声楽Ⅰ~③~
発表会当日。
……やはり中止しなかったか。これで誰が傷ついても文句はないだろう。
ペットボトルのふたを開けた。それから、一㎝正方形ほどの銀小袋を取り出し、爪で慎重に破る。中から、さらに小さい楕円形の物を取り出す。
それの物質は水色をしていた。
落とさないよう、その物質をペットボトルに入れ、口に持っていく。
そのときだ。ドアが勢いよく開けられた。
「そろそろ止めにしましょう。小川法子さん」
そこには、呆然と立ち尽くす小川法子がいた。
「え? どういうことですか、これ」私は円先輩に問いかけた。
この場には私と円先輩、野田先輩、道長先輩がいた。みんな、いまの現状を把握できていない。
「どうもこうも、この事件は自作自演。はなっから犯人なんていない。いるとすれば、被害者である小川法子、あんただよ」
小川は「ヒッ」と息を呑んだ。相手はこの巨体だ。ヤクザにでも脅されているぐらいの迫力はあるのだろう。
「それじゃ、部屋に貼り紙を貼ったのも?」
「この人だ。防犯カメラに部屋に入った人が誰も映っていない。この控え室には窓はない。ということは考えられるのは、戻ってきた本人が貼ったっていうことだ。これなら説明がつく」
「あの」野田が口を開く。「理由は、やっぱりこの発表会を中止させることなんでしょうか」
先輩は首を振る。
「確かに、この発表会を中止に追い込むことは、あなたにとって一つの目的だったかもしれない。その証拠に」
先輩は小川法子からペットボトルを奪った。水の中に沈んでいる物質を見る。
「これはハルシオンですね、睡眠導入剤の。この薬は即効性に特化した薬で、三十分もすれば効き目が現れる」
円先輩は小川法子を見る。
「この薬を飲めば、控え室で倒れてもステージで倒れても大騒ぎになるでしょう。そして、効果が現れる前に新たな貼り紙を貼ればいい」
先輩はイスに置いてあったバックから一枚の紙を抜き取った。
【忠告を守らなかったため眠らせてもらった。今後は私の忠告に気をつけることだな】
「あのぉ、どうして法子がこんなことをしたのでしょう?」
道長先輩がおっとりとした話し方で訊く。この話し方は緊張をほぐす役割があるらしい。
押し黙っている小川法子にも少しだが笑顔が見られた。
「俺はこの事件について、その理由が分からなかった。だが、このあいだ行われたときに収録した映像を聴いたときに気付いた」
そして円先輩は人差し指を首に持っていった。
「あんた、喉を痛めてるんだろ?」
その場が静まり返った。
「声楽家にとって喉を傷めることは、画家が利き手を痛めることと同じほどのアクシデントだ。後の声楽家人生に響くほどの。あんたは、これまで出せた音域はいまのところはカバーできているから事なきを経ているが、確実に喉の痛みが広がりつつあることを感じ取っていたんだ。あれがあの『椿姫』さ」
「え? でも、あの『椿姫』は普通でしたが」
「いや、若干ではあるが、音がかすれてハスキーな声だ。おそらく、まだあんた自身しか気づいていないんだろ」
華やかさの裏に聞こえた虚しさは聞き間違いではなかった。確実にその声は私に届いていたのだ。
「そ、それじゃ、今回の事件は――」
「そう。自分自身が歌わないための事件さ。もとから誰も傷つけるつもりなんてない」
小川法子はその場に座り込んだ。
「三か月前だったわ」
小川が話し始めた。その顔は悲壮感漂っている。
「いつものように発声練習をしていたら、突然、声の音域が狭くなっていたの。わけがわからず病院で診てもらったら、悪性の腫瘍が見つかったの」
道長先輩は目を見開いた。声楽家にとって悪性の腫瘍は声帯を切除することにつながる一大事件だ。
「私、泣いたわ。でも、誰にも言えなくて。不眠症にもなっちゃって。私の人生、ここで終わるんだって……。まだ大学も卒業していないのに」
小川法子は泣いていた。メイクなんて関係ない、涙を流し続けている。
「でも、この声はもうだめな声。きれいな声じゃないの。だから聴かせられない、誰にも。発表会で一〇〇〇人になんて聴かせたくない。だから」
小川法子は鼻をすすった。
「今回の事件を思いついたの。最終的に私だけ倒れればいいから、誰も傷つかない。上手く考えついたと思った。でも、よくわかったわね」
「それは、こいつです」
そういい円先輩は私を指さした。
「最初、あんたの歌の感想を聴いたとき〈華やかで、寂しげで、虚しかった〉と答えたんです。素晴らしいですよね。一曲の中にこれほどまでの感情を込めて伝えられる人はそうはいない。しかも素人に。あなたの素晴らしさが伝わってくる感想です」
私はムッとした。確かに音楽の素養など持ち合わせてはいないのだが。
