008話 苦労が水の泡なんですが
「盛り上がっているところ、失礼しますよ?」
二年B組の生徒たちにとって、突然すぎる学校長の襲来だった。
経営サイドを除けば、彼が学園の最高峰に位置する人物である。そんな人物の乱入により、教室内の時間が停止した。僅かに吹き込んでいた窓際の風まで止んでしまったのは、おそらく偶然だ。
教室の中央廊下側。未貴の周囲に集まっていた女子も、教室の窓側で立ち話する男子も顔の向きが前方のドアに固定されたまま、ピタリと止まってしまった。
動いたのは、グラウンド側の窓枠に背を預けていたベテラン女教師だけだった。それも組んでいた腕から右手を抜き出し、こめかみに親指と薬指を当てただけの動作だ。どうやら頭が痛いらしい。
そんな空気に役職柄、慣れてしまっているのであろう校長は、「さぁ、席に着いて下さい」と生徒たちに行動を促す。まるで空気を読んでいないように見えるが、これが偉い人にとって当たり前なのである。
一々、『緊張しなくていいですよ?』など言っていられない。
「なんで校長……?」
「さぁ? 知らね……」
大半の生徒が無言で自分の席に戻っていく中、散り際の男子生徒の声が漏れた程度だ。あくまで静まり返った教室……と、表現できる状態にある。
女教師・笹木 絵梨佳は、左手のスマホをチラ見すると小さくため息を吐いた。
そこには【笹木くん! 済まない! 校長が連れていってしまった!】とラインメッセージが表示されている。
……校長の到着後に届いたものだ。
実は、智は昼休憩突入時間の直前に到着していた。
そこで笹木女史と学年主任、智本人と母。この四者で面談を行なっていた。いや、面談というよりは復学に際して『何も心配はいらない。学校は君の味方だ』と、理由を添えて話しただけである。
五時間目の授業開始時刻となり、担任である笹木 絵梨佳は教室へ。これを見計らったように校長が生徒指導室に乱入。
しばらく話をすると、自ら智を教室に案内すると連れ去ってしまったのだった。
中年女性で絵梨佳という名前に違和感を禁じ得ないが、これから先、『ことり』のおばさんやら、『ひな』なのにおばあちゃんなど、どんどんと増加していく。その先駆けだろう。時代の変化であり、次第に人々は順応していくはずだ。
名前はともかく、笹木教諭が遂に動いた。スマートフォンをスーツの内ポケットに仕舞うと、きっぱり告げる。
「校長先生? ご案内、ありがとうございます。以降は担任である私の仕事ですので、ご退室お願いします」
……実に冷淡な物言いだった。
それもそうだろう。
予定では、学年主任が頃合いを見て復学する梅原 智を案内し、和気藹々とした雰囲気の状態で入室して貰い、暖かく向かい入れる。
笹木が担任を務める二年B組は、思っていた通り、異様な雰囲気に包まれていた。
なので未貴をいじった上で、自由時間にした。教え子たちは、手の平で踊らされているかのように、面白可笑しく談笑を開始。望んだとおりに動いてくれた。
多くの生徒が席を立っている中、突如として入室させ、ひと際、騒がしくするつもりだった。それが智にとって最良だ……と。
『ほらほら! 可愛い子が来たからって騒がないの!』
こんな言葉まで用意していた。
そんな下準備を、一片の曇りも無く整えていた。全ての予定通りに。
今のこの静まり返り、ほとんどの生徒が背筋を伸ばす状況は、描いていた既定路線とは正反対もいいところだ。目の前の尊大な男がぶち壊した。
ついでに言えば、不測の事態に陥った場合には即座に連絡という取り決めを、学年主任も違えている。主任としては、親御さんがまだ目の前だった為にメッセージの送信が遅れた訳だが、そんな事情を笹木女史は知らない。
「……そうですね」
温厚にも見える笑みを浮かべているにも関わらず発される、得も知れぬ迫力に押されたのか、校長は退散する構えを見せた。
……が。
「梅原くん。入りなさい」
止める暇など無かった。
美味しいところを持っていこうとした……訳ではないだろう。
純粋に転入生の入室を促してみたかった。担任教師として教鞭を揮っていた、あの頃のように。
校長は、そんな雰囲気を醸し出している。
……まぁ、今回の場合は復学だが似たようなものだ。
だが、それは最悪のタイミングだった。
静寂に包まれた教室の前方。サイドスライド式のドアがゆっくりと開かれ、梅原 智が姿を見せる。
至ってシンプルなグレーのスラックスは長すぎる為、裾が折り返されている。肩幅の合わないグレーのブレザーと同色のネクタイ。数ある制服パターンの中で、最も選ばれているであろう、サイズが明らかに合わないだぶだぶ男子制服を纏った女生徒だ。
そんな格好にも関わらず、女子と断言出来る。
痩せた印象は拭えないものの、それだけの柔らかな顔立ちをしている。
前髪は形の良い眉のライン。サイドは耳の中央辺りで切り揃えられた栗色のショートボブ。時折、男子生徒にも見受けられるが、通常、女子の髪型である。
ぱっちりとしたふた重まぶたの目と、それを隠そうとしているかのような長い睫毛。
可愛らしい鼻と、柔らかに息づく薄紅色の唇。
サイズの大きすぎる男子制服は、その頼りない肩幅や低身長を誇張させているだけのようにも見える。
そんな少女は不安からか、恐怖心からか。口元が引き絞られており、自信なさげな眼差しは心持ち下に向けられている。
そんなオドオドとした、思わず守りたくなってしまうような美少女。
梅原 智が今、二年B組へ入室を果たした。