……いろいろとあった。障害を抱えた人の作品は、その表現方法を限定しないのであろうか。そのチャレンジシップに感嘆の意を感じた。と、思ったが、水彩画の隣にあったもうひとつの水彩画も同じ人物の作品だった。どうやら、この人は水彩画を専門にしているようだった。芸術家が絵画や彫塑や版画などの専門をもつのと同じなんだぁと、親近感を覚えた。
私はチラリと壁の隅を見た。あそこにも、ここにも、あっちにも……監視カメラが設置されていた。まるでレンズが光ったかのようにも見えた。なにかあれば、すぐに見つかりそうだ。
他にも作品があるので、いろいろと観て回る。だが、あっという間に出口に出てしまった。
特になんの成果も得られなかった私は、少し考えた。
アール・ブリュット展は企画展だ。この他に赤谷美術館には常設展があるはずである。
私は常設展のある二階へと足を運ぶ。が、途中で私は足を止めた。いや、止めないといけなかったのだ。なぜなら、通路の真ん中に立て札が置かれていたのだから。
《常設展示室は改装工事中》
端的にそう書かれていた。つまりは、観られない、ということだ。
私は少し首をもたげた。観られないのであれば仕方がない。むりくり中に入るのも出来ないのだから、ここにいてもしょうがない――と、自分に言い聞かせて、その場を離れる。
受付のあるホールへと戻ってきた。右手に受付けと企画展示室。左に喫茶店と売店。正面に出入り口。
私はどうしようかと悩んだが、出入り口へと向かった。ここにいても、もう新しい情報は得られないような気がしたからだ。
「あら、ミホさん?」
そう、不意に呼びかけてきたのは、誰であろう宮地さんだった。彼女は今日もタイトなスーツにヒールの低い靴、それに薄い化粧で身を固めていた。
「いらしていたんですね。調査の方はどうですか?」
私は頭を振った。
「いえ、少しずつ進んではいますが、まだ……」
「そうですか……」
吉報が聞けず、宮地さんも少し残念そうだ。
それから、私は気になったことを訊いた。
「あの、常設展を観ようと思ったんですが、なんだか行けなくて」
目の前の彼女は「ああ」と呟くと、少し表情を曇らせた。しかし、それもすぐに消え去り、彼女の顔には再び薄い笑顔が戻っている。
「実は次の常設展のセッティングに手間取っておりまして。開室には、まだ時間がかかりそうなんです」
嘘だと、直観で思った。なぜならば、彼女の目が私を見ていないからだ。宙を彷徨った後、ようやく、その双眸が私に向いた。
「そうだったんですか。ちなみに、赤谷美術館の常設展では、どんなものを展示しているんですか?」
すると、宮地さんは得意げな表情を見せた。
「当館は、油絵画家であった赤谷渋一郎の作品を中心に、二百二十点余りを所蔵しています。常設展では、定期的に展示品を替え、お客様に観てもらっています」
「そうなんですね。観られないのが残念です」
私は素直に応えた。本当に残念に思ったのだから、嘘ではない。
「来月には工事も終わると思いますので、そのときになったら、もう一度来てください」
そう言い、宮地さんは私を見送った。




