2月14日 滝澤藍
幼馴染みのバレンタイン。
今年も2月14日がやってくる。
バレンタインを明日に控え、滝澤藍は自宅のキッチンでチョコレートの準備をしていた。主に高校の友達と交換するためのチョコレートである。
すべてを包み終えて、ふーっと息を吐き出すと、ドアから小学生の妹の茜が入ってきた。
「わー!おいしそうなにおい」
「茜の分はあっちよ」
指差した先には味見用兼家族用のチョコレート。
「ありがとう、お姉ちゃん!…あれ?その袋だけ色がちがうよ?」
目を輝かせながらテーブルの上を眺めていた茜が目敏く見つけたのは、淡いピンクの中にひとつだけ青色の包み。思わずドキッとする。
「……そうよ、これは別。ピンクのは大事な友達用。青いヤツはただの義理チョコ」
茜はパッと笑顔を浮かべて何か言おうと口を開いたが、それを先制するように藍はてきぱきと片付けてさっと立ち上がった。
「食べていいのは1個だけだからね」
それだけ言ってキッチンを立ち去った。視界の端で不満そうな顔をした茜が見えたけれど、ここは逃げた者勝ちだ。
自分の部屋に入って一度大きく深呼吸。そして紙袋の中の青色の包みをじっと見つめる。
そうよ、これはただの義理チョコなのよ。どうせ女の子からチョコレートなんてもらえないんだから。だから、わたしが仕方なくあげているんだから。
その時、不意に机の上のケータイが振動した。メールの差出人は幼馴染み。
『明日チョコレート忘れんなよ!』
はいはい、わかってますよ。
藍はひとつため息をつくと、短い返事を送信した。
『りょーかい』
毎年2月14日の恒例行事。
それは幼馴染みの北山匠に義理のチョコレートを渡すことだった。
◆
2月14日。
すべての授業が終わり、掃除も済んで、みんながそれぞれに移動を始める。帰る者、部活に行く者、友達と話し続ける者…。藍は同じクラスの岩崎芽生と廊下でダラダラと話をしていた。人の流れを見るともなしに見ていると、芽生がねぇ、と口を開いた。
「藍って、ホントに北山と付き合ってないの?」
驚いて芽生のほうに顔を向けると、彼女の様子はからかうものではなく、真面目な調子だった。
「……ないない。わたしたちがそんなんじゃないってこと、芽生が一番知ってるじゃない」
芽生とは中学の時からの付き合いだ。藍と匠が幼馴染み以上の関係じゃないことは、中学時代の同級生はみんな知っている。
「そうだよね、そう言うと思ったよ」
「あり得ないわよ、あんなヤツ。わたしたち、小学校に入る前から知ってるのよ?ガキだし、すぐ調子に乗るし、不器用だし、寝起きも悪い。それにアイツ、昔はわたしより背低かったんだから――」
芽生があっ!と声に出したのと、藍のほっぺたがぎゅむと引っ張られるのが同時だった。
「いたたたたたたっ!」
「余計なことをペラペラとしゃべってんじゃねーよ」
顔を見なくてもわかる。匠だ。
手をぱしっと叩いて振り向きながら睨みつける。
「何すんのよ」
「チビだったのは昔の話だろーが。オレはまだまだ成長中だぜ?」
匠は自慢気に、にっと笑って藍の髪をくしゃっとかき回す。
「それに藍よりも視力いいし、体育の成績も上だろ。あと他にも――」
長くなる予感がしたので、藍は匠の体を180°くるりと回転させて背中をぐいっと押しやった。
「はいはい、わかったからさっさと生徒会に行ってこい!」
じゃーなーと手を振る能天気に向かって、はぁとため息をつく。
「…ねぇ、あれでホントに付き合ってないわけ?」
芽生は疑わしそうな目で見てくるけれど、断じてちがう。
「だって毎日一緒に帰ってるでしょ?」
それは図書館の閉館時間と生徒会の終わる時間が同じだから。
「あんなに仲良くて、お互いのことよく知ってるのに」
それは小さい時からずっと一緒に過ごしてきた幼馴染みだから。
「でもいいの?もしかしたら誰かに奪われちゃうかもよ」
………え?
「藍は北山のこと辛口評価だけど、彼、けっこうモテるんだよ。明るくて面白くて、そのくせ細かいとこにも気が回って優しいし」
「……芽生、もしかして、アイツのこと…」
芽生は慌てたように、手を顔の前でぶんぶん振った。
「わたしじゃないよ!クラスの女子がそう言ってて…。それにこの前、北山のクラスの子に聞かれたの。藍と北山が付き合ってるかどうか」
藍は普段の匠を思い返した。……ないない。あの匠が?食い意地が張ってて、ゲームばかりやって、毎日寝癖がついてるような、アイツが?
