本当の宿題
夏祭りも終わりに近づいた時、深水真菜が本当の宿題が残っていると言いだす。澤江貴義はその宿題を手伝うために深水が好意を抱いている上野裕樹を呼びに行くが、上野に「やなこった」と断られてしまう。
本当の宿題
「え? 宿題終わったって前に言ってただろ。見せてって言っても見せてくれなかったじゃん」
「違うの。私の本当の宿題は、全てを話すこと。告白することなの」
誰に告白するんだ?
今、わざわざ僕の前で言うのだから、相手は僕なんかではないのだろう。
ここまできて――残念な気がした。
「わたし。2学期は引っ越しして違う学校に行くの」
――え!
――何だって! そんな急に?
って言うか、今の今まで内緒にしているなんて!
「引っ越しって一体どこに行ってしまうんだよ!」
両手で肩を掴んでいた。
「近くなのか?」
せめて県内と言って欲しかった。冗談でもそう言って欲しかったのだが……。
「ううん。ヒューストン」
効果音のような地名。
今も花火はそんな音を立てて続いているが、視界に入らなかった。
真菜の顔がぼやけて見え始める。真っ暗になってしまうかと恐怖も湧いた。
地理の成績も悪かったが、ヒューストンが日本の地名ではないことくらいは分かった。
「――だから、日本で最後の夏休みに、やり遂げられなかったこと、やり残したことを全部やっておきたかったの……」
喫茶店に入って前から食べたかったパフェを食べたり――、
大好きな映画を見たり――、
海に行って思いっきり泳いだり――、
浴衣を着て夏祭りを楽しんだり――、
「なんだけど、本当にやりたかったことは、違うの。意気地無しの私が、好きな男子に思いを伝えること。告白すること……」
そのために僕が出来ることを必死で考えた。
真菜のために今、一生懸命にならないといけないと思った。
そうじゃないと、一生後悔する! 絶対に後悔する!
震える唇を噛みしめて両手を拳にした。
「先に言えよ! ――今日、僕とここで、こんなことしている場合じゃないじゃないか。まだ間に合うよ」
花火はまだ上がっているが、大勢の人が帰り始めていた。
「えっ?」
野球部のエースは今日、夏祭りに来ているはずだ。湧き水のところまで出会わなかったから、僕達より遅くに来ているはずだ。
「真菜の好きな上野を探してくる。絶対に連れて来てやるから待ってろ!」
偉そうにそう言って走り出した。
絶対に呼んで来る――自信があった。
僕は練習をして試合をして、コールド負けをした。
だが、真菜はまだ練習しかしていない。
試合をするなら、絶対に勝たなくっちゃいけない。
もし負けたとしても――、
負けて欲しいなんて想像していたら、急に前が見えなくなり左足を小さな水路にとられた。
「冷てえ!」
脛を溝で打ち擦りむいた。靴には水が入りドボドボになった。
サングラスを外してポケットに入れた。
くそぉ――。
顔を袖で拭くと、砂利道をもう一度のぼり始めた。
何人かにぶつかって、その度に謝った。
降りていく人をかき分けて上っていく。
いつものように服は汗だらけになっていた。
――ついに見つけた!
野球部のイケメン集団。
最後に滝の水を飲んで帰るところだった。
駆け寄って上野の両腕を掴んだ。
「ハア、ハア、頼む、僕と一緒に来て欲しい」
「澤江じゃないか。何だ何だ。なに用だ?」
上野はただごとではなさそうな僕の姿を上から下まで見る。
「今日は体操服じゃないんだな」
周りの野球部がドッと笑った。
「ここでは言えない。ちょっと来てくれ」
上野だけを友達から少し離れたところへ誘うと、やれやれとでも言いたげについてきてくれた。
僕より背が20センチは高い。少しかがんで話を聞いてくれた。
言いたくはなかったが、連れていくには言うしかなかった。僕は涙目でお願いをしたのだが、
「ははは、やなこった」
真剣に取り合ってくれない。
いつもの上野からは想像できないひどい応対に、苛立ちと焦りを感じた――。
「もう会えないかもしれないんだぞ! 一生! 話ぐらい聞いてやれよ!」
そう言う僕の頭を太い腕で挟んで締めつけた。
ヘッドロックというプロレス技だ。他の野球部がおーおーやれやれーと遠目に面白がっているのが悔しくて、涙があふれた。
「お前バカだから教えてやるよ」
頭を腕で抱えこまれたまま、僕だけに聞こえるように上野が言った。
「――俺はあいつの事好きだったけど、あいつが好きだったのは俺じゃない。周りが騒ぎたてていただけさ」
「嘘だ、あいつは上野のことを話したら、知ったかぶらないでって怒ったんだ。まだ好きだったんだ」
頭を締めつける力が一段と強くなって、急に弱くなる。
「だからお前はバカって言われるんだよ。深水真菜が好きだったのは。一年の時から――お前だったんだよ」
――嘘だろ。
一年の時?
