3月14日 三浦透真
屋上のホワイトデー。
とある公立高校の数学教師、三浦透真は1人の卒業生のことを思い出していた。名前は水野紗夜。つい10日ほど前に卒業していった3年生である。授業の入っていない5限、缶コーヒー片手に一人屋上でぼんやりと空を見上げながら、彼女のことを考えていた。
水野紗夜と初めて会ったのは、彼女が二年生の時、数学の授業だった。その頃はまだ、水野はたくさんいる生徒のうちのひとりで、卒業したあとまで彼女のことを思い出すことになるとは思っていなかった。
何回か授業をするうちに、水野は数学がニガテで嫌いで、そしておそらく透真のこともよくは思っていないだろうということがわかった。それでも赤点を取るほどでもなく、透真としては特に手のかからない生徒という認識だった。
数学の授業以外に接点もなく、ほとんど話したこともなかった二人の関係が少しだけ変わったのは、その年のバレンタインデー。
あの日を思い出すと、今でも取り返しのつかないような甘くて苦しい気持ちになる。自分は教師として正しかったのか、出過ぎた真似だったのではないか…。それでも彼女を放っておくことは、あの日の透真にはできなかった。
◇
1年前、2月14日―――。
世の中はバレンタインなどという浮かれたイベントが流行っているらしいが、独身数学教師にとってはただの忙しいいつもの一日でしかない。
いつもと違うのは、教室がわずかに甘い香りがすることと、男女ともに浮かれているように見えること。仕事に追われ、恋人もいない透真には気にくわない一日であるものの、いちいち顔に出すわけにもいかない。黙々と仕事をこなし、休み時間には義理だかついでだかで女子生徒からチョコレートをもらい(それでも喜んでしまうあたり男は弱い)、授業を終え、副顧問をしているテニス部の練習をのぞいて、さてもう一仕事と数学研究室に戻ろうとしていた時だった。
人気のない静かな校舎。その中の教室のひとつ、二年B組に人影が見えた。電気もつけずに何をしているのだろう、と何気なく中をのぞいた。
一人教室に残っていたのは…見覚えがあるような…。確か、水野……水野紗夜だ。
何をしているのだろうと思ったが、何もしていなかった。ケータイをいじるわけでもなく、勉強や読書をするでもなく。ただ机に腰かけてぼーっとしているようだった。
しかし透真は彼女に声をかけずにまた歩き出した。別に注意することでもない。誰かを待っているだけかもしれないし。ただ何かが心の中で引っかかったものの、頭をふってその考えを追い出した。
仕事を片付けて時計を見るともうすぐ6時になるところだった。外は暗く、風が強く吹いている。そこでふっと水野のことを思い出した。さすがにもう帰っただろうな。それでも気になって、トイレに行くふりをして数学研究室をそっと抜け出した。
うす暗い教室に自分のくつ音だけが響く。B組の前について中をのぞくと、まだそこに水野はいた。さっき透真が見た時と同じ姿勢で。背筋をピンと伸ばしたその背中は凛としていて、なぜだか胸が締めつけられる思いがした。そして思わず戸に手をかけた。
◆
思い返せば水野はあの時、失恋したもろい心を抱えたまま、前にも後ろにも進めず立ち止まって途方に暮れていたのだろう。それを透真が強引に引っ張った。仕舞い込んだ気持ちを吐かせ、こらえていた涙を流させて。それをさせたのが自分でよかったのか、あのやり方が合っていたのか、今でもわからない。
透真は缶コーヒーを傾けた。苦味に思わず顔をしかめる。
あれは本当に水野のためだったのか、と自分の心が責める。確かに泣き止んだ彼女は晴れやかな顔をしていた。でも、教師として正解だったのか。失恋の痛手を癒すのがオレでよかったんだろうか。オレは教師としてではなく、三浦透真として彼女のそばにいてやりたいと思ってしまったのではないか…。
水野の涙と、そして飾らない笑顔を見た時、長らく忘れていた優しい甘い気持ちが心の奥底に広がった。そして気づいた瞬間に固くふたをした。オレは教師で、水野は生徒。それ以上でもそれ以下でもないのだから。
しかし、気持ちにふたをした透真のもとに水野はたびたびやってくるようになった。数学の教科書や問題集と、そして自惚れているようだけど、おそらく好意も携えて。
でも彼女は純粋に勉強ができるようになりたいのだと言った。
「わたし、大学に行きたいんです。先生や親に言われるからでも、まわりに流されるでもなくて本当に行きたい。三浦先生、言ったでしょ?いろんな思いをして、そうやって強くなっていくんだって。いろんな思いって、きっといろんな経験をしないとできないと思うんです。家を出て、ひとりで暮らして、たくさん勉強して、たくさんの人と友達になって、そうやって自分の世界を広げていきたい」