「……アイツがモテようがモテまいが、わたしには関係ないし興味もない」
きっぱりと力を込めて言うと、芽生は肩をすくめた。
「そこまで言うなら別にいいけどさ」
でも、と芽生は小声で付け足した。
後悔しないようにね、と。
◆
匠がモテる…。まさか、ね。
図書館の一番奥の窓側の席。いつもの席について、カバンから教科書やノートを出し、シャーペンを握る。英語の予習をしようと英文に目を通すけれど、まったく頭に入ってこない。
藍はノートをパタンと閉じて、頬杖をついた。さっきの芽生との会話が頭の中をぐるぐると巡っていた。
『北山と付き合ってないの?』
『彼、けっこうモテるんだよ』
いつも一緒にいるからか、小さい頃を知っているからか、そんなふうに言われてもピンとこなかった。
―――何なんだろ、アイツって。
藍が匠と出会ったのは物心がつく前。家が近所だったからなのか、気づいた時には仲良くて、お互いの家に行ったり、公園や川で遊んだり、いつも一緒だった。ケンカもたくさんしたけれど、楽しかった思い出ばかり。人と話すのがニガテな藍にとって、唯一の男友達であり、最大の理解者であり、一番本音で話せる存在。芽生にはあんなふうに言ったけど、匠のことをどう思っているのか、自分の心に聞いてもわからなかった。
「あら、どうしたの滝澤さん。勉強が手につかないなんて珍しいわね」
不意に話しかけられて、ハッと我にかえる。顔を上げると、目の前に司書の上野先生が本を抱えて微笑んでいた。藍もごまかすようにぎこちなく笑い返す。
「えっと…少し考え事を…」
「高校生だものね。たくさん考えて悩めばいいのよ」
「……そういうものですか」
「そうよ。…でも、悩みすぎたらダメよ。考えて考えて、それでもわからなかったら動いてみなきゃ。手が届かなくなる前に」
上野先生の言葉はなんだか難しかった。でも心に響くのはなぜだろう。
「滝澤さんも考えるだけしゃなくて、動いてみればいいわ。そうすることで見えるモノがあるはずだから」
動いてみたら、匠のこともわかるようになるだろうか。
遠くで6時の鐘の音が聴こえる。
◆
匠は大事な幼馴染みだ。
それは揺るがない事実で、偽りのない正直な気持ち。
でも、わたしたちはずっとこのまま変わることはないのだろうか。例えば、お互いの環境が変わって、人間関係が変わって、それでもずっとこのままでいられるだろうか。
わたしはたぶん、変えたくないのだ。
この居心地の良い“幼馴染み”という関係のままでいたいのだ。
だって、そうすれば誰も傷つかないし傷つけない。
だって、このほうが楽で面倒くさくない。
わたしはたぶん、考えることを放棄したいのだ。
でも人は変わる。
時間が経って、季節が移って、年を重ねて。そうしていくうちに、何かが少しずつ変化していくのだ。
例えば、こういうふうに――――。
「わたし、北山くんのことが好きです」
誰かの告白が聞こえた。
藍はぴたりと足を止める。
図書館から玄関に向かう途中の廊下。いけないとは思いつつも、角からそっと顔を出して様子を伺う。
廊下の先には、見慣れた匠の後ろ姿と、知らない女の子の緊張した面持ちが見えた。
「北山くんは他の男子とちがって優しくて…いっしょにいると楽しくて…。だから、もしよかったら、チョコレートもらってください!」
「………っ」
耐えられなかった。
藍は二人に背を向けて、脇目も振らず駆け出した。耳をふさいで目も閉じたかった。名前も知らぬ女の子のストレートな気持ちが胸に突き刺さる。
気がつくと玄関に着いていた。自然に足が止まる。待ってなきゃ。……誰を?匠を?この状況で?大事な大事な気持ちを盗み聞いてしまったのに?