バカでスケベで……チビでデブだった。
そんな僕を好きになるわけがない――!
パフェをおごったりとか、映画をおごったりとか、お金だって一円も真菜のために使った覚えはない。
真菜は弱みを握っておごってくれるから、練習といって僕と付き合ってくれただけなんだ!
「嘘だ! そんなの証拠も何にもない」
「お前にはないだろうが、俺にはあるのさ。――俺が深水に告白した時、それを断る時に自分で言ったんだから間違いない。俺だけの絶対の秘密だった。お前なんかに負けた気がしたから絶対に誰にも言わなかったがな」
ヘッドロックを解いてくれた。
「だから、お前の方こそ、こんなところで俺とこんな話している場合じゃないんだよ。今すぐ走って行ってあいつの気持ちを聞いて、答えてやれ! ――男として!」
喉が熱くなる。何も言わずに一目散に駆け出した。
「あいつのああいうところが良かったんだろうかなあ。女心は分からない」
僕の背を見て上野がつぶやいた。
真菜は階段でずっと待っていた。僕が一人で走って帰って来ても驚かずに座っている。
僕も横に座った。
息を整えてから口を開いた。
「上野に話したんだけど、来てくれなかった。ごめん」
何も言わない。
「それで、真菜が好きなのが上野じゃないって……言ったんだ」
少しずつ顔が赤くなっていく。
――本当に?
――僕なのか?
僕は石橋香織が好きだって一年の時には知られていた。
好きな子とは簡単に話なんてできないと打ち明けていた――。
今――、真菜とも簡単に話ができなくなっていた。
花火が終わり、人が次々と流れるように帰っていく。
屋台の照明と、灯篭の灯が上から順に消え始めていく。
「後悔しないように全部話すね。――私、一年の時から貴義が好きだった……好きになったの」
重たい空気が動きだす。
「なんでだよ、僕のことが嫌いだったんじゃなかったのか?」
石橋香織が好きなことをバラされて、僕は怒った――。
僕のことが嫌いだから言いふらしたはずだった。
「好きな女子にワザと嫌がることする男子っているでしょ。女子も同じよ……少しでも気を引きたかった。それに、好きな人が親友のことを好きって知って――私も子供だったの。ごめんね」
真菜の瞳は星の光で輝いていた。
「でも、どうして――」
一年の時は、チビでデブでバカでスケベだった。
真菜みたいな賢い女子が好きになる要素なんて全くない。
上野と比べて、それを上回るところなんて一欠片もなかった。
「貴義。優しいでしょ」
首を横に振る。
「そんなことないよ。真菜に優しくできた覚えなんかない。今まで真菜に冷たくして、悪いことをしてきたと後悔してるんだ!」
「ううん。優しかった――」
思い出すように星を眺めて、一度目を閉じて僕を見る。
「一年の一学期に理科の実験でカエルの解剖したの覚えてる?」
「カエル? ――ああ、覚えている」
解剖用のカエルを僕がたくさん捕まえてきたんだ。
小学校の裏川で。
「あの時、先生はクラス委員が捕まえてこいって言たわ。男子のクラス委員は嫌な奴だったから、すごく困っていたの。カエル嫌いだし……そしたら、貴義が、手を挙げて捕まえてきてやるよって言ってくれた」
「ああ、確かにそう言った。でもあれは、ただ小学校の裏にたくさんいたのを知ってたから、僕なら簡単だと思って言っただけなんだ。真菜のために言ったわけじゃなかったんだ……」
真菜のための優しさじゃなかったんだ――。
顔を下げて浴衣の膝のところに顎を置いて真菜が微笑む。
「解剖が終わった後のカエル。一人で学校の裏に埋めに行ったでしょ」
「えっ、……ああ」
僕のせいで、死なずに済んだはずのカエルが死んだんだ。
他のみんなが嫌がっていて助かった。