そして出来れば、と恥ずかしそうに前置きして、どうしても行きたい国立大があるのだと打ち明けた。
「今の成績じゃ到底ムリかもしれないけど。どうしてもそこに行きたい」
国立大に入るには、文系であっても理系科目は避けては通れない。水野は数学がニガテであったけれど、頑張って向き合う覚悟を決めた。
水野は本当によく頑張った。朝早くに来て、学校が閉まる時間まで勉強して。他の先生たちも彼女の努力する姿に感心していた。
点数が思うように取れなかった時や、伸び悩む時期になぐさめるのは透真の仕事だった。他の生徒や先生の目を盗んで、水野の好きなココアをごちそうしてやる日もあった。
そしてセンター試験が終わり、国立大の二次試験が迫った2月14日に、彼女は透真のところにやって来た。水野の目指す大学には二次試験には数学がないらしく、その頃には時々廊下ですれちがうくらいしか会うことはなかった。
◇
「三浦先生!おひさしぶりです」
「あぁ、水野。どうした?三年生は自由登校だろ」
「家だと集中できないから学校で勉強しているんです。…それに、今日は何の日か気づいてないでしょ」
水野は上目遣いでいたずらっぽく笑ってみせた。気づいてはいたが、わざと首をひねってとぼけてみせる。
「…さぁ、何の日だったかな」
水野は背中に回していた手を前に出して空色の包みを差し出した。
「じゃーん!今日はなんとバレンタインデーです!先生、いつもお世話になってます」
にっこり笑う水野をまっすぐに見ることができない。
「そ、そうか。ありがとうな」
どういたしまして!と嬉しそうに答えた水野だったが、だんだんと笑顔がしぼんでいってしまう。明るく振る舞っていても、緊張や不安をすべて隠しきることはできないのだろう。
透真は無意識のうちに水野の頭をぽんとなでた。
「大丈夫だ。お前が頑張っていること、先生がよく知っているからな」
そう言うと、水野は小さくうなずいて、ありがとうございますと笑った。
「そういえば、結局どこを受けることにしたんだ?」
水野の第一志望は聞いても「内緒です」と笑うだけで、いつまでたっても教えてくれないままだったのだ。
水野はいつかの時と同じように「内緒」と言った。
「受けるのは変わらず第一志望の学校です。まだ先生には教えないけど。…でも結果が出たら、必ず言います。会いに来るから、その時まで待っててください。絶対に、言うから―――」
◆
そして、一ヶ月が経った。
水野はまだ来ない。合格発表はもうあったはずなのだが。
研究室のドアが開くたび、水野が来たのではないかと期待する自分がいる。こんな気持ちになるのは学生の時以来で、この想いをどう扱えばいいのかわからない。年下の女の子なのに。自分は教師で彼女は生徒なのに。こんなふうに思ってはいけないとわかっているのに、そう思えば思うほど、彼女の姿や声を求めている。
水野が卒業してから、空いている時間はこうして屋上や他の場所に行くことが多くなった。水野と一緒に過ごした研究室は、彼女のことをどうしても思い出してしまうから。
「だめだなぁ、オレ…」
生徒の前ではあんなにえらそうに先生の顔をして言えるのに。自分のこととなると、どうしてこんなにだめなのだろう。前にも後ろにも進めないのはオレのほうだ。
見上げた空は明るい水色で、こんなにもあたたかい春がすぐそこまでやって来ているというのに。
「何がだめなんですか、先生?」
不意に後ろから明るく澄んだ声が聞こえてきた。それは聞き慣れた、彼女の声。
ゆっくりふり向くとそこには、
「おひさしぶりです。三浦先生」
いつもと変わらない笑顔の水野が立っていた。
◆
「水野……」
卒業式からそんなに経っていないはずなのに、急に大人っぽく見えるのは気のせいだろうか。少し会っていないだけなのに、こんなにも懐かしくて、
「先生、びっくりした?」
こんなにも―――。
「あ、あぁ。ひさしぶりだな、水野……」
水野はさわやかな白いセーターに、今日の空の色のようなスカート、そしてキャラメル色のスプリングコートを着てはにかんでいる。大人っぽく見えるのは、制服ではないからだろうか…。
「でも、どうして」
「この前言ったでしょ。結果が出たら必ず言うって。また会いに来るって言ったじゃないですか」
水野はゆっくり近づいて来て、人ひとり分のスペースを空けてフェンスにもたれかかる。
「……先生、あのね」
そこで水野は透真を見上げた。
