3月14日 北山匠
幼馴染みのホワイトデー。男子編。
ずっと滝澤藍のことが好きだった。
そう自覚したのがいつごろだったのか、それは北山匠本人にもよくわからない。でもそれは揺るがない事実であり、現在進行形の匠の気持ちであった。
そして、1ヶ月前。バレンタインデーに匠は自分の気持ちを(遠回しにだが)伝えた(つもりである)。
いつもは匠には手厳しい藍が、その日はぽろぽろと涙をこぼしていた。そしてそれはどうやら転んだせいではなくて、匠に彼女ができると思ったから、らしい。それで匠は言ったのだ。自分はチョコレートはひとつしかもらわないと決めているということを。その言葉に藍は、義理じゃなくてももらってくれる?と返した。もちろん匠はチョコレートを受け取り、ふたりは手をつないだまま一緒に帰った。そこまではよかった。
問題はそのあとだった。
2月14日という日はバレンタイン・マジックでも起きるのだろうか。あの日はあんなふうに藍に接することができたのに、思い出すと何とも言えない恥ずかしさでいっぱいになった。それは藍のほうも同じ、というより藍のほうがそれは格段に上で、手をつないだり、デートをすることはおろか、話したり、目を合わせることすらできなくなってしまった。廊下や通学路でばったり鉢合わせると、わかりやすいくらい思いっきり匠を避けるのだ。
でもそれが恥ずかしさのあまりだということもよくわかっている。実際、自分がそう思っているし、何より藍との付き合いは10年以上になるのだ。藍の気持ちは誰よりも自分が一番知っていると自負している。そして、タイミング良くというか悪くというか、この1ヶ月はテストや生徒会で忙しく、加えて匠の楽観的姿勢によって、ふたりの間の微妙な空気は放置されたままになっていたのである。
そんな匠に天罰――否、救世主が現れた。ホワイトデーを目前に控えたある日のことである。
昼休み、廊下を歩いていると聞きなれた声に呼び止められた。振り向くと、匠と藍の共通の友人、岩崎|
芽生である。
「よぉ、岩崎。久しぶりだな」
すると岩崎は途端に目を三角にした。
「何をのんきな!そんな悠長なこと言ってる場合?」
腰に手を当てて呆れたように言う岩崎に、はあ?と返す。
「この間のバレンタインの話は全部聞いたわ」
「はあ!?ぜ、全部!?」
うろたえる匠に追い討ちをかけるように岩崎はうなずいた。
「そう、全部よ。全部聞いた上で言わせてもらうけど、北山。あんた、アレで藍の彼氏になったつもり?」
岩崎の強い口調に、匠はうっと声をつまらせる。
「好きだ、とも付き合ってほしい、とも言ってないんでしょ?それで藍の彼氏になろうなんて、10年早い!」
岩崎にあの日のことが筒抜けであることは大問題だったが、それ以上に彼女の言葉が心にグサグサと突き刺さる。それでも匠は反論を試みた。
「た、確かにそれは言ってねーけど…。でも、普通わかるだろ!アレで!」
そうね、普通ならね、と岩崎はうなずいた。
「けど、何年幼なじみやってんの?藍が鈍感なことくらい知ってるでしょ。…まあ鈍感さについては北山と五十歩百歩ってところだけど」
「…………」
厳しい顔をしていた岩崎は、ふっと表情を和らげた。
「もうすぐホワイトデーでしょ。早く藍を元気にしてあげて」
あ、あぁとうなずくとチャイムが遠くから聞こえてきた。それじゃあね、と立ち去ろうとした岩崎はついでのように小声でつけ足した。
「心配しなくても、ずっと両思いだったんだから」
ずっと両思い、か…。
