絵画Ⅰ~②~
拓哉先輩の聞き込み内容によると、由里と同じ証言がいくつかあった。多くは一九時頃に目撃され、教室から出てくるその人物を目撃した人もいた。黒の上下、黒っぽいリュックとキャンバスバックを持っていた。男性か女性かは不明だという。
部室に戻った私はメモ帳に犯人の特徴を書き留めた。犯行時間は、目撃証言から一九時から二一時頃だと分かった。私はいつも一六時から一時間ほど制作しているので、円先輩の推理は見事に当たっていることになる。
犯行時間の理由については、先ほど円先輩が解き明かしてくれた。しかし……
私はメモを見ながら考えを巡らせた。
「犯行時間については分かったな」
円先輩の言葉に私は頷いた。
「しかし、ここで疑問が残る。犯人は、どうやっておまえの絵よりも早く自分の絵を完成させることができたのか、だ」
「絵の完成……?」
「そうだ。今回の事件では、その点を崩すことが最大のポイントとなる」
反芻していると、拓哉先輩がお茶を淹れなおしてくれた。一礼してお茶を一口飲む。
「あれ? さっきとお茶の種類変えました?」
拓哉先輩がにこやかに振り向く。
「お! 分かるね、ミホちゃん。そう、さっきは煎茶で、これは番茶。円は全く分からないのに。やっぱり飲み慣れている人は分かるんだね」
拓哉先輩がケラケラ笑う。円先輩はバツが悪そうにそっぽを向いた。
それから私たちは、お茶を飲みながら少し話をした。
「そういえば、《芸犯》には他に部員はいないんですか?」
「今は俺と円の二人だけ。以前はもっといたんだけど、こいつが冷たくあしらっちゃうから、みんないなくなっちゃったんだ」
そう言いながら、拓哉先輩は円先輩を肘でつついた。
「別に冷たくなんかしていない」
私は興味が湧いたが、あまり詮索しないでおこうと思った。が……
「いいーよなー、モテる人は。ミホちゃん聞いて。これまでに入部した人はね、みーんな、円目当てだったんだよ」
「そんなわけないだろ。だいたい調査とか言いながら遊園地に連れ出すのが悪い」
円先輩はそう言うと、お茶をすすった。
「ははは……」
コン、コン、コン。
ノックされ、先ほどの種田教授が入ってきた。
「円くん、準備できたよー」
「分かりました」
円先輩は立ち上がった。
*
美術演習室のイーゼルには、レモンとリンゴとアボカドが描かれたキャンバスが立てかけられていた。
私は、はじめ自分の絵かと思った。
だが、何かが違う……。何かが……。
「これが、吉野先生から預かった絵ですよぉ」
種田教授が独特な伸びが入った口調で説明した。その教授は、私たちが絵を見ているのを教室の隅で見ている。
円先輩は、私の絵を見た時と同じように遠くから絵を見た後、今度は近くに寄って絵を確認した。そして、
「よし」
と言うと、教授の下へと寄っていった。
円先輩は、早くも何かを掴んだらしい。
私も何か犯人の手掛かりを探そうと絵を凝視したが、徒労に終わった。
拓哉先輩も同じようだった。
ふと見ると、いつの間にか教室の隅にいた教授と先輩がいなくなっていた。
二人は五分ほどして、戻ってきた。
「あの、どこへ行っていたんですか?」
「この事件を解決しようと思ってな」
*
美術演習室には私、拓哉先輩、種田教授、それから吉野さくら准教授、そして円先輩と彼の横に私の絵と偽物の絵を立てかけたイーゼルが並べられた。
吉野先生は、爪を噛みイライラしていた。しかし、種田教授の手前、ヒステリックになるのをどうにか堪えているようにも見える。
一八時を知らせるメロディが構内に流れた。
「さて、時間になったのではじめましょう。今回の絵画偽装騒動の真相を」
円先輩の声が教室に響いた。
「今回の事件は、偽物が本物として吉野先生に提出されたことから問題とされました。しかし、疑問が残ります。偽物を作った犯人は、どうやって制作途中のミホさんの本物よりも先に絵を完成させ、提出することができたのでしょう」
円先輩の言っていた、この事件の最大のポイントだ。私の絵は昨日まで未完成だったのに、どうやって犯人はコピーである偽物を先に完成させたのだろう。
拓哉先輩も分からないようで、首をかしげている。
