027話 実は母子家庭
「純がね。雰囲気を変えてくれたんだよ。話すの下手なのに無理してさ」
今日の学校では見せなかった声量で、明らかなサイズ違いの大きなTシャツ、膝下まであるというか、どうみても男物のハーフパンツを履いた智が、本日の出来事を聞かせている。
「感染のことだって、先生が話しやすいように質問してくれたんだよ?」
その頬は緩みっぱなしだ。話し相手が隣りになければ、鼻歌でも聞かせてくれそうなほど、上機嫌だ。梅原家で智は年相応の笑顔を見せている。
花が開いたようなその姿は、彼女が彼であったことを知らない男子が見たら、一瞬で落としてしまいそうなほど輝いている。
「厳しい指摘もしてくれたんだよ? 他の人……。未貴でさえ言い出してくれなかったのに」
テンポ良くその小さく白い無垢な両手で、お皿の泡を流している。
キレイな手だ。
智の両手は病気の後遺症であり、メリットとも言える、絶大な新陳代謝の影響で透明感のある柔らかな手を維持している。
それは手だけに留まらない。
きめ細やかな肌は全身に及ぶ。これが最上級の美少女と形容せざるを得ない最たる理由だ。
「……ホントに嬉しそうね。変な切っ掛けだけど、良かった……のかな? 純くんに関しては……だけどね」
母の言葉の中にあった『変な切っ掛け』とは、ASCS。後天性適化症候群の発症を差す。
確かに、純がまともな反応を返してくれるようになったのは、智が女性化の後、顔を合わせてから。
つまり、本日から始まったことだ。
最愛のひとりっ子・智の苦悩の元凶であるASCSに関する事柄でもあり、言い辛そうに話した母の手が止まった。最初から少ない洗い物が減らなくなってしまった。言わなければ良かったと後悔すら見て取れる。
そんな母の手を流し見ると、通常より大きな声を発する。普通の声量であれば、水音に掻き消されてしまうのだ。
「良かったのかもね」
眉尻を困ったように下げ、取り繕う言葉を探していた母の顔が素に戻った。横に立つ、夕飯の後片付けを手伝ってくれている優しい娘を真顔で見、そのままになった。
意外すぎるひと言が、母の思考を奪い去ったのだ。
「聞いてよ。厳しい指摘ってなに? ……って」
これには智も苦笑いを隠せない。
自分が何を言ってしまったのか。女の子になって良かったような言い方をしてしまったことに気付いたのだ。
その後の台詞は、それを打ち消すための置き石だ。
「……厳しい指摘ってなに?」
娘となった智のリクエストに応じる。母の手も動き始め、洗い物は再開された。
「先生たちも母さんも着たほうがいいって言ってくれて……。断っちゃってた女子制服……だけどさ。作って貰って……いい? 出来ることなら着たくなかったんだけどね……」
お伺いするような上目遣いだった。
おねだりする手段として使った訳ではない。智が言ったように、一度は仕立てる必要がないと自分自身で断っておいて、復学した早々、欲しいと手の平を返した恥ずかしさ。その上、高い買い物をさせてしまう躊躇いもある。
……最後の出来ることなら……は、女の子用の衣類を身につけたい訳ではないと、勘違いしたかもしれない母に伝え直したものだ。
「いいわよ? だから言ってたでしょ?」
即答だった。母も小さくなった智に合わないサイズの男子制服はやめておくべきと、話していた。担任も学年主任も恥ずかしいのは分かるけど……と添えた上で女子制服を薦めてくれていた。
だからこそ母は思う。
たった二人の家族。たった一人の我が子。
その我が子の中にある、幼馴染みの存在の大きさを。
「うん……。言われてた通りだった……けど……」
「純くんに何て言われたの?」
問い掛けつつ、お皿を手渡そうとした手が止まった。
受け手である智の手が止まったのだ。渡しようがない。その少女の形をした元息子は、遠くを見るような目をしていた。焦点など、どこにもないのだろう。
「……怒鳴られたよ。そんな格好してたら目立って当たり前だ! ……って」
「そう?」
やはり予想していた通り、純も特別な言葉を用いたわけではなく、同じようなものだった。母や先生と同じことを別に言い方にしただけだ。
……つまり智にとって、純のひと言は誰のものよりも大きいということを示している。
「純が言ってくれたお陰で、仕方なく女子の……って形も作れたしね」
満開の桜を彷彿させる、心からの笑顔を見せた。
まるで恋をする乙女のようだと、母の内心は複雑だ。
「本当に良かったね。このまま純くんと昔みたいに仲良くしなさいよ?」
「……うん。出来ることならそうしたいから」
本当に出来るのかな……? そんな考えがよぎったであろう智の表情が曇った。こんな顔を見せ始めたのは、発病後の話ではない。
中学生時代……、いや、その少し前から何度も何度もこの母だけには見せていた。
今は亡き父の前と、中学校で過ごしている間は隠し通していた。最大の味方である母と、何かと気に掛けてくれる気遣い少年だけが知る弱気の表情だった。彼女である未貴にすら見せていない。
「出来るわよ。純くんは智のピンチにはいつだって力を貸してくれてたじゃない」
母は、小学生時代の純を思い浮かべると、ほんの少しだけ笑った。
きっと大丈夫だ……と言い聞かせる。
智也が名門私立中学校に進学することが出来たのも、純の力添えがあってこそだったじゃないか……と。