その夜、ベッドに寝転がり岩崎との会話を思い出す。
それはどうだろうと思った。確かに匠のほうはずっと前から藍のことを女の子として気になっていた。でも藍のほうはいつからだったんだろう。何がきっかけだったんだろう。
俺のきっかけは…たぶん、あの時だ。
◇
匠たちがまだ小学3年生のころ。
匠と藍はそのころも仲良しで、でもそれは気の合う幼なじみという意味で、恋愛感情とかそんなモノは一切なかった。男子と女子だろうが友達は友達で、それは二人にとっては当たり前だった。でも、それを当たり前としないヤツらもいた。
「お前ら付き合ってるんだろ」
その日はちょうどバレンタインで、藍のいない時にクラスの連中にそう冷やかされた。今の匠ならそつなく切り抜けられただろうが、その時の匠は思わずカッとなってしまった。
「なっ…そんなわけないだろ!」
しかし反論すればするほど相手は調子に乗ってからかってくる。次第に放課後の教室にいた連中も巻き込んで、手を叩いて騒ぎ立て、黒板に相合い傘が描かれたりした。
今思えば、ヤツらはただ羨ましかったのかもしれない。あの時は男女が仲良くするなんて恥ずかしいと思うヤツもいたし、チョコレートがもらえない腹いせだったのかも。けれど、9才の匠はからかわれるのが恥ずかしくて悔しくて情けないのに、言い返すことも仕返しすることもできず、言われたい放題で突っ立っていた。
藍が教室に入ってきたのはそのタイミングだった。玄関にやってこない匠を不思議に思って教室に見に来たのだろう。
藍はすぐに状況を察したのか、黙って匠の手を取って走り出した。後ろからクラスメイトの囃し立てる声が聞こえてきたけれど、二人は振り返らなかった。
二人で走って走って、走り疲れて、どちらからともなくペースを落として歩き始めた。匠はみっともなく泣いていて、藍は困ったような不機嫌そうな顔をしていた。それでも藍は匠の手を離さなかった。
「藍……ごめん、怒ってる?」
しゃくりあげながら恐る恐る聞くと、藍は別に、と素っ気なく答えた。…やっぱり怒ってる。
「別に、匠のせいじゃないよ」
つぶやいた声は優しくて、余計に泣きそうになったけど、必死にこらえた。
帰り道の途中の公園で、二人でブランコに乗った。2月の風は冷たくて、ブランコをこぐ度に体中に吹きつけてきたけど構わなかった。どうにもならないモヤモヤしたものを思いっきり飛ばしてやりたかった。
「あいつら、本当むかつく!何で一緒に遊んでるだけで付き合ってるなんて言うんだよ。オレらは友達だっての。男と女の友情なんてありえないとか...そんなわけねーじゃん!なあ、藍もそう思うだろ?」
藍はブランコに腰掛けたまま、遠くを見つめていた。藍の表情を読み取ろうとしたけれど、匠にはわからない。
「...うん、そうだね」
匠は急に不安になった。藍は匠のことを友達と思っていないのかもしれない。
「なあ、藍は...オレと一緒にいるの、嫌か?」
「そんなわけないよ!....ああいうふうに言われるのは嫌だけど、でもそんな理由で匠と一緒にいることをやめたくないよ」
藍はぶんぶんと首を横にふった。それからおもむろに鞄の中から青色の包みを取り出した。
「これって...」
「今日はバレンタインでしょ。だから...」
匠だってバレンタインが何の日かくらい知っている。
「なっ...こんなことバレたら、また...」
嬉しいのと恥ずかしいのと、複雑な気持ちが胸に広がって、匠の声はうわずった。顔が赤くなるのが自分でもわかる。
でも、これって、つまり...?