「答えは実に簡単です。本物よりも早く完成すればいいだけの話です」
「ちょっと待って」
吉野先生が声を上げた。
「油絵の具は乾くのに二日から五日はかかるわ。天気や湿度などの環境によって変わるけれど、本物よりも早く乾かすことは難しいでしょう。大地字さんの絵を本物とすると、二つの絵の乾燥時間に矛盾が生まれるわ。これをどう説明するの?」
吉野先生がまくし立てた。しかし、円先輩は笑顔である。
「確かにそうです。もし急速に乾かそうとすれば、絵の具にひび割れができてしまいます。しかし、犯人にとって、そんなことは関係なかったのです」
私や拓哉先輩、それに質問をした吉野先生も首をかしげた。
「では、吉野先生、ここにある二枚の絵の最大の違いに、お気付きになりませんか?」
円先輩が尋ねた。
「同じ絵のようだけど?」
「よく見てください」
吉野先生が絵を交互に見比べる。と、短く息を吸い込むと、偽物の絵に飛びついた。
「こ、これって!」
私と拓哉先輩は何が起こったのか分からず困惑したが、種田教授は変わらずおっとりとした表情のままだった。
「そう、実は偽物の絵に使われている顔料は油絵の具ではありません。アクリル絵の具です」
「え? アクリル?」
私は反射的に繰り返してしまった。
「でも、油の臭いや光沢も……」
「おそらく揮発性のある灯油などをアクリル絵の具に混ぜて、光沢や油絵の具に混ぜるテレビン油と似た臭いを出したのでしょう。しかし、そうまでして犯人がアクリル絵の具を使用した最大の理由は、その乾きやすさです」
円先輩は歩き出した。
「先ほど吉野先生が言った通り、通常、油絵の具が固まるには二日から五日ほどかかり、その間は絵画の移動はほとんどできません。ですが、アクリル絵の具は数時間ほどで表面を乾かすことができます。小型の扇風機などで風を送れば、もっと早いでしょう。犯人にとって、このアクリル絵の具の特性は、今回の犯行に絶対必要だったのです」
そう言うと、円先輩は私に向き直った。
「ミホさんは、この美術演習室を調べに来た時『自分と同じ構図の絵なんて見てない』と言いました。ということは、犯人はこの教室以外のところで絵を保管していたのです。それはミホさんや他の人に気付かれないようにするためと考えられます」
円先輩は拓哉先輩に向き直った。
「拓哉が聞き込みを行ったところ、この教室を出入りした怪しい人は、キャンパスバックを持っていたそうです。おそらく、そのバックに描きかけの絵を入れて持ち歩いていたのでしょう」
拓哉先輩は自分の情報が活かされて嬉しそうだ。
そのとき円先輩は、ちらっとドアを見た。
「このように、犯人はアクリル絵の具を使い、ミホさんが油絵の具で描いた絵を描き写し、その場ですぐに乾かし、持ち帰ってはまた持ってきて描き写すという作業を繰り返していたのです」
円先輩の言葉は、ありありと犯人の行動を明かしていく。
「そこで、吉野先生にお願いがあります」
不意に声をかけられた吉野先生は体を大きく震わせた。
「な、何よ」
「犯人と思われる学生は、すでに分かっています。ですが、ここから先、我々が犯人にアプローチをするには学生部を通さなければなりません。しかし、それでは今回の件が広く知られる可能性が高く、そうなれば退学になるかもしれません」
その場が静まりかえる。
「ただ、私たちはそこまでの処分は求めていません。求めているのは、ミホさんの作品が正規の作品として認められ、吉野先生に受け取ってもらえることです。ですので、先生にお願いです」
二人の目が合った。
「先生から、この問題の作品を提出した学生に連絡を取ってもらえないでしょうか。もちろん秘密裏に」
「なんで、私が」
その時、円先輩の目が光った。
「今回の事件は、そもそも絵具の違いに気付いていれば、ここまで拡大しなかったと思われます。まさか『気付かなかった』なんて言わないですよね……?」
吉野先生は息を呑むと、先輩を見たまま一歩後ずさった。
その時だった。ガラッとドアが開き、上下黒の服装の人物が入ってきたのは。その人物はその場に崩れ、顔を押さえ泣きだした。
「来てくれましたね」
円先輩はその人物を見下ろした。
「和田飛鳥さん」