美術解剖学~②~
「先輩、まだですか?」
声を掛ける。
「なぁ、拓哉はそこにいるか?」
「え? いえ、いませんが」
「わかった」
私は不意に不安になった。なにかあったのだろうか?
「先輩、なにかトラブルですか? 大丈夫ですか?
そっとカーテンに近づく。
「いや、大丈夫だ。って、お前なんで近くにいるんだ!」
「いえ、トラぶってたら大変かなっと。本当に大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ。だから近くに来るな!」
そのときドアが開いた。
「ま~どか~! って、おわー! なんじゃこりゃぁ!」
入ってきたのは拓哉先輩だ。部室のあまりの変貌に驚いている。正直言ってうるさい。と、続けて種田先生も入ってきた。
「た、た、拓哉ー、助けてくれー!」
拓哉先輩はわけがわからないまま、声のするカーテンの向こうへと入っていく。
「あっはっはっはっはっは!」
拓哉先輩の笑い声。
「笑うな!」
「痛っ!」
なにかがゴチン、とぶつかる音がした。
拓哉先輩が出てくる。頭を左手で押さえていた。
「あのね、ミホちゃんたち、あの水着は小さいよ。特に円は体が大きいから一回りサイズ大きいのようしないとね。にしても、あっはっはっはっは」
拓哉先輩の笑いは止まらない。
「その、水着はさ、円の尊厳のためにも、今回NGでお願いします」
拓哉先輩は体の前で大きなバツ印を作った。
なにかとんでもないことがカーテンの中で起きたのだろう。私たちはそれだけを感じ取った。
そうこうしていると、カーテンの隙間から円先輩が顔を出した。
「準備OKですか?」
「その、水着は無理だからパンツにしたんだが、それでもいいか?」
「いいです、いいです。お願いします」
ワンテンポ遅れて、円先輩がカーテンから出てきた。
円先輩に注目が集まる。
円先輩の体は筋肉そのものだった。とはいっても、筋肉マンのような体ではなく、柔らか味のある筋肉だ。しいて言えば、ボディビルダを連想させる。
「すごーい! 円先輩って、なにかスポーツしているんですか」
円先輩が黙っていると、拓哉先輩が代わりに、
「円はね、なんでもやるんだよ。サッカー、水泳、登山、ロッククライミング、スノーボード、自転車、重量挙げ……逆にできないものが無いかもね」
そんな円先輩のパンツは、いつものシックでタイトなファッションイメージとは相いれないピンクのボクサーでかわいらしかった。
円先輩は種田先生を見つけると弁明をしていたが、その種田先生はどこ吹く風という感じで、テーブルにあったマフィンを食べていた。
「さ、先輩。ここに座ってください」
円先輩は中央に据えられたイスに座った。
「それじゃ、ポーズです。手を頭上で組んでください。首も、その手を見るように上に向けてください」
円先輩は渋々ポーズをとっていく。
「それから、脚を大きく開いてください」
「は?」
円先輩は、似つかわしくない大声を出した。顔が一気に赤くなる。
「太腿も描かないといけないのでお願いします」
「お、お前ら、後で締め上げてやる!」
円先輩は少しずつ脚を広げた。
ポーズをとった円先輩の体は、首、脇、腹、脚と、いたるところの筋が浮き出ており、一つの彫刻のようである。
「はい、じゃあ、このポーズのままでお願いします」
私たちは制作に取り掛かった。
***
私は鉛筆を置いた。
正面からの円先輩の体は、大部分描くことができた。首筋の血管、胸筋と腕の筋肉のつながり。腹筋と腹斜筋、大腿筋……。人の体が筋肉や骨というパーツでできているのが分かる。
と、種田先生が私のところへ来て、描きあげたばかりのデッサンを見た。
「ふぅ~ん、いい感じだね。でもおしいなぁ、立体感が無い」
そう言うと先生は私を立たせ、円先輩の下へと連れてきた。
「よく見てごらん。体の筋肉にはそれぞれ凹凸があるんだ。それは見えているところだけじゃない。鍛えることで、表面上浮き上がったり、反対に凹んでいるところもあるんだ。ただ、その筋肉の付き方は、女性と男性では異なってくる」
みると、円先輩の顔は赤くなっている。
すると種田先生は、
「円くん、ちょっと失礼」
そう言うと、先輩の脇腹に触れた。
円先輩はビックと反応したが、声を出さず、ポーズもそのまま耐え抜いた。
「一番は触ってみること。これは一番手軽で勉強になる。やってみなさい」
「えー、じゃあ、円先輩触りますよー」
先輩はそのポーズのまま目をこちらにやる。いつもの眼力はない。
「や、止めろ! 止めてくれー!」
「じゃぁ、もう部室にお菓子作って持ってこなくてもいいですか? あれ、結構材料費がかかってるんですよ~」
「!」
先輩が目を見開いた。
「協力してくれたら、お礼にホールケーキ作ってきちゃおっかな~、なんて」
さて、食の誘惑にこの人は勝てるのだろうか?
数秒後「わ、わかった」と、無念の言葉を先輩はポツリと放った。
「ありがとうございます!」
私は腹筋から触った。触った瞬間、先輩はビクッと反応したが、怒るわけでもなく、そのまま触った。
(なるほど、腹筋は見た感じよりも凹凸が大きいのね)
(腹斜筋は、浅く出ている感じ)
私がいろいろと先輩の体を触っていると、由里が、
「ミホだけずるいー! 私たちにも触らせて!」
と、意義を唱えてきた。
「いいよ」と、私が言うと、
「バカー! なに言ってんだ、お前!」
耐え切れなくなったのか先輩が叫んだ。しかし、
「ホールケーキ、いいんですか?」
私には魔法の言葉がある。
先輩は次の言葉を飲み込み、されるがままだった。
全員に触られまくった先輩は、顔だけでなく体中が赤く染まっていた。その様子を見て拓哉先輩はゲラゲラ笑っている。おそらく拓哉先輩の未来はないだろう。
私は急いで触って気づいたことをデッサンに盛り込んでいく。新しい情報を入れていくと、絵のバランスは崩れていく。その調節も行わなくては。
ふとポーズをとっている先輩を見る。体が鍛えられて綺麗なのはわかったが、忘れていたのがこの人の男としてのポテンシャルだ。端正な顔立ちに頭脳明晰。しかし、人を見下す性質を持ち、性格もどこか曲がっているように感じる。だが、お菓子好きなど子供じみているなど、かわいらしさがある。
総合評価C。ギリで可だ。
残念な結果に納得する私。
見ると、由里、カンナ、飛鳥先輩はもう少しかかりそうだ。特に飛鳥先輩は種田先生の助言を受けながら描いている。大変だろうが、この課題が出せれば単位はとれるだろう。
全員が集中している。拓哉先輩もマフィンを食べながら大人しくしている。
時計の音だけが響く。




