020話 直談判したときのこと
「あの……。憶えてなかったらごめんね……?」
智は小さな声で先に謝っておいた。この先、名前が脳内から引き出せなかった時の問題を矮小化することが可能になる賢明な行動だ。何しろ、一度で憶えきられる可能性のある少人数であり、名前が出てこなかった際、非常に気まずい。
一方、謝られた側は上目遣いの智を見詰めたまま、固まってしまった女子が数名。未貴を含む。
実に可愛らしかったのだ。誤魔化すような、苦笑のような、上目遣いの微笑みが。
「それで……。修学旅行の話だけど……。自分……。行けるかどうか分からないんだ」
記憶していた智は偉い。よほど、純の質問は大切らしい。
そもそも、智は幼馴染みに呼びかけただけだ。一緒の班に……とまでは言っていない。その時の純の返答は『お前、行けるんか?』だった。その辺りは付き合いの長さの成せる業なのだろう。
聞くだけ聞いて、またもスマホと睨めっこ状態の純はともかく、この智の言葉に女子たちどころか、大起までもが何も言えなくなった。
話の流れからして、みんな智も行くものだと思っていたらしい。
言われてみればそうだろう。
修学旅行に参加できないかもしれない要因など、いくらでも考えられる。
そもそもクラスに馴染めるか、ここが自分の居場所になるかが不明だった。最悪、すぐに退学、編入などのルートがあった。
これらを回避したところで、純くんが思った通り、入浴や寝床の問題もあるだろう。
金銭面の問題もあるかもしれない。何しろ、長い入院生活をほんの一週間ほど前に終えたばかりだ。
もちろん、例に挙げた上記以外も考えられ、複合している可能性も多分に考えられる。
だが、智も行きたい様子を見せている。
第一の関門だった、クラスに馴染むこと。これが智本人の予想以上に上手くいっているのだ。
「梅原さんは参加の方向で決めていって大丈夫ですよ?」
どうしたものかと悩む生徒たちに助け船を出したのは、笹木だった。
参加ならば参加で、不参加ならば不参加なりに……。何か学校側に考えがあるのだろう。もしかしたら補助金を捻出するなど、強制的に参加させる可能性まで有り得る。
その理由は話さなかったが、笹木の言葉を切っ掛けにスムーズに班割りは進んでいったのだった。
結果。
男子が純と大起の二名、女子は智、未貴、お菊さんの三名。そんな五名グループが結成された。お菊さんは口が達者で、切れ者らしい。ポニテの莉夢が純に無視された時も彼女の機転で純も顔を上げてしまっていたはずだ。
今回は、何やら『智ちゃんの立場上、委員長である私が一緒の班だと事がスムーズに運ぶ』と、謎理論で押し切った上で話を変えてしまった。
◇
班が決まると残りは十五分ほどを残すのみだった。
元々の予定が班を決めるだけだったとは思えなかったが、笹木はここで切り上げてしまった。他のクラスは、もっと踏み込んだ話まで進んでいると思われるが、また別の日に時間を確保する算段でもあるのだろう。
……そして、あろう事か、ここで再び自由時間を宣言した。
「おーおー。ええなぁ、未貴ちゃんは。修学旅行で愛しの人と一緒の班やて」
「それ! それです!」
そうなると未貴へのいじりが始まった。いじられっ子とセット販売中の智も、いじりの内容の問題で頬を赤らめている。
「未貴と智のカップルか。悪くない」
「由梨!? やっぱり百合なん!?」
「違う。百合ではない。由梨だ」
違う人がいじられ始めたが、そんなことを気にする素振りすら見せない変人もいる。
(……とにかく、智也を馴染ませるための時間なわけね)
純の予想も今回ばかりは正解だろう。
とにかく笹木はこのLHRの二時間、生徒同士で話す機会を提供し続けている。これに関して想うところがある。
(直訴。あれがちょっとやりすぎだったんかな……?)
純は昨年の末、梅原 智也の留年の噂が流れると、それはおかしいと声を上げた。これは既に語っている通りだ。
これに応じた大起と未貴が署名活動を開始。
実は、この後に問題があった。
学校はこの活動に当初、難色を示した。
署名を集めれば集めるほど、態度を頑なにしていった。
『悪しき前例を創り上げる』と。
学校の今後を考慮した場合、この主張は正当性のあるものだ。この署名活動は、システムの根幹さえ揺るがしかねない。
今後、留年を通知する度にこのような活動が行われた時。一切の勉強を放棄しても署名さえ集められれば、進級出来る。そんな可笑しな構造へと発展しかねない。だからこそ学校側は、決定は覆せないと突っぱねた。
活動が暗礁に乗り上げると、発起人であるが署名活動自体には参加していなかった純が重い腰を上げた。
学校長を通り越したその上。理事長への直談判に赴いたのである。
ここで櫻塚 純は、梅原 智也という人物が無事に卒業した場合の宣伝効果と、留年させた場合のリスクについて説いた。
ASCSにより、性別の転換を果たした者には、過去、完全不完全に関わらず、社会適応出来なかった事例に溢れている。
つまり、梅原 智也が退学してしまった場合、『やはり、あの学校も奇病の生徒を守れなかった』と悪評に塗れる……と。
その上で、見知った同級生が居る進級ならば、学校に馴染む可能性を残す。
反対に、留年させると社会復帰への芽を完全に摘んでしまう。要するに退学に直結していると語ったのだ。
最後には暖めていた台詞で締めた。
『無事に梅原 智也を卒業に導いた時、この学校への評価は天井知らずですよ』
純は、この台詞の為に策さえ弄している。
署名活動に並行するように暗躍していた。
純はまず、周知したのだ。智也がASCSを発症したと広めさせることによって。誰もが性転換の事実を知るように。智が素知らぬ顔をして、一学年下で過ごせぬように。
そんな事前工作の甲斐もあり、学校は純の提案を呑んだのである。
(まぁ、退学されたら困るんだけどさ)
……これまで語った通り、智が可哀想。
そんな類いの意味ではない。文字通り、純本人が困るのだ。
心地の悪さを感じないために。散々、無視した挙げ句、そのまま退学されると精神衛生に問題があるのだ。
それよりもなによりも。
智への優位を得られそうな美味しい状況だったのである。
……ついでに恩も売れる。