「...心配しなくて大丈夫よ。だってこれは...これは義理チョコ、だもの」
『義理チョコ』と聞いた瞬間、胸が鈍く痛んだ。この胸の痛みの名前をこの時の匠はまだ知らない。なんだかほっとしたような、それでいてがっかりしたような、上手く言い表せないこの気持ち。匠は手の中の包みをじっと見つめた。...それでも、やっぱり、嬉しいかもしれない。
藍の横顔を盗み見る。ほっぺたが赤く染まっていて、それをとても愛おしいと思った。
「ありがとな」
藍は小さく微笑んだ。
「これから、毎年あげるから。だから...だからずっと、ずっと一緒にいようね」
◆
あの日から匠は藍のことを女の子として意識するようになった。でもだからと言って、告白したりとかそんな勇気はなくて、相変わらず仲の良い幼馴染みという立場を貫き通していた。
藍に想いを伝えたい。
何度そう思っただろう。でもそれ以上にこわかった。告白して上手くいけばいい。でも失敗したら?もう元通りの関係にはなれないだろう。それだけ10年という月日は重たいものだった。もし藍という存在をなくしてしまったら...そう考えると匠は動けなかった。
藍は毎年律儀にチョコレートを渡してくれた。毎回「これは義理だから」という言葉も忘れなかった。だから匠は真意を図りかねていた。このチョコレートは一体どういう意味なのだろう、と。少なくとも好意はあるのだろう。けれどその好意は、幼馴染みとしての好意にすぎないと思っていた。
でも、もしかしたらそれは真実ではないのかもしれない、と最近の匠は考えるようになっていた。オレ達はお互いの想いに鈍感だった。相手の想いに気づこうとしていなかった。少なくともオレはそうだったのだ。自分の気持ちばかりで、たぶん藍の気持ちを考えようとしていなかったのだ。
匠はベッドから勢いよく起き上がる。
この1ヶ月のオレがまさしくそうだった。藍の気持ちを考えていなかった。ちゃんと向き合わなければいけない。ちゃんと言葉に、行動に示さなければいけない。オレは幼馴染みというものに囚われすぎていたのかもしれない。どんなに長い付き合いの幼馴染みだって、言葉にしなければ伝わらないんだ。
もう待たせるものか。
今度はオレが勇気を出す番だ。
◆
そして、3月14日。放課後。図書室。
入り口からそっと覗くと、藍はいつもの指定席で本を読んでいた。ノートや問題集が広がっているけど形だけみたいだ。司書の先生に軽く会釈しながら、忍び足で藍の正面の席に座る。
匠は頬杖をついて、藍を見つめた。
左手の親指でページをなでる、その仕草。太陽の光に透けて茶色く染まる柔らかな髪。きちんと着こなした制服。
完璧な世界だ。
静かな図書室。あたたかな陽だまり。遠くから聞こえる、サッカー部のかけ声や吹奏楽部の軽やかなメロディー。オレの大切な女の子。
ふと、藍が顔をあげた。
「―――っ!」
目を見開いて、口をパクパクさせる。
「な、なんで...」
匠は口元で人差し指をたてて、にっと笑う。藍の頬が赤く染まる。
「この前はありがとな。チョコレート、うまかった」
図書室で発する声は小さいのに、どうしてか大きく聞こえる。司書の先生は、いつのまにか奥の部屋に行ってしまったようだ。心臓の音がうるさい。藍にも聞こえてしまうじゃないか。
「だから...だから、今度の日曜日、お礼させてくれ。映画見て、そのあとケーキでも食べよう。オレのおごり。見たい映画あるって言ってたろ。...な?」
「そ、それって、なんか...」
デート、みたいだね。
藍の唇がそう動いて、うつむいてしまう。なあ、藍、
「オレとデートしてくれ」
藍はうつむいたまま、本をパタンと閉じた。髪のすきまから覗く耳が赤い。
匠はふっと息をついて、藍のシャーペンとノートを引き寄せた。迷いながらペンを動かして、そして藍の視線の先に返す。
『好きだ』
藍はぱっと顔をあげて、
「...うん」
はにかみながら頷いた。
◆
「ぜったい、駅前のケーキ屋さん!」
「げっ、あの店高いじゃん」
「いいでしょ、あんたのおごりなんだから。今、いちごフェアやってるの。約束ね!」
藍といつものように肩を並べて帰る。言い合いをしながら、匠はほっとしていた。
匠は、二人の関係が変わるのがこわかった。それは、片思いでも、両思いでも。フラれても、恋人になっても。
幼馴染みとか、恋人とか、そういうたった一言で表される型にはまった関係でいたいわけじゃなかった。ただ、ずっとそばにいたかった。大事な人と、笑ったり、ケンカしたり、仲直りしたり、当たり前の日々を一緒に過ごしたかった。そしてその場所が、できれば一番近くだったらいいと、そう思っていた。
「日曜日、遅刻なんてしないでよ。楽しみにしてるんだから」
オレ達は不変ではいられない。
ずっと17歳ではいられない。
いつかはこの制服を脱いで、新たな世界に進む。
環境が変わって、季節が移ろって、月日は流れてゆく。
それでも君を大切に想う気持ちは変わらない。今をしあわせだと思う気持ちを忘れない。
「約束するよ」
二人は手をつないだ。
日曜日はきっと晴れるだろう。
fin.