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チョコレート・ホリック  作者: 水瀬 圭
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2月14日 水野紗夜

 2月14日―――それは女の子にとって胸踊る幸せな日であることは言うまでもない。でもその胸のドキドキは渡す前までの限られた時間らしい。そういうことを水野紗夜(さや)は17歳になって知った。


 ◆


 水野紗夜は生まれて初めて、男の子に義理じゃないチョコレートを渡そうと思った。相手は同じクラスの村上くん。席が近くなったことをきっかけに話すようになった。メガネをかけて知的な雰囲気で、クールに見えて、でも本当はとても優しい素敵な人。この気持ちを恋と呼ぶのかどうか、恋愛初心者の紗夜にはわからなかった。もしかしたら友情の延長かもしれないし、ただ憧れているだけかもしれない。でも今まで、姿を見ただけで鼓動が早くなることも、彼の前ではかわいくありたいと思うこともなかったから、これはきっと恋なのだ。たぶん。

 だから今年のバレンタインは勇気を出して村上くんにチョコレートを渡そうと思った。友達にあげるチョコチップクッキーと一緒に作って、1つだけ別のラッピングをして。丸い形の中に、こっそりハートの形を入れてみたりして。


 そうして、その日の6限が終わった後、帰り支度をする村上くんのもとに緊張しながら近づいた。

「水野さん、どうしたの?」

 どうやって渡そうか、何回も何回も頭の中でシュミレートした。告白する勇気はまだ出ないから、「いつもありがとう」って笑顔で言えたら。ほんの少しでも、わたしの気持ちに気づいてくれたなら…。

 トートバッグに入れた、チョコレートのラッピングに指先でそっと触れる。ほんの少しの勇気が……。

「え、えっと…その、今日はもう帰るの?」

 とっさに出た言葉はありきたりな質問。

「あ、うん…。今日はちょっと、これから予定があって…」

 あ……。

 その時の村上くんの顔を見て、紗夜は何かを直感的に感じた。たぶんそれは、胸のドキドキの終わりを告げる何かだった。

 紗夜は何気なさを装って―――普通(・・)の男友達に言うみたいに、茶化すように、表面上は笑顔で必死に言葉を吐き出す。

「……えー!?何なに?もしかして…デート?」

 村上くんはいつものクールな顔をほんのり赤く染めて照れくさそうに笑った。

 それは、初めての恋にしてはあまりにもあっけない、失恋のサインだった。

 紗夜はそのあと、どのようにして村上くんを送り出したのか、よく覚えていない。ただわかったのは、恋というものはチョコレートと違って全く甘くないということだった。


 ◆


 初めての失恋を経験した崩れそうな心を抱えたまま、紗夜は動くことができずに教室にいた。時計はもうすぐ6時をさすところで、かれこれ1時間以上も教室にいることになる。

 電気もストーブもつけず、冷たい机に腰かけて、ただただ窓の外の風景を眺めていた。外はもう、夜の気配が迫った暗さ。ただ、紗夜の眺める先は教室の蛍光灯の光によってうっすらと明るく照らされている。葉のついていない銀杏の木が寒風にさらされて、凍えるように震えていた。

 紗夜はマフラーを首に巻き、帰りの準備はできていたが、心の準備ができていなかった。

 自分の好きになった相手には、すでに好きな人がいた。いや、たぶん付き合っている人がいた。そんな人に「恋かもしれない」などと一人で勝手に舞い上がって、ドキドキしていた自分。逃げるようにごまかすように、笑って彼を茶化した自分。恥ずかしくて、やりきれなくて、たぶん悔しくて。いろんな気持ちがごちゃ混ぜになって、どうしていいかわからなかった。


 ◆


 遠くのほうからサッカー部の練習するかけ声や、吹奏楽部の奏でるメロディがかすかに聞こえる校内。そこに誰かの靴音が混ざる。それは確実にゆっくりと近づいてくる。

 紗夜は無意識にピタリと動きを止めて、じっと耳を澄ました。

 誰も気づきませんように、誰にも見られませんように…!

 必死に祈るのに、足音はどんどん近づいてきて、そして紗夜のいる教室の前で止まった。ガラッと大きな音を立てて教室の戸が開く。

「!?」

 紗夜はギクリと肩を縮め、反射的に戸のほうを振り返った。

「……あぁ、水野、か?驚かせるなよ…」

 紗夜は止めていた息をほっと吐き出した。

「何だ…三浦…先生かぁ。びっくりした」

 そこに立っていたのは数学の三浦透真(とうま)先生。20代で生徒とは10歳ほどの差があるにもかかわらず、童顔なせいか生徒の中に交ざるととても先生には見えない。しかし授業はとてもわかりやすいと評判で、生徒からの人気も高い。けれど紗夜は数学が大の苦手であり、なんとなく三浦先生のことも苦手としていた。

