声楽Ⅰ~①~
「はぁ~……」
私は筆を置いた。なんだか気持ちが高ぶらないのだ。最近はこんな鬱々とした気持ちが続く。
絵のモデルの花瓶が悪いわけではない。決して、ハクション大魔王に出てくるような絵付けがされている、あの花瓶が悪いわけではない。……決して。
私は片づけを済ませると教室を後にした。校内を溜息つきながら歩き、ふと目に入った中庭のベンチに腰を下ろす。こんなところにベンチがあるなど、初めて知った。
木が風に揺れ、葉や枝がこすれる音がする。
遠くに人の声が聞こえた。
鳥のさえずりも聞こえる。
夏の午前中にある特有な若葉の香りを風が運んできた。
私は、久々に社会の騒がしさから離れることができた。
このまま寝てしまいたい……そう思ったときだ。
「あれ、ミホちゃん?」
話しかけてきたのは、誰であろう上下黒のドレスに身を包んだ油絵学科四年の和田飛鳥先輩だ。
飛鳥先輩は、以前、私の絵を模写し、本物と偽って提出するという騒ぎを起こした張本人である。事件以後は和解した私と良好な関係を築き、先輩後輩というよりも友達感覚で付き合っている。
その飛鳥先輩は、今日は中世ヨーロッパ風のドレスを着ていた。尋ねると、間違って服を全部洗ってしまい、着られるのがこれしかなかった。さすがに校内にいては目立つので、中庭でひっそりと影をひそめていたのだという。いったいどういう服のセンスをしているのか、いっそこの場で訊いてしまおうかとも考えたが、今後のことも考えて止めることにした。
先輩は私の隣に腰を下ろした。
二人で風を感じる。
「そういえば、どうしたの? 暗い顔して」
私は絵に集中できないことを話した。
「わかるわ~。なぜか知らないけど、突然絵が描けなくなっちゃうの。私も悩んだわぁ」
先輩は腕を組み、うんうんと頷いた。飛鳥先輩の場合、年中スランプ泣きもしないではないが。しかし、そんなことを言えばケンカになるのが目に見えている。
「どうしたらいいですかね……?」
すると、飛鳥先輩は右手の人差し指をピンと立てた。
私は首をかしげる。
「こういうときはリフレッシュよ。ミホちゃんは音楽聴いたりする?」
わたしは首を左右に振った。わたしはCD一枚も持ってはいなかった。聴きたいときは、スマホで一度聴いて、それっきりだ。
「それじゃ、丁度いいところがあるから、一緒に行きましょう」
そう言われ、私は半ば強引に左腕を引っぱられて連れて行かれた。
***
「わぁ、大きいですね……」
連れてこられたのは、音楽学部の音楽ホールだった。入り口に〈公開試験会場〉とあり、誰でも入場できるようだった。
私たちは入り口から堂々と入った。特に先輩は、美術学部では浮いていた服が出演者の衣装であるかのように思われ、危うく警備員に試験者と間違われるところであった。
ホールに入ると、すでに試験が行われていた。
ステージではピアノに合わせ男性が歌っている。その歌は、イタリア語であろうかフランス語であろうかドイツ語であろうか……。とにかく、とても華やかに感じた。
「音楽学部では、前期と後期の年に二回、このような試験が行われるの。試験は一次試験から三次試験まであって、合格者が次の試験に進めるようになってる。で、最後まで合格した人は、この音楽ホールで一〇〇〇人の観衆を前に演奏することができるの。すごいでしょ」
先輩が小声で教えてくれた。
席はがらんと空席だったが、これが先輩の言う途中試験であれば納得がいく。二階席もあるのだから、一〇〇〇人は余裕で入るだろう。
男性の歌が終わり、舞台袖へと下がっていく。今度はフルートを持った女性が現れた。
演奏が始まった。受付でもらった案内では、ドビュッシー作曲『牧神の午後への前奏曲』だという。
息を呑む。
静かにフルートが奏でられる。その静けさは、まるで波風立たない湖のほとりにいるかのようだ。
私は、いつもなら睡魔に襲われるであろう環境にも関わらず、聴きいっていた。
きれいだ。
絵画や彫刻とは違う美しさに、目も耳も冴えわたっていた。
ふと隣を見る。
飛鳥先輩は夢の世界に入っていた。やばい。よだれが垂れてる。
しばらくして曲が終わり、奏者が退場した。
次は声楽でヴェルディ作曲『椿姫』だ。
壇上に三人の男女が出てきた。紺のドレスを着た女性がピアノ席に就き、ピンクのドレスを着た女性とタキシードを着た男性が歌うようだ。
ピアノがリズミカルな、バレエのようなリズムを刻み始めた。
そこに女性が力強く、また、のびやかな声を重ねる。
男性は語りかけるように、静かに歌う。
私は、そこに舞踏会を見た。いや、見えた気がした。
二人以外の多くの人が取り囲み、声を重ね歌い上げる。華やかでヨーロピアンな音楽である。
しかし―――
私は、華やかな音楽の名から寂しさ、虚しさを感じた。これ、という証拠はないのだが、そう感じ取ったのだ。
二人は歌い上げる。ピアノは弾きあげる。最後まで華やかで、のびやかで、どこか虚しかった。
三人は礼をすると袖へと帰っていった。
次の演奏が始まろうとしたときだった。「きゃああああ!」と悲鳴が響き渡った。
ホールにいる審査員の先生たちや警備員がざわついた。
私は反射的に事件の予感を察知し、隣でよだれを垂らしている飛鳥先輩を起こした。
「どーしたの? ミホちゃん?」
「女性の叫び声がしました」
私は先輩を引き連れ廊下に出て、舞台裏に続く扉を開こうとした。
「ちょっとまって、あなたたちは?」
警備をしていると思われる男性に声を掛けられた。
「出演者です」
私はそう言い、男性の前に先輩を差し出した。
男性は飛鳥先輩をしげしげと見ると、「よし、行っていい」と通してくれた。
進むと、ステージのほぼ裏の通路に出演者の控室があり、その一室に人が集まっていた。
女性が一人うずくまっており、二人の女性が慰めている。
「どうしたんですか?」
私は近くにいた男性に声を掛けた。先ほど女性と一緒に歌っていた男性だ。
「ああ、この部屋の壁に、あんな張り紙がされていたんだ」
そういうと、男性は部屋の奥の壁、メイク用の鏡があるところを指さした。
【声楽学部の発表会を中止しろ。さもないと誰かが傷つくことになるぞ】
メッセージは新聞の刳りぬきで作られていた。
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