「合格しました。どうしても行きたかった大学に受かりました」
その言葉を聞いた瞬間、熱い衝動が体の中を駆けめぐった。水野を思いっきり抱きしめてやりたかった。しかしすんでのところで抑えて、その代わりあの日のように彼女の頭をぽんとなでた。
「…そうか。よくやったな。よく頑張ったな。おめでとう、水野」
そう言うのが精一杯だった。
水野は微笑んだ。
「先生の、おかげだよ」
まったく、何を言っているのやら。
「先生は何もしてないぞ。全部、水野の努力の結果だよ」
水野は首を横にふった。
「先生がいたから、わたしは頑張れたんです。わたし、追いかけたかった。先生に少しでも追いつきたかった。わたしが受かったのは、どうして行きたかったのは、先生の母校です」
「……オレの?」
透真の母校は、ある地方国立大学の教育学部だった。
「学部はちがうけど…でも、これでわたしは先生の後輩だよ。…ね、先輩?」
水野のサラサラの黒髪が、空色のスカートが、三月の風に吹かれて軽やかに揺れる。恥ずかしそうに笑った顔が、まぶしくて、愛おしい。
「わたし、卒業したよ。もう高校生じゃないんだよ。もう、先生の生徒じゃないんだよ……」
水野はまくし立てるように言葉を連ねた。必死なその姿が、泣き出してしまいそうな儚さが、透真の心を締めつける。その言葉の意味がわからないほど鈍いつもりはない。でも。
「でもな、水野。先生は……」
「先生っ!」
彼女の目から綺麗な涙がひとつ、こぼれ落ちた。
「わたし、先生のことが好きです。ずっとずっと、好きでした。あの日わたしの話を聞いてくれたこと、勉強を教えてくれたこと、励まして応援してくれたこと、全部全部うれしかった。優しくて生徒思いの先生が好きでした。…ずっと我慢してた。困らせたくなかったから。でも、もうわたしは高校生じゃない。わたしは……っ」
もう、抑え切れなかった。先生だとか、生徒だとか、大事なのはそんなモノじゃない。
透真は紗夜を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
「……オレで、いいのか」
「先生がいい」
透真の腕の中でびっくりしたように息を呑んだ紗夜は、それでも透真の問いに迷わず答えた。彼女の答えは数学のように明快で潔い。
透真は思わず笑った。
先生でじゃなく、先生がと来た。そんなふうに言われたら、
「敵わないな……」
「え?」
紗夜には聞こえなかったようで「何て言ったんですか?」と聞いてくる。
紗夜の瞳をのぞきこんで、にっと笑ってみせる。
「好きだって言ったんだよ。オレも紗夜が好きだ。結婚してほしいくらいに」
そう言った瞬間に紗夜は顔を真っ赤にした。
「え!?名前……け、けっこん…!!」
あわてる様子がかわいくて、もう一度強く引き寄せる。
「約束なんか、しなくていい。でも、オレがそれくらい本気だってことを知っていてほしい」
紗夜はこれからどんどん大人になって、きれいになって、魅力的な女性になるだろう。これから紗夜が出会う同年代の男達が、彼女の魅力に気づかないはずがない。一番近くで見守ってやりたいのに、ただでさえ年の差があるというのに。
オレは自信がないのだ。だから“結婚”という言葉で少しでも紗夜を繋ぎ止めるものがほしかったのかもしれない。
「自信がついたら、ちゃんと言うから。それまで待っていてほしい」
そんな唐突な言葉にも、紗夜は力強くうなずいてくれた。
「はい、待ってます。先生のこと、大好きだから」
腕を緩めると、笑顔の紗夜と目が合った。
きっと、大丈夫。だって、オレも大好きだから。
「……そういえば、ホワイトデーのお返し、何がいい?」
照れ隠しにそう聞くと、紗夜は少しの間首をかしげていたが、ぱっと笑顔を浮かべた。
「先生、ちょっとかかんで?」
「ん?」
言われるままに、姿勢を低くすると、
「!」
目の前で黒髪が舞い上がった。
一瞬の出来事で、けれど彼女の熱が唇に確かに残る。
「もう、もらいました」
紗夜はそう微笑んでいるが…どちらかというと、もらったのはオレのほうでは?
まぁ、いいか。紗夜がこんなふうに笑っていてくれるのなら。彼女には涙よりも笑顔のほうがずっと似合う。
手を繋いで、お互いのぬくもりを感じて。
「ねぇ。先生、」
紗夜は透真を見上げた。
……わかってないなぁ。
「ばーか、言ったろ?先生じゃないって。…な、紗夜」
紗夜は目をまるくして、それから恥ずかしそうにオレの名前を呼んだ。
fin.
最後まで読んで頂きありがとうございました。
次回「2月14日 滝澤藍」掲載予定です!