「おい、何だとはなんだ。今、呼び捨てにしようとしただろ」

 軽い調子で言いながら、電気のスイッチをパチリパチリとつけていく。

「まったく、電気もストーブもつけないで何やってるんだ?こんなとこにずっといたらカゼひくぞ。もう暗いし、さっさと帰れよ」

 紗夜は半分だけ振り向いた状態で先生の動きを目で追いかけたが、ふいっと顔を窓に向け直した。

「…別に、何してたっていいじゃないですか。先生こそ忙しいのに、何やってるんですか」

「こっちは仕事が一段落したところだよ」

 ふーん。紗夜は曖昧な返事だけして、先生と目を合わせないようにうつむいた。

 何だ、反抗期か?とからかうように言ってくるけど無視。


 どうしていつまでもいるんだろう。早く行ってほしいのに。

 するとうつむいた視界の端っこに、先生のカーディガンの裾が入ってきた。

 本当に、早く行って。もう、我慢できそうにないから。

「水野」

 低くて少しかすれた優しい声。

 お願い、もう、無理だから。

「何があった?」

 ぱたぱたっ。

 手の甲に水がこぼれ落ちた。目の奥が熱い。視界がゆらゆら揺れている。ぽろぽろ、ぽろぽろ。雫がこぼれていく。

 泣いていた。

 人前ではぜったい泣かないのに。我慢してたのに。見られるのが恥ずかしくて、ごしごしと手の甲で涙をぬぐう。それでも止め処もなく涙が溢れてくる。


「泣けよ」

 その言葉にはっと顔を上げると、先生は窓の外を見つめたまま、

「泣いていいんだよ」

 もう一度つぶやくように言って、紗夜の髪をくしゃくしゃっと無造作になでた。


 時々しゃくりあげながら、紗夜はぽつぽつと今日起こったことを話し始めた。

 初めて恋かもしれないと思ったこと。

 自分の好きな人には他に好きな人がいたこと。

 気持ちを伝えられなかったこと。

 こんな自分が情けなくて恥ずかしいということ。


 どうしてこんなにも素直にすべてを打ち明けているのか、紗夜にもわからなかった。

 今までほとんど話したこともない先生なのに。でも余計な口を挟まずに、ただ傍で耳を傾けてくれる、その距離感がなんだか嬉しくて安心した。嫌いな数学の授業の時は、当てられないように小さくなって、目を合わせないように教科書やノートばかり睨んでいた。一人の人間として見ていなかった。苦手だと思い込んでいたのは先生の表面しか見ていなかったからなんだ。


 先生が渡してくれた薄いブルーのハンカチは、涙でしっとりと濃いブルーに染まってしまったけれど、そのハンカチに吸いとられるように胸の内の暗くもやもやした気持ちが浄化されていくようだった。


 ◆


「落ち着いたか?」

 先生は優しい顔で紗夜をのぞきこんだ。普段の授業では見せないその表情に、紗夜は思わずドキッとする。赤くなった鼻先と泣き腫らした目元は隠しようもなく、今さらながら恥ずかしさでいっぱいになった。紗夜は腕を顔の前に上げて、無駄と知りつつも先生の視線をかわそうとした。

「あの!本当すみません…。いきなり泣いて、愚痴も言って、あげくにハンカチまで借りてしまって。みっともないし、すごく恥ずかしい…」

 体の内側から熱が広がっていくように、恥ずかしさで全身が火照る。穴があったら入りたいとは、まさにこの状況を言うのだろう。

 顔を見なくても先生がふっと笑ったのがわかる。

「安心しろ。どうせ高校生なんて、みんな恥ずかしい時期なんだから」

「んなっ…何それ、大人のヨユー!?」

 反論しようと先生の顔を見ると、笑っているのに何だか寂しそうで、紗夜は口をつぐんだ。

「そうだな…今はまだわからないだろうけど…。今はつらいと思っていても、いつか懐かしく思い出す日が来る。きっと」

 先生は紗夜の瞳をじっと見つめた。

「失恋したって、けんかしたって、失敗したっていいんだ。つらい思いや恥ずかしい思いをして、そうやって強くなっていくんだ。…だから泣きたい時は泣けばいいし、愚痴だっていくらでも聞いてやる」

 そして、紗夜の頭をぽんと優しくなでた。

「それが、オレの仕事だ」

 …あぁ。先生はわかってたんだ。帰れなくて動けずにいたことも、泣きたいのに泣けないでいたことも。全部。

 きっと、先生は他の誰がこうしていても、同じように手を差しのべるのだろう。

 わたしだからじゃない。

 紗夜にとっては特別な一人の先生でも、先生にとって紗夜はたくさんいる生徒のうちの一人なのだから。

 それが普通。それが当たり前。

 なのに、どうしてだろう。それが寂しくて悔しくて。胸の奥がチリチリと痛む。


「…先生、お願いがあります」

 でも、いつか追いつくから。

「何だ、改まって?」

 紗夜はトートバッグから小さな包みを取り出して、先生にぐいっと押しつける。

「これ……もしかして、渡せなかったヤツ、か?」

「ちっ、ちがいます!足りないと困ると思って多めに作っちゃったんです。何ていうか、お礼っていうか…。おいしいか自信ないけど…。もらってくれたら、嬉しいかなって…」

 もごもごと言い訳をしている隣で、先生はさっそく包みを開けてぱくっとクッキーを食べてしまった。

「って、早っ!」

「水野も食うか?うまいぞ」

 何で人にあげたものを自分が…。けれど先生がぱくぱく食べているのを見たら、思わず笑ってしまった。

 ひとつ口の中に入れると、サクサクと音を立ててクッキーが崩れていく。チョコレートのちょっと苦くて、そして甘い味が舌の上に広がる。

「これうまいな。意外と料理上手?」

「意外と、は余計です!」

 この気持ちを何て呼ぼう。

 ただの憧れかもしれない。慰めてくれたのが、先生だったというだけかもしれない。きっと先生はわたしのことを子供としか見ていないだろうし。

 でも、今はそれでいい。

 間違ったって、失敗したっていい。

 今はそばにいられるだけで十分なんだ。


「先生。今度、数学教えてください」

 明日からは数学の授業が楽しみになりそうな、そんな予感がした。


 fin

「3月14日 三浦透真の場合」(仮)も掲載予定!

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