013話 呼び方問題発生
金木犀の香りに満ちた、ピンクがほんのり主張する空間で小さな両者は向かい合っている。
物理的にピンク色だ。別に脳内が染まっている訳ではない。何故かここの壁面はこの色の場合が多い。男子の場合は水色だ。
「あの……。未貴? 一緒に入られると困るんだけど……」
「え? でもあたしも緊張解けたばっかりでちょっとピンチ」
……トイレ内での会話だ。もちろん、女子トイレ。
元男子として、彼女の隣りのトイレで用を足しにくい智。
同じ女子となった以上、特に気にしていないのか、ピンチとまで易々と話してしまった未貴。
両名の間には、ぶ厚い壁が存在している。
「ご、ごめん! 入るよ!」
慌てて智が個室に入っていった。
我慢が続かないのだ。男女の差異、尿道の長さの違いに、感覚が狂っていることを未貴は知らない。下手をすれば、彼女の目の前でお漏らしなんて無様を晒すことになる。
……さすがにオムツなど履いていない。
「……あたしもピンチなんだってば」
智が入っていった隣りの空間へと、未貴も突入を果たす。
……結局、お隣同士でそれぞれお花を摘む両名なのだった。
◇
一方、二年B組の教室内。
「ちょっとぉ……。梅原……くん? 可愛すぎですよぉー」
セミロングの可愛らしい子は、ほとほと困ったといった感じだ。
「せやな。わかるで」
崩れた関西弁の西洋チックな少女が、大きく頷き同意した。
「その呼び方に迷うところもわかるぞ」
一見、大人しそうなサラサラロング女子・由梨が、その外見に似合わぬ口調で納得顔だ。
「本人的にどっちがいいんでしょうね?」
菊地原委員長も眼鏡の位置を右手の中指で修正しつつ、疑問を口にする。
「女子になったんやし、やっぱり『くん』は嫌なんやない?」
「でも、男子制服着てますしぃ? だったら『さん』とかですかー?」
「うむ。複雑なのは分かるんだがな」
「でも梅原さん本人が女子って言ってましたよぉー? ……ってことは女の子って扱いでいいんですかねー? でも、もし嫌だったら……」
「ミッキー、でもでもばっかうざい」
「ディスられました!」
「思い切って『智ちゃん』でいいんじゃない?」
「それは未貴が怒りそうですね」
「わかるー!」
現在、五時間目も終わり、笹木先生も辞した後だ。
本来の小休憩に入った時間でもある。
中央付近、未貴の空になっている席の周りに集まった女子が、いつものように騒いでいる。
未貴不在でもここで駄弁っているのは習慣めいた何かだろう。未貴が愛されキャラであり、普段から未貴の席付近に大半が集合しているのだ。
「あぁん。いったい、どうしたらいいのー?」
「ミッキーに同じく、わからへん」
女子の皆さまを中心に据え、男子たちの多くは小規模グループに分かれている。その問答に聞き耳こそ立ててはいるが、目線は別の場所だったりする。
ジロジロと見ていると、その対象から顰蹙を買ってしまうかもしれない……と。女子に悪く思われたくないという本能。基本的にそれが男子には存在しているのだ。
(不毛なお題だね)
聞き耳を立てているのは、スマホをいじり回す純も例外ではない……が、アンテナを張っていると言うよりは、女子たちの声が大きく、耳に入ってきてしまう側面もある。
(そんなん、本人に聞けばいいだろ?)
そうは思ってみても純は、忠告を発さない。進言しない。
いつもそこだけが時間が止まったように動かない。二年生に進級して以降、積極的な言動が見られたのは、梅原 智に関してのみ。先程の五時間目で初めて見せただけだ。
「あ……。せや……!」
「ん? 未貴に聞くのか?」
「それでは本人の前になってしまいます」
「ちゃうちゃう。居るやろ? このクラスに。梅原……クンの幼馴染み」
(……俺? 嫌だ。来んなよー。うるさいし……)
純くんの思い虚しく、色素の薄いポニーテールの少女が黒、グレー、ダークグレーのモダンなチェックのスカートを翻し、甘い香りを散らしつつ移動を始める。先頭の言い出したその子の揺れる尻尾を追い掛けるように二名の女子も動き出した。
「大丈夫ですかねー?」「ま、スルーされても被害ないし……」と声を潜めて追従した形だ。
この声を潜めた小さな会話は、純くんのクラス内に於ける立ち位置を正確に捉えているものと言えるだろう。
そして、そこだけ切り離したように静かな世界へ。
スマホの液晶画面の上で指を蠢かせてているだけの彼の元に。純の指は画面上、スワイプもフリックもしていない。タップ中心である。これはPC専用のオンラインゲームをスマホに乗せているから……だが、全く関係ない話だ。
指先だけが同一の時間軸上であるような純に、金に近いほど茶色い長い長い尻尾が印象的な少女が、純正日本人とは少し違うイントネーションで「ねぇ?」と、切り出した。
「………………」
返答などしない。
いつものスタイルだが、内心、実は焦っている。
純くん、試練の時かもしれない。