残された宿題
夏祭りの次の日、澤江貴義はいつもの水飲み場へと向かうが、深水真菜は姿を見せなかった。家まで探しに行き、戻るとそこで待っていたのは……泣き疲れた石橋香織だった。
残された宿題
次の日、どんな顔をして会えばいいのか分からなかったのだが、いつもの水飲み場で待っていても、真菜は来なかった――。
一人ベンチで、昨日、真菜と話したことを思い出していた。
「日本に帰ることは――ない。一学期の終わりに私も覚悟した。あの頃はムシャクシャして何にでも八つ当たりしていた。香織が、思い出作りを提案してくれたの――」
「いずれは来る別れを知って――思い出作りを手伝ってくれた。おかげで後悔せずに済みそう――」
「文通? ――駄目……よ」
「貴義から一生――離れられなくなっちゃうじゃない」
「――人生で一番大事な期間なのよ。前を向いて生きるために、思い出にしがみついて生きていくなんて、できないよ――」
なんで泣くのか分からなかった。
泣いてまで我慢しないといけないことじゃないだろ!
急に立ち上がった。
こうしてはいられない! 真菜の家まで全速力で走った。
別れる日が来るまでに、連絡先を聞き出さなければ、僕はこれからどうやって生きていけばいいんだ!
もぬけの殻みたいになってしまうじゃないか!
真菜の家について愕然とした。昨日は気づかなかったがカーテンがなかった。
――まさか、そんなまさか!
誰に聞いたらいい? 先生か? 友達か?
「クソッ!」
地面を蹴って学校に向かって走る。
拳を爪を立てて握る。
水飲み場に、体操服でベンチに座っている真奈がいた!
「真菜!」
今までの日常が、奇跡だと感じた。
立ち上がってゆっくり振り返ったのは真奈ではなく、石橋香織だった――。
表情を失ったような顔をしていた。
「真菜は今頃――飛行機の中よ」
石橋は聞いていたんだ――。
真菜が今日、日本を離れることを!
昨日、他の友達は冷やかしても、石橋は逃げるように走り去った。
喫茶店でパフェを食べた時、最後に、「こんなことは時間の無駄」って言ったのは――、
石橋の時間でも、僕の時間でも無い――真菜の時間だったんだ!
残り二日になった貴重な時間を、僕と石橋に過ごさせた。
真菜が泣いて頼んだから仕方なく来たって石橋が言ったが、冗談としか思ってなかった。
――本当に泣きながら頼んだんだ!
腕で涙を拭く。
石橋はそれを見守っていた。
もう涙なんて枯れてしまった――そんな顔をしていた。
「ここで、これを渡してって頼まれた」
――エロ本だった。新品の。
裏側で渡すから、裸婦がさらけ出ている。
「澤江って本当にバカでスケベね。真菜からの置き土産なのよ。早く受け取りなさいよ!」
すごく嫌われた。
僕が受け取ると、石橋は泣きながら走って帰ってしまった。
もうどうでもよかった。
こんな本も、どうでもよかった。
真菜が――僕が本当に欲しいものを誤解しているようで――少し可笑しかった。
別れ際にエロ本なんてものを親友に託すか――?
こんなものを宝物だなんて言っていた自分が滑稽で恥ずかしい。
――ん?
表紙に落書きがしてある。
『バカ! スケベ! こんな本読んでる暇あったら……次のページへ』
と書いてある。
乱暴な黒マジックの走り書きだった。
ゆっくりと表紙をめくる……。
『宿題しろ! 勉強しろ!
いい男になったら――、
――ヒューストンに来い!』
ページいっぱいの大きな字で書いてあった!
両手に鳥肌が立った。
喉の奥が熱くなる――。
そうだった! 僕の宿題は終わっていない!
真菜の気持ちが伝わった。
僕たちは終わってなんかない!
そのために真菜は一つの条件を出してきたんだ。
――いい男になったら――
なってやる!
真菜に似合ういい男に絶対なってやる!
連絡先を真菜は教えてくれなかった。僕のことを思ってなんだ。
いつになるか分からないが、真菜が待っている。
いい男になってヒューストンに行くんだ!
家に帰ると、真っ白だった夏休みの宿題を開けた。
いつの日か真菜がしてくれた宿題がやりたくなるおまじない……、今頃になって効くなんて。
自分の力でやると決意した!
夏休みはまだ終わらない――。
ヒバグリホンが始業式の後、教室で真奈からの手紙を読んだ。
「えー、『急に転校してびっくりさせたかもしれませんが、父の仕事の都合上、みんなの顔を見て別れの挨拶ができなくてごめんなさい。私は、アメリカのテキサス州、ヒューストンというところへ行きます。日本のみんなと一緒に勉強やクラブができて……』」
堅い内容の手紙だった。
クラス委員だった真菜の立場上、本音とかは書けないんだろうなあ。
僕の家にも手紙も来ないし、電話もない。
ヒューストンについて色々調べたけど、州の名前じゃなかったことすら僕は知らなかった。
――三組の石橋とは連絡を取っているのだろうか?
もし、知っていても教えるなって言われているんだろうなあ。
僕がいい男になるまで――か。
「『えー、最後に』……先生は、必ず読んでって書いてあるから読むんだぞ――」
一体、何のタメだ。
勿体ぶりやがってっと全員が思っただろう。
ヒバグリホンの顔が少し赤い気がする。
「ごっほん、ええー、『最後に……澤江貴義君は、私の彼氏だから、絶対に盗らないでね。以上! 深水真菜より』」
寂しかった教室の雰囲気が、次はあっけにとられていた……。
年甲斐もなく赤い顔をした担任が、手紙を封筒にしまう。
静寂が広がる――。
――ヒバグリホンは今、――なんて言った?
今度は僕の顔が赤くなる。
教室内では、誰もが声を発するタイミングを失っている。
「――ップ! 誰も盗らねーって!」
上野が吹き出して声を大にして言うと、息をするのを思い出したように教室は笑いの渦が巻き起こった。
「マジかよ! 大笑いだぜ」
「えーうっそー、全然お似合いじゃないじゃない」
「はっはっは、はっはっゲッホ、ゲッホッ!」
二年になっても、笑ってむせ返る奴はいた。
顔を真っ赤にして僕はうつむいた。
――絶対に次に会った時に文句を言ってやるんだ。あの手紙は何だって――!