匠はあの女の子といっしょに来るだろうか。そうしたら何気ない調子で冷やかせるだろうか。
もしかしたら一人でやって来るかもしれない。そうしたらいつものように言えるだろうか。「遅いよ」って何も知らない顔で言えるんだろうか……。
そこまで考えて震える手でケータイを開いた。
『ごめん、急用。先に帰る』
わたしはそんなに器用にできていないのだ。
申し訳なさや、悲しさや悔しさが一気にあふれて、目元を越えようとする。ぐっと唇を噛みしめて走り出す。
いつもなら二人でゆっくり歩く道を、今日は一人で駆け抜ける。一人分の足音。一人分の白い息。それがこんなにもさみしいなんて思いもしなかった。
さっきの場面が頭の中で何度も再生される。匠は受け入れるんだろうか。もし二人が付き合うことになったら、わたしはどうすればいいんだろう。これまでと同じように話せるの?いっしょに帰れるの?匠はこれまで通りかもしれない。でもわたしはこれまで通りになんてできない。気づかなかったころには戻れない。
だって、
「わたしも好きなんだ……」
小さくつぶやいた声は夜の闇に溶けていく。言葉にしたことで実感する。わたしは匠が好きだ。
今までずっと気づきたくなかった気持ち。
幼馴染みだと言いながら、ずっとそばにいたいと思っていた。
義理チョコだと言いながら、どれよりも注意深くラッピングしていた。
安全な場所から、幼馴染みという立場から、匠を独り占めしたかった。
「わたし……最低だ……っ」
このチョコレートは渡せない。だって義理なんかじゃないってわかってしまったから。
熱い涙がほおを流れる。
後悔が先に立てばいいのに。
気づけるチャンスはきっとたくさんあったのに。
でもどれほど後悔しても時間は戻らない。どれほど涙を流しても過ぎ去ったものは取り返せない。
ずっと走り続けたせいで息は切れ、全身に吹きつける風が痛いほどに冷たい。でも体の痛みよりも心の痛みのほうがずっと大きい。
「あっ!」
突然何かにつまずいた。そのまま道路に倒れる。
「………っ」
盛大に転んでしまった。ひざがじんじんと痛み、厚手のタイツも破けてしまった。
あわてて周りを見渡すが誰もいなかった。見られなくてよかった、とほっと息をつくと同時に、また涙があふれそうになる。
「何やってんだろ…」
恥ずかしくて情けなかった。立ち上がることもできず、顔を両手でおおってうずくまる。
そのとき。
「………藍!!」
聞き慣れた声が藍の耳に届いた。
◆
「匠……?」
なんで……。
匠は藍に駆け寄ってしゃがみこんだ。
「大丈夫か?けがしてないか?」
「うん……」
いつもの声の、いつもと同じ匠に安心して、止めた涙がぽろぽろとこぼれてくる。
「おい、そんなに痛かったのか?足ひねったか?」
あわてた様子の匠に、藍はふるふると首を横にふった。
暗がりの中でも匠がほっとしたように笑うのがわかった。
「ほら、用があるんだろ。立てるか?何ならオレが背負ってやろうか?」
ばかっと思わず言うと、匠は笑いながら手を差し出してきた。
手を伸ばしかけて、一瞬ためらう。けれど、その手を引っ込める前に、匠が手を取って起こしてくれた。
「あーあ、派手にやっちゃったな。早く家に帰って手当てしないと」
「匠」
そう呼びかけると、「どうした?」と藍の目をのぞきこんでくる。藍の罪を知らない無邪気な匠に黙ってるなんてできなかった。ちゃんと謝りたかった。
告白されているのを聞いてしまったこと。勝手に帰ってしまったこと。時々しゃくりあげながら、言葉を考えながら言う。
「ごめんね、匠。本当にごめん…」
匠は藍の手を握ったまま黙って聞いていたが、藍が話し終えるとおもむろに口を開いた。
「それってさ……オレに彼女ができると思って悲しかった、っていう解釈で合ってる?」
「ちっ……」
ちがう、とは言えなかった。顔が赤くなるのがわかる。
「……そっかー。なんだ、そっか!」
しかし匠は何だか嬉しそうに笑った。そして少しかがんで、藍と目線を合わせるようにした。
「オレ、断ってきたんだ。告白も、チョコレートも」
え……?
匠はいつものように、いたずらっぽい顔で笑った。
「オレは毎年チョコレートはひとつしかもらわないって決めてるんだ。……そいつにとってはただの義理みたいだけどな」
「―――――」
匠の言葉を聞いた瞬間、今までのバレンタインが走馬灯のように頭の中を駆け抜けていった。
そうか、わたしはずっと―――。
カバンの中から、そっとチョコレートの包みを取り出す。
「義理じゃない。……ちがったの、本当は」
心臓の音が匠にも聞こえてしまいそう。
「義理じゃなくても、もらってくれる?」
fin.
最後までお読みいただきありがとうございました。次回「3月14日 北山匠」掲載予定です!