僕の手で埋めないといけないと思ってた。
誰も見ていないと思っていた。
「私……あとをつけていたの。そしたら埋め終わったカエルのお墓に手を合わせて、
――元の川に埋めてあげられなくてごめん――
そう言ったよね。私、聞いてて……涙がこぼれてた」
真菜の瞳から一滴こぼれた――月の光がそうさせているようだった。
一字一句、間違いなくそう言ったのを覚えていた……。
「好きな人に優しくするなんて当たり前。好きだから気を引きたくて優しくしているだけ。好きじゃなかったら優しくできないの。でも貴義は違う。貴義の優しさは、自分の感情で変わってしまうような優しさじゃない。子供だった私の心は、あなたの優しさに――奪われた」
「――真菜」
下を向いてすんすん言う。
「もし引っ越しがなかったら……こうしてこんな話をすることもなかった。引っ越しするから、私は最後に自分の気持ちを全部伝えておきたかったの。だから、こうしてここで話していられるのも引っ越しのおかげなんだなあって思えるの……」
クスッと思いだしたように笑う。
「――あの本、私が先回りして置いたのよ」
「え?」
「あなたの気を引いて、話す口実を作るために。――親友が相談に乗ってくれたわ。貴義なら絶対これに引っかかるって笑い合っていたの」
じゃあ僕は、あの本を拾わなかったら――取り返しのつかないことになっていたのかもしれない――。
真菜は笑ったが、瞳からこぼれ落ちる煌きは止まらなかった。
自分のせいで女子に涙を流させてしまった時、どうしていいか分かるはずがない。
何て声をかけていいのかも――。
恋愛の練習なんかではなかった。
一秒たりとも練習の時間などはなかったのだ。
止めることのできない砂時計の砂が、勢いよく落ちていく……。
「ごめん……?」
慌てて取り消す。
「あっ、これは、真菜の気持ちに対してじゃなくて、真菜を泣かせてしまってごめんってこと。僕が鈍感だったから、せっかくの限られた時間を無駄にしてしまって――」
「無駄なんかじゃないよ……。今までで一番楽しかった夏休み……」
月は隠れ、星の光だけになった――。
真菜の肩にそっと手を置く。
渾身の勇気を振り絞って、真菜の唇に僕の唇を重ねた。
一瞬の時が永遠のように感じ、それなのに終わりがくることにどうしようもない悲しみを感じた……。
最初から真菜の気持ちに気づいていたなら、二人の夏休みはもっと有意義になっていた……。
僕はどんくさい奴だ。
今、どんくささにつくづく腹が立っていた――。
「ありがとう。私の願い聞いてくれて」
クシャクシャの顔をして抱きついてきた。
「――行きたくない! ヒューストンになんか……行きたくない!」
真菜が告げた本音だった。
涙がおさまるまでそっと抱きしめてあげていた。
家の前まで送ると、ここでいいよと言って手を放した。
何か言おうとした時、口封じのキスをされた。
「――じゃあね」
「じゃあ……」
大き家の門をくぐって家に入っていった。
派手な外車は2台ともなかった――。
表札も見当たらなかった――。
それが何を意味するか。気づくことができなかった。
――ただただぼんやりと家まで歩いた。
あと何日会えるのかが不安になる――。
急に気持ち悪くなり、食べた流し素麵を全部吐きだした。
嗚咽して、月の下、星の下を泣いて歩いた。
――誰もいない田舎道を……怪我をして泣く小学生のように歩いた。
何時か分からないが、家の前で父親が腕を組んで待っていた。
遅くなるなら心配するから連絡しろと言ってた。……言いつけは守っていなかった。
何時から家の前で待っていたのだろうか――。
僕の肩を2回だけ叩くと、何も言わずに一緒に家に入った。
親父の手は――大きかった。