012話 考えすぎかもしれない
冷え切った体を温めてくれるような柏手のシャワーが、少女を包み込む。
これを小さな一身に浴びる智の瞳は、潤んでいる。
……怖かったのだ。
学校に復学することが。
――何度も何度も想像した。
智が智也のままだったとして、クラスメイトの一人が……。例えば、『良いヤツ』を体現したような竹葉 大起が同じ病気で女子になった時、自分はどう対応できるのか。
平気な顔は創ることができるだろう。ところが、その取り繕った笑顔など、見透かされてしまうのではないか?
今、正に複雑なものを覆い隠すような一部の男子たちの表情のように。
だが、女子たちと男子の多くの拍手は、本心からのものに思える。
未貴がどれだけ智也と智について、女子たちに説明してくれていたのか。
大起がどれだけの智也との思い出を、男子に語らってくれたのか。
そして、櫻塚 純がどんな思いで活動の発起人になってくれたのか。
受け入れられた実感を感じ、昂ぶってしまった。特別な感情が込み上げてきた。
このシャワーが終わる最後まで涙を零さなかったのは、男だった頃のプライドだ。
……ソワソワと体を揺らし始めているのは、別の理由だ。何気に緊急事態である。彼女は今、男女の性差により、ピンチを迎えている。
◇
無性に長かった拍手が収まろうとした時だった。
「先生ー? ちょっと質問いいですか?」
いつになく、よく舌が回っている。こんな純を見たことがあるのは、小学生時代の彼を知る者くらいだろう。彼は中学校に上がり、スマホを手に入れてから静かな生徒と化してしまっているからだ。
「櫻塚くん? 何かな?」
笹木は窓際最後方の男子の問い掛けに応じる素振りを見せた直後、首を巡らせ、黒板の上部を見上げた。
「さっき、成人の20%、子どもの「あ、ごめんなさい。五時間目、残り五分ありますが、質問タイムは六時間目に回しますね?」
「………………」
よく話している純も、さすがに口を閉ざしてしまった。そう言われて引き下がらねば、他生徒の顰蹙を買ってしまうだろう。
質問の回答が五分を超えてしまった場合、目も当てられない。
我が強く、自分を貫き通す。その上、ひとたび行動に移せば深く地中に突き刺さる。だからあいつは大したヤツだ。変人だけど。
そう思われているだけの存在だ。櫻塚 純という少年は。
非難など受けたくない側の小心者なのだ。実は。
(……たまたま? それとも何かあるん? この先生、やりづらい)
どうやら黙った理由は、今回の場合、周囲を気にしてのことではなく、担任教師の陰謀めいた何かを感じ取ろうと思考を据えたことが原因のようだ。
(わざわざ五分前に終わる理由……。えっと……)
「菊地原さん? 号令を」
「あ、はい」
返事をしたのは、未貴の後ろに座る地味系ツッコミ眼鏡少女だ。
空席は智が座るであろう、純の隣りの一席のみなので本日の欠席者は無し。彼女こそ学級委員長なのである。
「起立」
号令するなり、自らも緩慢な動きで立ち上がり、左斜め後方に顔を向けた。
そこにはノロノロと立ち上がる純の姿がある。彼に合わせて行動すると、かなりの確率で全員のタイミングが揃う。そう彼女は学習している。
一番行動の遅い奴が半ば立ち上がると、教室内をぐるりと見回し『礼』の号令を出した。
起立の反応が遅れた同級生が居たときでも、純に合わせると話が早い。彼は周囲を観察でもしているのか、大抵の場合、最後だ。
要するに、単に彼が鈍いだけの人物ではないと、彼女は思っている。
「着席」
最後の号令は様式美だ。
座っていては小休憩を満喫できない。実際、教壇に立ったままの智など、座りようもない。
「智ぉー!」
5時間目の修了と時を同じくして早速、動き出したのは松元 未貴だ。まだ教師の退室前にも関わらず、頭上で手を振りながら愛する彼氏に駆け寄っていった。心からの笑顔を添えて。
未貴も相当なプレッシャーから、ようやく解放された。
智が本当に受け入れられるのか?
思考するたび、何度も辿り着いた最悪の結果は杞憂に終わった。
この気持ちを智と共有したい。そんな気持ちが童顔に溢れ出ている。
ところが……。
遂には女の子ぽく、内股になってしまった智は正直、それどころではなかった。
「ご、ごめん、未貴。トイレ行ってくる……!」
「あ、あ! 付いていくよ!」
どうやら拍手の頃からモジモジし始めた理由は、尿意に因るものだったようだ。
迎え入れられた喜びも束の間、安心感が押し寄せ、催してしまったらしい。
付いていくと言ったような気もするが、「ゆっくりでいいからね?」と過保護にも智の手を取り連れ立っていく二人の背中を、女子たちは微笑みつつ眺め、男子たちは困惑やら何やら、複雑な顔で見送ったのだった。
(ははーん。なるほど。これが先生が早く終わらせた理由か)
納得顔で着席した純だが、いつもの下向きスタイルになった瞬間、小難しい顔に切り替わった。ロリキャラロストの影響ではない。
笹木先生の裏を感じ取った気になっている。
(聞かれちゃまずい質問だからさえぎったのか……?)
(あ。なるほど……。早めに切り上げて先にトイレに行かせる必要があったんか。他のクラスの奴らと被ると騒動になるだろうし……)
(んじゃ、戻ってくるんは六時間目に入ってからだわ)
純くんの深読みの度が過ぎている。
彼の予測通り、智と未貴の両名が教室に戻ってくるのは六時間目開始後になるのだが、そこはあくまで偶然であることを強調しておかねばならない。