026話 ブラコン妹の挑戦
今から五年も六年も前の話だ。
それは妹にとって、今も色褪せない記憶である。
現在、中学一年生の少女にとって、この優しい兄は、かつて偉大に思えるほどの存在だった。
尊敬し、敬愛する兄が言った『余計なことは一切、考えない』を遂行しようと再プレイを始める。
目標は自己ベストの更新だと、気合いを入れて臨む。
だが、大切な記憶が……。思い出が脳裏を過ぎり、集中などできなかった。
どうしてもあの時の兄の横顔が浮かんできてしまう。
小学校低学年だった頃、この部屋での出来事だ。
その時、妹は物音一つ立てなかった。
会話をするなど論外だ。そんな些細が兄の神の手を狂わせることを幼いながらも理解していた。
身じろぎ一つせず、三対、六つの目が同じ方向を注視していた。
数え切れないほどの記号が流れるテレビ画面に向けて。
ちらりとプレイ中の様子を横目で盗み見ると、驚くほど無表情だった。これが、さっき兄が口にした所謂、ゾーンに入った状態だったのだろうと今でこそ思う。
その目は忙しなく左右上下に展開し、それに合わせて両手の親指が超高速で蠢いていた。
やがて、音楽は最終局面を迎え、ラスサビの盛り上がりを見せる。
理解し難いほどの記号が、至る所から出現する超難度の譜面。これに臆することなく、液晶画面に奇跡を起こしたかのようなCOOLの羅列を見せてくれた。
それでも兄の顔に一切の変化はなかった。極限の集中だった。現在進行形で同じ曲をプレイしている自分とは大違いだ。
『よし。調子いいぞ』などという、余計な思考など完全に排除されていたのだろうと思う。
事実、自分がプレイしている時、調子が良ければ『よし』と感じ、そこからミスが生じてしまうのだ。ミスを生じると焦り、またも同じような……どころか、致命的なミスを犯してしまう。
だから無心になれと兄は言う。
こう考えると『ゾーンに入っていたと思う』ではなく、兄は間違いなく何も考えていない状態になっていた。
とんでもないことだと思う。
プレイすればするほど、時折入り込むFINEが邪魔をする。FINEではダメだと思えば思うほどFINEがあざ笑う。どうやれば、この悪循環を断ち切ることができるのか意味不明だ。
どうすれば兄の言うとおりにできるのだろう……と考えてしまう。無心をイメージすることは何も考えていない状態からは遠ざかる。
手元が僅かに乱れる。狂った感覚がFINEを連発させる。
「ダメだぁ……」
ついには少女の手が止まってしまった。すると、驚くべきスピードでゲージが減り、ものの三秒ほどで曲が打ち切られてしまった。
COOLとFINEのみだったにも関わらず。PERFECTは継続していたのに。
単なるPERFECTではダメなのだ。
それでは兄を越えることができない。
兄は、ただパーフェクトを出すだけの領域など、とっくの昔に超えていた。
本当にあの頃の兄は光り輝いていた。
竹馬の友と一つの夢を共有し、全力を投じていた。
画面の中、絶対領域を見せ付ける架空アイドルが、最後まで歌わせて貰えなかったことに涙を流し膝を突いているが、そんなものは目に入っていない。
妹がプレイを投げ出したことに気付いた兄が心配そうに見やったことにも気付かず、思い出の世界に妹は旅立った。
『よっしゃ! トップきたぁぁぁ!!』
思わず、コントローラーを投げ捨て、両手を振り上げたのは兄・純だった。
『お兄ちゃん、すごいー!』
『純! ナイスぅー!』
観戦者の立場になっていた二人が褒め称えた時には、兄の両手が下がっていた。だが、何度も何度も握り締めた拳を小さく揺らしている。
ガッツポーズで今のこの感情を噛み締めていた。
『智ー! この調子で平均スコアナンバーワン目指そうな!』
キラキラと輝く瞳で、将来を語り合った友に笑顔を向けていた。
『行ける行ける! 二人とも三日に一曲が目標! ペース遅いけど、確実に進んでこ!』
将来を明るくするため、とにかく時間を費やし、練習に励むことを約束していた。腕を磨きいつか殴り込みを掛けようと笑い合っていた。
『そうすりゃいつか獲れるな!』
そのために、ランキングの一番目立つところに名前を刻むこと。
これがいつかプロゲーマーへの道を拓くことに繋がると信じていた。
今でこそ世界的な規模で広がり、莫大な賞金を争い合う本職たちが存在するが、この頃はまだ、日本ではプロゲーマーという職業は黎明期だった。
必ず、発展する世界だと親友に語ったのは、櫻塚 純だった。先見の明があったのか、小学生の戯れ言だったのか、わからない。ただ、妹は前者だったと信じている。
単なる戯れ言だったすれば、確かな目標に向かって、小学生である自分たちにでも出来ることを探し、実践していた説明が付かない。
リズムゲームを選んだ理由は、操作の正確性を向上させるためだ。
将来を本気で見据えた兄と、これに同調した近所のお兄ちゃんを『すごいひと』と感じていたのは、懐かしき記憶だ。
『あたしもするー!』
正直、邪魔になっていたはずだ。
ついつい思い出して笑ってしまった。しかも声に出ない苦い笑いだ。
『おっけ。咲ちゃんの番だね』
『がんばれよー?』
貴重な時間を奪ってしまっていたにも関わらず、わしわしと乱暴に頭を撫でてくれた純と、優しく微笑み掛けてくれた兄の親友を思い出す。
闘志が蘇ってきた妹・咲の目が生き返る。何度でも何度でも自分が納得するまでやる。
今はもう存在しているだけのアカウント【 juntomo 】の片割れ。優しかったあの『智也お兄ちゃん』より、腕を磨くこと。
きっとお兄ちゃんは、私が智さんより上手な相棒になれると判断した時、この世界に帰ってきてくれる。
そう信じて、邪念との戦いに再び身を投じる。
「あー……」
「なんで!? あたし、ミスってないのにセーフって!!」
「セーフはアウト! どこがセーフだ!!」
「調子良かったら後半で壊れるんですけど!!」
幾度となく再プレイしようともミスを連発する櫻塚 咲ちゃん、中学一年生。
彼女は、純がこのゲームを投げ出した四年前を境に、兄の部屋に入り浸るようになっている。
……その代償として、妹の手によって兄の部屋の清潔が保たれているのである。