「それほどの芸術家に関わる事件です。芸犯として解いて見せようと思っただけです」
小川法子は円先輩を見上げていた視線を戻すと、ふうと、一息ついた。
「法子」道長先輩が駆け寄る。
「笑美。ごめんね、こんな相方で」
「ううん。私もごめんなさい。法子が悲しんでいることに、全然気づいてあげられなくて」
小川法子は首を振った。そんなことはない、と言いたいのだろう。
「わたしは、もう歌は歌えない。この声も、あなたに伝えられるのは最後かもね」
笑美先輩は泣き出しそうである。
そのときだった。
「あんた、歌は好きなのか?」
いきなり円先輩が話し始めた。
小川は優しい顔になり、なにかを思い返すように眼を閉じた。
「たくさん、たくさん歌を歌って笑ってきた。歌は好きよ。大好き」
「じゃあ、歌え」
「え?」
円先輩は目を閉じた。皆の視線が集まる。
「韓国のテノール歌手ベー・チェチョルは、声帯の摘出手術を受けた後に声帯再生手術を受け、不断の努力により歌手として返り咲いた人だ。彼はこういう」
努力はもちろん必要だが、一番大切なのは、アモーレ(愛)だ
歌に対する愛が無ければ、努力し続けることはできない
「声帯を失うことは大きな出来事だ。しかし、世界を見れば、声帯を失っても言葉を話したり、強いては歌を歌うことができている人もいる。画家が腕を失っても、口や足で絵が描けるように……。あんたはまだこれからの挑戦のスタートラインに立っただけだろう。頑張って見ろ!」
小川法子は円先輩を見ている。一つの道標を作ったその人物に感謝をするように。
わたしは感激した。円先輩はこうも人を感動させることができるのか。よし、ユグドラシル円からマウント円に改名だ!
「法子、覚えてる? 二人で演奏したカッチーニの『アヴェ・マリア』」
小川法子が頷く。
「もし、声が戻ったら、あれをまた歌わない?」
目を見開く。
「そんな、声出せるかわからないし、歌なんてどうなるか分からない――」
「ううん、歌うの。私、待ってる。そのときのあなたの声は、きっといまよりも輝いているはずだから。ね、待ってる」
そう言う道長先輩に、小川法子はうんうんと頷いた。
「それじゃ、今日の発表はどうします?」
連られて半泣きになっていた野田が言った。
小川が立ち上がった。
「歌います」
「法子!」
笑美先輩も立った。
「今日で多分この声で歌うのは最後になると思う。だから」
その瞳には強い意志が込められている。
「好きなように歌うの。いい?」
笑美先輩は満面の笑みを作った。
「もちろん! 『椿姫』なんだから! あなたの好きなように歌って」
そこへ「次の発表者は準備をしてください」とスタッフが呼びに来た。
部屋を出るとき、小川法子は私たちに深々と礼をしていった。
***
会場はざわめいた。なんであろう、三人とも涙でぐしゃぐしゃの顔だったからだ。特に女性陣はメイクが崩れてしまっている。
しかし、三人は動じなかった。そこには強い意志が通っていた。
私たちはステージ袖で見ることにした。一〇〇〇人の客席に空きはない。
歌が始まった。
私は息をのんだ。この間の発表よりも格段に異なっていたからだ。
声が広がる。感情が伝わる。空気が変わる。
私も客席で鑑賞したかったと思った。
「ところで先輩。『椿姫』って、なんで『椿姫』なんですか?」
円先輩は「ん?」と言うと、視線を舞台に戻しながら答えた。
「舞台『椿姫』は、もともとアレクサンドル・デュマ・フィスの小説『椿姫』が原作となっている。原作名は『道を踏み外した娼婦』だ。小説では、一か月の内二五日を白い椿、残りの五日に赤い椿を身につける高級娼婦マリグリット・ゴーティエが登場する。彼女は裏社会での生活に疲れ果てたころ、アルマン・デゥヴァルという青年と出会う。実直な青年に惹かれた彼女だが、それは長くは続かなかった、という本筋は舞台にも引き継がれた。
主人公マリグリッドは娼婦として道を踏み外しながらも、明るく、前向きに、意志を強く持って生きている女性だ。これは、当時の女性像も反映しているのかもしれない。この『椿姫』は一八五三年にヴェネツィアで初演が行われたんだが、歴史的な大失敗に終わったとされる。その翌年に再演が行われ、ようやく観衆や批評家にも受け入れられた。……このぐらいでいいか?」
「はい、ありがとうございます」
私は体を円先輩から離した。近づけないと聞こえなかったのだ。
私は舞台を見つめた。
舞台にいる小川は、明るくのびやかに歌っている。まるで歌う喜びを噛みしめるように。また、歌えるようになることへの決意を誓うように。
彼女はきっと明るく、前向きに、意志を強く試練を乗り越えてくれるだろう。そう、『椿姫』のように。




